菅井汲とは何者だったのか。20世紀美術史研究・速水豊に聞く

戦後のパリで脚光を浴び、東洋的な情調を感じさせる抽象絵画や、徹底的にマチエールを排した幾何学的なスタイルなど、画風を果敢に変化させながら独自性を追い求めてきた画家・菅井汲(1919〜96)。その画業の初期から晩年までを紹介する特別展「没後30年 菅井汲」が広島県立美術館で開催される(10月2日〜12月6日)。菅井の生い立ちから人物像、絵画観、そしていま菅井作品と対峙する意義はどこにあるのか。三重県立美術館の館長であり、20世紀美術を専門とする速水豊による言葉で迫る。※10月2日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

聞き手・構成=三澤麦(編集部)

菅井汲。1970年代、愛車ポルシェの前で 写真提供:広島県立美術館
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ポスターデザイナーから「孤高の画家」へ

──戦後のパリを拠点に制作活動を行い、評価を確立した菅井汲は、そもそもどのような生い立ちや環境から美術の世界へ足を踏み入れたのでしょうか。

速水豊 菅井は、現在の神戸市にあたる武庫郡御影町で生まれました。実家は祖父の代まで薬問屋を営んでいましたが、父親は音楽家を目指しており、母親も芸術への関心が非常に高い人物でした。菅井が芸術に惹かれたのは、こうした家庭環境や両親の血を受け継いだ面が大きいでしょう。

 ただ、幼少期に両親が離婚し里子に出されるなど、決して恵まれた環境と言えるものではありませんでした。それでもデッサンや絵を描くことを好み、やがて大阪にあった美術学校へと進学します。美術学校は中退したようですが、縁あって阪神急行電鉄(阪急電鉄)に就職し、事業宣伝課でポスターデザインなどを手がけることになります。

──菅井自身が宣伝美術に強い関心をもっていたのでしょうか。それとも当時、美術を学んだ若者にとっては一般的な選択肢だったのでしょうか。

速水 美術学校を出たからといって、すぐに画家として食べていける時代ではありません。まずは生活の基盤を得る意味合いが強かったのだと思います。会社で働きながらも画家への情熱を捨てず、公募展などに応募もしていたようです。

 当時菅井が制作したポスターは現在も残っており、今回の広島県立美術館の展覧会でも紹介される予定です。いわば「画家・菅井汲」になる前の仕事ですが、当時のデザイン誌でもすでに高い評価を得ていました。

徹底した個の追求と、パリでの開花

──菅井は働きながら、美人画を得意とした日本画家・中村貞以や具体美術協会の創始者・吉原治良といった、まったくタイプの異なる2人に師事していますね。そこにはどういった背景があったのでしょうか。

速水 後年のインタビューなどを読むと、当時はかなり自分のスタイルを模索していた様子がうかがえます。「ひとりの師に弟子入りしてその道を究める」というよりは、日本画を試してみたもののしっくりこなかったり、吉原の勧めで二科展に出すもことごとく落選したり。画家として生きていきたいのに芽が出ない、という強い焦りと模索の渦中にいたのでしょう。

──その後、菅井は会社を辞め、1952年にパリへ渡ります。当時はジャクソン・ポロックやアレクサンダー・カルダーなどアメリカの抽象美術に影響を受けていたそうですが、なぜ渡航先にパリを選んだのでしょうか。また現地での交流はどのようなものだったのでしょうか。

速水 海外への強い憧れはあったようです。ポロックやカルダーなどアメリカの最新の美術にも関心を示していましたが、本人の発言によると、一番の理由は「渡航費と滞在費の安さ」でした。経済的な現実からパリを選んだわけです。

 戦前の画家にとってパリで学ぶことはある種のステータスでしたが、戦後は美術の中心がニューヨークへ移っていく過渡期でした。当時のパリにも日本人の芸術家集団がいたものの、菅井は当時の記事によると、「パリでほかの日本人画家とほとんど付き合わない画家」として知られていました。本人曰く「嫌いだったわけではなく、制作に没頭していて付き合う暇がなかった」とのことです(*1)。

 パリの美術学校グランド・ショミエールにも籍を置きつつも、誰かに教わるというよりは、徹底して自分自身の頭で考え抜いてスタイルを築いていきました。

──パリでの初期作品と、現地での評価について教えてください。

速水 初期の菅井はパウル・クレーを好んでおり、その影響を感じさせる作品を描いていました。しかし同時に、「誰かの模倣ではなく、いかなる流派にも属さない独自の個でありたい」という意識が非常に強い人物でもありました。

 50年代前半の作品は、マチエールや色彩に繊細な揺らぎがあり、そこに黒い線で人物や動物、風景のようなモチーフが描かれた、味わい深く素朴で土着的な魅力をもつものでした。これが渡仏後わずか2〜3年で現地のコレクターの目に留まり、画廊と契約を結ぶなど、異例の早さで評価を高めていきます。

菅井汲《沖(OKI)》(1960)キャンバスに油彩 161.2×129.5cm 島根県立美術館

 50年代後半になると画面は大型化し、漢字のような象形文字、あるいは日本の紋章を思わせるフォルムを太い黒線で力強く描くスタイルへ変化します。こうした作品は、批評家たちに「東洋の書道」との類似性が指摘され、日本人ならではの美学として受け入れられていきました。

──1950年代後半には、藤田嗣治との2人展も開催されていますね。

速水 この2人展はロンドンで開催されたものです。画廊側が「日本人画家」という括りで企画したものと考えられ、2人の直接的な交流はほぼなかったようです。

 こんな逸話もあります。パリの日本人画家たちで「藤田を中心にグループ展をやろう」という話が持ち上がった際、菅井は「藤田さんのような巨匠に頼ってしまっては、画家の独立性が保てない」と参加を断ったそうです。「私の前に菅井はなく、私の後にもまたないであろう故に描く」(*2)という言葉を若くして残しているように、どこまでも個の独立性と独自性を追求した人物でした。

*1──小川正隆「粘り強い根性〔現代日本の100人・美術 菅井汲〕」『文藝春秋』43巻7号、1965年7月号、301頁など。
*2──「Kumi Sugai: 覚え書」『菅井汲:作品集1952-1975』美術出版社、1976年、144頁。初出は次の展覧会カタログのJean-Clarence Lambertのテクスト。Kumi Sugai, Städtisches Museum Leverkusen, Schloss Morsbroich, 1960.

ポルシェ、スピード、そしてハードエッジへの転換

──菅井作品の代名詞には「ポルシェ」や「スピード」といったテーマが挙げられます。これらはいつ頃から作風に取り入れられたのでしょうか?

速水 きっかけは1960年、パリ郊外にアトリエ付きの家を購入したことでした。交通の便が悪かったため車を購入し、やがて愛車はポルシェへと変わります。画家として大成した時期ですね。

 作品に大きな変化が現れるのは1963〜64年頃です。それまでの筆痕や複雑なマチエールをあっさりと捨て去り、均一に平塗りされた色面と、シャープな輪郭をもつハードエッジな様式へと一変しました。これは菅井の画業における最大の転換点と言えるでしょう。

菅井汲《朝のオートルート》(1964)キャンバスに油彩 195×154.5cm 東京国立近代美術館

 本人も「これまでは『静的な緊張感』を表そうとしたが、これからは高速で車を走らせるときの『動的な緊張感』を表す」(*3)と語っています。この頃の作品にも《朝のオートルート》(1964)など、高速道路や自動車を連想させるタイトルも増えていきます。一般に「菅井汲の代表作」として知られるのはこの時期の作品ですね。

 ちなみに菅井の車に同乗した知人は「とてつもない猛スピードで走るから恐怖しかなかった」と振り返っています。

──車を運転する感覚や「動的な緊張感」は、具体的にどう絵画へ落とし込まれたのでしょうか。

速水 高速道路の運転は、わずかなハンドルのブレや判断ミスが即座に大惨事へつながります。その命がけの緊張感が、菅井の狂いのない精密な画面設計に直結していると考えられます。60年代後半には「50メートル先から見ても一目でパッとわかる絵を描きたい」とも語っていました(*4)。

 また、詩人/評論家の大岡信も指摘していますが、菅井作品において一貫した特徴と言えるのが「正面性」です(*5)。奥行きや傾斜といった構図を排除し、記号的なフォルムが画面中央から鑑賞者へ向けてダイレクトに訴えかけてくる。これは菅井自身の好みでもありますし、ポスターデザインを手がけていた頃の経験とも無縁ではないかもしれません。この「正面性」は菅井の描くフォルムのシンメトリー(対称性)に由来します。シュルレアリスムにも通じたフランスの作家、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグも、菅井の画集のなかでこのシンメトリーに触れ、観客とダイレクトに結びつく強い力があると評価しています(*6)。

大事故からの「不屈の再始動」

──1967年、菅井は運転中に大事故に遭い、重傷を負います。この出来事は彼の制作にどのような影響を与えたのでしょうか。

速水 当時の菅井はヴェネチア・ビエンナーレ(1962)やサンパウロ・ビエンナーレ(1965)など国際展で輝かしい賞を受け、キャリアの最高峰にいました。そんな最中、高速道路で対向車を避けようとして大事故に遭い、重傷を負ってしまいます。しかし、驚異的な意志の力でリハビリを乗り越え、翌年のヴェネチア・ビエンナーレに出品。69年には東京国立近代美術館の大壁画《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》を完成させるなど、凄まじい執念で復帰を果たしました。

菅井汲《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》(1969)紙にシルクスクリーン 50.5×182cm 広島県立美術館

 この時期、菅井は助手を雇って制作するようになります。「自分の設計図通りにでき上がるなら、実際に手を動かすのは自分以外の人間でも、機械でも構わない」という考え方です。これは事故による身体的制約というより、彼がもともと秘めていた思考の顕現と言えます。

 小さなマケット(下絵)を正確に描き、電卓で精密な比率を弾き出し、指定した回数だけ正確に色を塗り重ねる──極限まで徹底された「システマティックな制作プロセス」を採用したのです。

*3──Morita, Iida, Sugaï, Galerie Brusberg, 1965.(邦訳:東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館編『菅井汲展』同展実行委員会、2000年、206頁)。
*4──松原特派員「17年ぶりの帰国を飾る大作 パリで油絵制作の菅井汲氏」『毎日新聞』1969年1月9日夕刊。
*5──大岡信「菅井汲──回想と展望」『菅井汲展』西武美術館、1983年、60頁。
*6──André Pieyre de Mandiargues, Sugaï, Le musée de poche, George Fall, 1960, pp. 31-32.(邦訳:『菅井汲:作品集1952-1975』美術出版社、1976年、125-126頁)。

菅井が追い求めた美学「カドミウム・レッド」へ

──1980年代後半から晩年にかけての展開についてもお聞かせください。

速水 菅井には「本当はまったく同じ絵だけを描いて個展をやりたい」「無駄を徹底的に削ぎ落としたい」という極端な美学がありました。1970年代以降の「VARIATION」や「フェスティバル」といった、同じ基本形を反復するシリーズにその思想が表れています。

 画業の後半は、そういった明確なルールをもったシリーズ作品が増えていきます。1987〜91年の「S」シリーズでは、縦長の同一フレーム内に「S字フォルム」を配し、色や質感にバリエーションを加えました。これは当時のニュー・ペインティング(新表現主義)の潮流とも連動したものとも考えられ、周囲からは高く評価されました。しかし菅井本人は納得がいかず、「色とマチエールにバリエーションをもたせてしまった。比較的多くの人が良いといってくれたので、余計に全部同じものをつくるべきだったと思いを強くしています」と反省したのです。

菅井汲《Rouge de Cadmium11. 12(カドミウム・レッド11. 12)》(1992)キャンバスにアクリル絵具 250×264cm 広島県立美術館

 そして、その強い反省から生まれたのが、最晩年の傑作「カドミウム・レッド」のシリーズです。色彩を赤・黒・白の3色だけに絞り込み、変化を徹底的に排除することで、圧巻の存在感と強度を突きつけました。菅井の画業における「到達点」と言えるでしょう。

 かつて建築家の原広司との対談で、菅井は「自分の絵画は意味をもたない記号であり、意味のない記号によって他者(鑑賞者)と関係を結びたい」と語りました(*7)。また「将来、絵画は機能をもつべきだ」「その機能がなんなのかはわからないが、未来の人たちがそれを与えてくれるだろう」「何百年も先に生きる人々にもパッと一目で受け止められるような作品をつくっている」という趣旨の発言もしています。菅井の独特な絵画観を表すエピソードですね。

 版画制作においても、限定部数で高値を付ける美術市場のやり方に反対し、「駅の売店で売る本のように、何千部も刷って誰もが気軽にアートを所有できるようにすべきだ」と主張していました(*8)。菅井はつねに、美術を広く社会や未来へと開こうとしていたのです。

いま、菅井汲の作品と対峙する意味とは

──没後30年を迎えるいま、私たちが菅井汲の作品と向かい合う意味とはなんでしょうか。

速水 菅井汲は、画集や印刷物で見るのと、実物を見るのとで、もっとも作品の印象が変わる画家のひとりです。とくに画業後半期の大作は、遠くから眺めても、至近距離で細部を凝視しても、完璧に塗り込められた色面と寸分の狂いもない線によって得られる情報量がまったく変わらないという、特異な強度をもっています。

 微妙な筆のタッチに、画家の生々しい息遣いや感情の痕跡を味わうような絵画鑑賞とは正反対の、圧倒的な「正面性」と「フォルムの強さ」。大画面作品を展示空間のなかで身体全体を使って体験することこそが、菅井作品の本当の醍醐味と言えるでしょう。

 これほどの規模で作品が一堂に会する機会は非常に貴重です。いま、この時代だからこそ、ぜひ会場でその「実物」の強度を体験していただきたいですね。

*7──原広司vs菅井汲(対談)「一億人から離れてたつ」『一億人から離れてたつ 異貌の画家 菅井汲の世界』現代企画室、1982年、76頁。
*8──「菅井汲/東京閑談抄 いずれ、日本に帰りたい」『プリントアート』12号、1973年7月号、8-13頁など。