「没後30年 菅井汲」(広島県立美術館)開幕レポート。「未来の美術」を求めて走り続けた菅井の画業と人柄に迫る

広島市内にある広島県立美術館で、パリを拠点に世界的な活躍を見せた美術家・菅井汲(1919〜96)の回顧展「没後30年 菅井汲」が開幕した。会期は12月6日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=三澤麦(編集部)

第2章「未来の美術を求めて」の展示風景
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 広島市内にある広島県立美術館で、戦後パリを拠点に世界的な活躍を見せた美術家・菅井汲(1919〜96)の回顧展「没後30年 菅井汲」が開幕した。会期は12月6日まで。担当は角田新(同館担当学芸員)。

 菅井は、阪急電鉄のデザイナーとしてキャリアをスタートさせた後、1952年に渡仏。東洋的な情調を感じさせる抽象絵画で早くからパリの美術界で注目を集め、世界的評価を確立した。その後も「太陽」やイニシャルの「S」をモチーフにしたシリーズ、徹底的にマチエールを排した幾何学的なスタイルなど、画風を果敢に変貌させながら「未来の美術」を追い求めた。

菅井汲

 「菅井が生涯をかけて取り組んだ表現に注目するとともに、その人柄にも触れてほしい」。そう語るのは学芸員の角田だ。会場には初期のデザイナー時代から晩年に至る作品が一堂に会するほか、作品の設計図や日常のなかで生まれた造形物、写真など、手元に残された貴重なプライベート資料も関係者のコラムとともに展示されている。

菅井の画業の基盤となった「制約」と「自由」

 展示はプロローグとエピローグ、そして4つの章で構成される。プロローグ「デザイナー菅井汲」(1941~52)では、阪急電鉄時代に手がけたポスター作品を紹介(前後期で6点ずつ公開)。言葉の選択やインクの使用量に戦時下の制約がにじむものの、その制限のなかでいかに自由な表現を目指したかが伝わる。この姿勢にこそ、菅井の画業の原点があると角田は見ている。

プロローグ「デザイナー菅井汲」と第1章「自分自身の表現を求めて」の展示風景

 戦後になると、海外の新しい美術の動向が画面に表れ始める。菅井は働きながらも画家への夢を諦めず、最新の潮流を取り入れつつ、日本画家・中村貞以や具体美術協会の創始者・吉原治良に師事した。時代の表現を貪欲に吸収していく様子が、冒頭から如実に読み取ることができる。

絵画作品は左から《朝のオートルート》(1964)、《オートルート》(1964)、《マッス・グレー》(1964)。両脇の立体作品は左から《無題》(1970頃)、《黒》(1964)。「海坊主」のシルエット以外にも○△□の形状が多用されているが、角田はこれを「禅(仙厓義梵)に関心があったのではないか」とも推測している

 阪急電鉄を辞め、画業に専念し始めた頃の軌跡は、第1章「自分自身の表現を求めて」(1952~67)でたどることができる。雑誌を通じてジャクソン・ポロックやアレクサンダー・カルダーらアメリカの抽象美術に刺激を受け、自身の表現を追い求めて渡仏。パリに渡ってわずか2年あまりで名門・クラヴァン画廊での初個展を経験するなど、瞬く間に脚光を浴びた。

 当時の作風は「ソフト・アブストラクト」とも言われる詩的な絵肌が特徴で、現地の批評家からは「日本的」「東洋的」と評され、菅井自身もその表現を深めることで評価を確立していく。いっぽうで、そのレッテルに違和感を覚え、「自分自身の表現とは何か」の探究に向かうこととなる。これが後の代表作にも見受けられる「ハード・エッジ」表現への確立につながった。絵肌をそぎ落としたその変化は、自らのコントロール下に置かれた精密さのなかに「未来の美術」とその可能性を見出していたのかもしれない。

《黒》(1964)ブロンズ

 この時期の作品には、「世相の投影」と「同一形状の連続」というわかりやすい特徴が浮かび上がる。例えば、《DIABLE PARTANT POUR LA LUNE(月へ旅立つ鬼)》(1963)や《月へ》(1965)といったタイトルには、1960年代の冷戦下における熾烈な宇宙開発競争の影響が感じられる。また、いくつもの楕円が重なる「海坊主」と称される形状が複数の作品に繰り返し出現する点も目を引く。「冷蔵庫にあった3枚の薄切りハムの重なりから着想した」と語られるこのシルエットは、菅井のお気に入りとして絵画やオブジェへと展開された。展覧会の冒頭でありながら、早くも菅井の人柄が浮かび上がる構成となっている。

「未来の美術」とは何か

 第2章「未来の美術を求めて」では、1968年の「第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ」における菅井の展示が再現されており、本展のハイライトとなっている。会場では当時の展示写真をもとに、実物、再現作品、幕プリントなどを組み合わせ、当時の臨場感をたっぷりと体感できる。

第2章では、「第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ」の様子が写真をもとに再現されている

 特筆すべきは、ビエンナーレ出展を控えた前年、菅井が愛車のポルシェで大事故を起こし、首の骨を折る瀕死の重傷を負っていた点だ。制作活動の危機に直面しながらも、翌年にはこれほどの群作を完成させて出展をはたし、69年には東京国立近代美術館の大壁画《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》を手がけた。身体の自由を奪われた制約から、アシスタントとの協働やユニットの組み合わせによる制作へと手法を転換した意義は大きい。描くことへの執念と強い個性がひしひしと迫ってくる。

《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》(1969)紙にシルクスクリーン 広島県立美術館。本作は同名の大型壁画のための下絵を版画作品としたもの
東京国立近代美術館のための大型壁画《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》(1969)の再現 美術館の吹き抜けで見ることができる

 本章では「太陽」「フェスティヴァル」「VARIATION(ヴァリアシオン)」といった重要シリーズもあわせて紹介される。会場の随所に散りばめられた写真資料や知人らのコラムからは、画家としての矜持と人間味が浮かび上がり、作品の鑑賞体験をより深いものとしてくれる。

同じ要素を組み合わせてイメージを変化させる「VARIATION(ヴァリアシオン)」シリーズ。画面に近づくほどに、完璧に塗られた色面や精密な線に驚かされる

葛藤の果てに

 10年以上にわたり独自のアプローチで「未来の美術」を模索し続けた菅井であったが、1980年頃になると、生きているうちにその理想へは到達できないのではないかという不安に苛まれるようになったという。ならばと、それまで封印してきた荒々しい筆致による制作へと突入したのが第3章「表現の揺らぎ」(1980年代初頭~90年代初頭)だ。ここでは、造形表現を楽しみながらも、制作への葛藤が読み取れる「S」のシリーズを軸に展開している。

第3章「表現の揺らぎ」より、菅井汲《S.23 S.24 S.25 S.26》(1991)キャンバスに油彩、アクリル絵具 広島県立美術館

 あわせて、絵画以外の仕事や作品の精密な設計図も本章では紹介されている。デザイナーとしての出自が、菅井の画業を一貫して支える骨格であったことが理解できる展示だ。

菅井による「トランプ」(1973)。ヌーベルイマージュ社の依頼でデザインを手がけた
「S」シリーズの関連資料。どの絵画もしっかりとした設計図のもとに制作されていたことがうかがえる

到達点としての「カドミウム・レッド」

 最終章「マチエールを排して」の冒頭を飾るのは、菅井の代表作であり到達点とも言える「カドミウム・レッド」のシリーズだ。赤・白・黒という厳格な色彩の制限と、約2メートルにもおよぶスケールで構築された画面が、圧倒的な強度をもって鑑賞者の前に現れる。全40点20組からなる本シリーズの構成をめぐって、膨大な組み合わせが模索されたことを示す写真群も必見だ。

第4章「マチエールを排して」より、《Rouge-de-Cadmium11. 12(カドミウム・レッド11. 12)》(1992)キャンバスにアクリル絵具 広島県立美術館
「カドミウム・レッド」シリーズの組み合わせを検討したと思われる写真の数々

 デザイナーの出自や時代の潮流に影響を受けながらも、そこに留まることを拒み、「菅井汲だけの表現」を追い求めて現代美術の最前線を駆け抜けた菅井。本展に出品された初期から晩年までの絵画群と、それを裏付ける綿密な設計図などの資料が、その真実を雄弁に物語っている。

エピローグ「菅井汲という人」より、自身が使用していた絵具のチューブや筆をオブジェとした作品群
菅井が監督を務めたソフトボールチーム「フェスティヴァル」のユニフォームや優勝記念の写真
菅井の妻・光との写真や資料

 エピローグでは、菅井のプライベート資料や妻・光にまつわる資料が展示されている。「他者からの影響を退け、断固として己を貫こうとしたこと」「過去の作品には執着しないと語りながらも、愛用した道具やマケットを手元に遺し続けたこと」。散りばめられたエピソードの向こうから、「菅井さん」という一人の人物の素顔と熱量が、鮮やかに立ち上がってくる展覧会であった。

1階に展示された「ポルシェ911カレラRS2.7」は、菅井が生涯最後に愛用していたもの