なぜウルス・フィッシャーは、自分自身を溶かし続けるのか
自らをかたどった彫刻が、会期中にゆっくりと溶け崩れていく。東京・北青山のファーガス・マカフリーで開催されている、ウルス・フィッシャーの日本初個展「間違い探し」。鏡像のように並置されたふたつの“自己像”を通して、フィッシャーはコピーと実像、人工と自然、そして「イメージ」とは何かを問いかける。来日したアーティストに、美術家・美術批評家の石川卓磨が話を聞いた。※5月16日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。
聞き手・文=石川卓磨

東京・北青山のファーガス・マカフリーにて、ウルス・フィッシャーの個展「間違い探し」(Machigai Sagashi – Spot the Difference)が開催されている(4月11日〜7月4日)。
本展は1階と地下に分かれ、それぞれ異なる構成をとっている。1階には、フィッシャー自身が精確にトレースし、等身大よりも一回り大きなサイズでつくられたほぼ同一の彫刻《Mirror》が一対、隣り合う2つの空間に設置された。2体はランダムに切り抜かれたような穴を介して向かい合う。《Mirror》はフィッシャーが継続的に取り組んできた「キャンドル・ポートレイト」の一作であり、開幕初日に点火された。その後3ヶ月の会期を通じて、それぞれが独立して溶解し、垂れ、崩れ落ちながら、蝋の滴りが床面に蓄積していく。会期終了時、溶け残った蝋は取り除かれ、保存されたオリジナルの型から彫刻はふたたび点火前の完全な姿へと鋳造される。
地下では、打ちっ放しのコンクリートの床についた傷や汚れなどの痕跡を精密に撮影しプリントした壁紙で壁面を覆うインスタレーションが展開している。その痕跡が壁へと転写されることで、空間に視覚的な連動が生まれる。空間に設置された配管は壁面上にも複数コピーされており、実物とそのイメージとが重なり合うなかで、鑑賞者はそれらのあいだの視覚的な齟齬を意識するようになる。そして、粘土で即興的に造形した小彫刻を彩色ブロンズで鋳造した作品と、遊戯的なドローイングが点在する。本展のために来日した、フィッシャーに展示作品について話を聞いた。
なぜ「間違い探し」なのか
──「間違い探し」という、ユーモラスで遊び心のあるタイトルはどうやって思いついたんですか?
フィッシャー 私は、間違い探しのゲームが好きでね。2つの似たイメージを見比べて小さな違いを見つける。このギャラリーには鏡のように似た2つの部屋があって、そこから鏡像関係の彫刻をつくるという発想につながったんだ。彫刻にキャンドルとして火が灯されると、溶けていく過程で、2つの彫刻はそれぞれ別のものになっていく。


──展示は1階と地下の二層構造になっていますよね。この構造はずっと温めていたアイデアですか、それともこの展示のために考えてきたものですか?
フィッシャー 2つの部屋はまったく異なるキャラクターを持っている。だから自然な捉え方は、ほぼ2つの別々のショーとして考えることかな。でもつながっているとも言えるんだ。上の階には、2つの部屋を仕切る壁をくり抜いて、写真機材を用いて再現した彫刻作品がある。下の階は、床面を精密に撮影し転写した壁紙──壁の傷や光の加減まで再現した高解像度の壁紙──による作品と、小さな彫刻作品だ。1階の彫刻は、写真的な手法によって存在感をつくり出し、重量を感じさせる。それに対して、地下の彫刻は小さく、いわば手づくりのもの。仕上がりや重さにおいて対照的だ。いっぽう、壁のアプローチは反転していて、1階の壁はフリーハンドで輪郭を描いて手作業でくり抜いている。地下は、いわゆるアプロプリエーション(流用)(*1)で、床の表面が機械的な手法で壁面へ転写されている。2つの階の作品を接続させるとすれば、全体として身体的なジェスチャー(身振り)と写真的なアプロプリエーションのコントラストを逆転させていると言えるね。

ロウソクでセルフポートレイトをつくる意味
── なぜセルフポートレイトとして自分を使うことにしたんですか?
フィッシャー 自分自身に対してなら、何をしても誰も文句を言わないだろう。だから、自分じゃなければダメだというわけじゃない。他の誰かでもつくれたかもしれないけど、自分の顔というのはとても見慣れている。歯を磨くとき、服を着るとき、自分を見る。それは比喩的なニュアンスももつから、誰かを選ぶよりも自分自身を使うほうが、いろんな意味で納得がいく。私にとってこの作品は、セルフポートレイトというよりも、もっとも自然なイメージを扱っているんだ。今回はたまたま自分になったが、重要なのは、彫刻そのものが普遍的なイメージでなければならないということだ。誰でも彫刻に適しているわけではない。友人はたくさんいるけど、ほとんどの友人のポートレイトはつくっていない。ポートレイトの作品を長くつくってきたが、作品数はそれほど多くない。
でもある特定の人物のなかに、普遍的な何かを感じることがある。例えば、ある友人は背が高くて、いつも下を向いて考えごとをしている。彼をモデルにしたら、良い彫刻になると思った。彼からはいつも世界の重さを感じる。その性質のなかに何かがあるんだ。
── 西洋絵画のなかでは、ロウソクはメメント・モリ(死を想え)というような象徴的なモチーフとして描かれますよね。どうして彫刻の素材にロウソクを使用しているのでしょうか。
フィッシャー 始めたときはそこまで自覚的ではなかったけれど、確かにロウソクという素材は、多くのものを含んでいる。メメント・モリなども、もちろんそこに含まれている。しかし、これは具象彫刻をつくる素材の選択の問題でもあるんだ。大理石などでつくると記念碑(モニュメント)のように仰々しくなってしまうが、ワックスはより体の柔らかさに近い。そのため記念碑のように感じさせることなく、ポートレイトをつくることができる。ブロンズや大理石のように重苦しくなく、具象と向き合う方法としてロウソクを選んでいるんだ。

そして、私がこの素材を気に入っているのは、人間がつくった秩序と、自然の秩序の対比を生み出せることだ。ロウソクが溶けることは、ランダムな現象に思えるが、一滴はいつも似たサイズになる。滴は(と実演しながら)こんなふうに垂れる。ロウソクは溶ける過程で多くの滴を生み出す。その流れをある程度コントロールしたり方向づけたりすることは可能だが、基本的には自然の成り行きに委ねられている。それは人工的な秩序と、物理法則ないし自然界の秩序との混合といえるかもしれない。人工的で完璧なものをつくり上げたとしても、いずれそれは解体していく。だからこの衝突は避けられない。ある意味では解体であるが、同時にその過程自体が新たなものを生み出していく。人間が整備した道の隅から植物が静かに育ち始めるように、自然が少しずつ支配していく感覚がある。彫刻が融解していくことで、それは自然の一部となっていくんだ。
──自然のシステムを意識しているということですね。
フィッシャー ええ。人間も自然の一部だからね。すべては自然だから。彫刻をつくり上げたとき、それがただの物質(素材)に過ぎないと感じることがある。そのフラストレーションのなかで、彫刻に命を宿らせたいという欲求が生まれる。小さな炎があると、それが命になる。炎は彫刻を溶かし始め、形を少しずつ変えていく。動きのあるものとなる。溶けることによって、彫刻はただの物質ではなくなるんだ。
──キャスティング(型取り・鋳造)は形状を正確に転写し複製を作成する手法なので、同じサイズになると思いがちですが、あなたの作品は対象を機械的に精確に再現しながらも、大きくしたり小さくしたりサイズを変えていますよね。それはなぜですか?
フィッシャー 伝統的な彫刻の手法を考えると、むしろそれは自然なことだ。また、同じサイズでキャストすると、彫刻として小さく見えてしまうんだ。自分と同じサイズの彫刻を作ると小さく見える。だから、サイズを現実のままにするのではなく、どう見えるかという認識を大切にしている。また、溶けるときに少し大きい方が好きなんだ。壊れにくくもなるし、溶ける形象としても、脆弱性を感じさせたくない。鑑賞者の目線より高いところから始まることで、空間との関係がまるで変わってくる。でもサイズの決定はその都度違う。大きくつくるときもあれば、小さくつくるときもあるよ。
──形象の脆弱性について触れましたよね。
フィッシャー そう、そうは見せたくないんだ。それは生命的なものではなく、たんにモノとして作品を見ることになるからだ。
──どのようなことを考えて具体的にサイズを決定するのですか?
フィッシャー 作品のモチーフとなる実物のイメージとも関係している。ときどき屋外で巨大な作品をつくるが、開けた自然の風景のなかに置くと、まったく大きく見えないことがある。サイズというのは相対的なんだ。イメージにはサイズがない。心の中のイメージには、本来サイズというものが存在しない。小さなものを大きく思い描くこともできるし、大きなものを小さく捉えることもできる。だからある意味では、直感的な決断で、特定のルールに従ったものではない。
──そのような考えは、あなたがまずアーティストとしてのキャリアを写真から始めたことと関係があるのでしょうか。
フィッシャー 私は多様な表現形式で作品をつくってきた。そして、使うメディアがサイズを決定すると思う。例えば絵を描くとき、それは体のサイズに関わっている。キャンバスが小さければ、座って描く。より大きければ足も使う。体全体を動かす。メディアと直接作業するとき、行為の直接的な痕跡が記録としてメディアに残る。シルクスクリーンのような技術的なメディアの場合、そういう性質はない。
彫刻は、伝統的に考えても、コピーをするときにサイズを変えることは普通のことだ。ルネサンスの彫刻の制作プロセスを見ると、まずすべての動きが完璧になるまで粘土モデルをつくり、それからキャリパー──測定してサイズを変える道具──を用いて異なるスケールの彫刻作品に写し取る。ヘンリー・ムーアのような大きな彫刻をつくる作家は皆、オリジナルを拡大する手法を積極的に用いている。巨大な作品を直接つくっていくのではなく、小さなサイズで制作し、それを拡大する。実物サイズより大きな彫刻は、伝統的で非常に一般的なことだ。絵画や素描のように身振りや痕跡を直接的に記録できる技法は、彫刻においては多くない。キャスティング、窯焼きなど、変換の過程を経ることが多い。
彫刻にはモデリング(加算)とカーヴィング(減算)がある。減算彫刻というのは彫ること。彫ることでは行為を直接的に記録できる。こうするかああするか、より直接的に判断できる。痕跡をどこに残すか。そういう意味では、より伝統的なメディアだ。いっぽう、直接的な記録が不可能な彫刻は、大きな船のようなものだ。止まるのに30分かかる船は、あらかじめすべてを準備しておかなければならない。プロセスが始まったら、その30分のあいだは何も変えられない。粘土は直接性がある。しかし窯で焼かなければ持続しない。焼くためにはひびが入らないようつくらなければならず、その時点ですでに自由ではない。より技術的な制約のなかで作業しなければならないんだ。
実像と虚像の間違い探し
── 本展の「間違い探し」というコンセプトにおいて、コピーとオリジナルをどう区別するかということを念頭に置いているのでしょうか。
フィッシャー この場合、両者がともにイメージをつくる。どちらかいっぽうではなく、両方が存在することを残している。両方あるから、本物と複製がひとつのものをつくるんだ。
── つまり、どちらかが実像であるという設定が明確にあるのでしょうか。
フォッシャー そうだね。でもやはり、両方あるから機能する。いっぽうは鏡像で、もういっぽうは実像である。どちらかが劣るモノではない。私にとってこれは、よりイメージの問題だといえる。すべてのことはある意味イメージとして関係していると思うんだ。思考はすなわちイメージなんだ。「バケーション」と言えば、イメージで思い浮かべる。自分自身との関係もある意味イメージだし、なにもかもがある意味イメージだ。そしてイメージも素材なんだ。
── 鏡像やイメージは、精神分析においても重要なテーマです。そのあたりについて、意識されたことはありますか。
フィッシャー そうだね。鏡というアイデアは、自己認識から極端な虚栄心まで、すべてを包含している。鏡がなかった時代の人間は、水面に映る自分を見ていた。でも、それはひとつの方法。想像するといつもクレイジーだと思う。体は見える、手も見える。でも外から自分自身を見ることはできない。鏡を通じて自分と向き合える。でも、外から自分を見ているわけではない。
歯を磨くとき、自分をそういう目で見ているわけじゃない。でも時々そういうことが起こる。年に一度くらい、突然「鏡の中のこの人は誰だろう?」と思うことがある。普段はそういう目的で鏡を使っているわけじゃないけど。だから鏡にはたくさんの異なる意味がある。そうやって、開かれていることが好きなんだ。特定のひとつのことに限定したくない。そこにイメージを持ち込み、作品の中に自分を映す。アートワークとは、まさにそのようにして機能するものだ。
──本展の出品作では、壁の汚れや傷、床に落ちた埃やゴミまでもが作品に取り込まれているのが印象的です。そこでは、作品としての事物と非作品としての事物に価値の階層を設けず、ほぼ等価に扱われているように見えます。一般的には価値を持たないとされるそれらの事物に対して、あなたはどのようにお考えですか。

フィッシャー そう、そこに階層はない。一方か他方かということじゃない。そして、コンポジション(構成)というものが好きなんだ。コンポジションとは、家の中でそうなるように、自然とできあがっていくものだ。家を掃除していると、「これはどこから来たの?」というものを見つける。埃やゴミというのは、どこから来るのかわからないものがある。ドアからではない、どこからか部屋に入ってきて、そこに着地する。何でできているかもわからない。私にとってコンポジションとはそういうもので、よりコズミックなものなんだ。物事が秩序の上に着地していく、そのありようのことだ。
今回のインタビューは展覧会初日の点火前に行われた。《Mirror》は会期を通じて溶け続け、鑑賞者が訪れるタイミングによって作品の印象は大きく異なる。別の日にインタビューをしていれば、内容も何かしら変化していただろうと思う。
フィッシャーの話を聞いて気づいたのは、彼が作品について、具体的な物理的現象や造形のディテールに重きを置いて語るという姿勢だった。例えば、作品が解体されるという性質は、所有や保存をめぐる制度批判へと展開可能である。しかしフィッシャー自身は、そうした議論を理解しながらも、造形の観察と思索を起点として語ることを重視していた。溶けた蝋の滴りがなぜ同じ大きさになるのか。ワックスと身体の柔らかさの類似、部屋の中のゴミや埃のコンポジションなど、それらの観察から自然の秩序と人工的な秩序のぶつかり合いへと思考を広げていく。
別の角度から言うと、彼は作品の意味をひとつに絞ることを好まないといえる。作品とは器のようなものであり、その内容は鑑賞者のなかで生成される。解釈をいわゆる現代美術的なコンセプトのパッケージングで限定することを忌避する意志が言葉の端々に感じられた。
作品が溶け、崩れ、やがて鋳造し直されるという循環的な構造への肯定は、不完全性の美学と自然と人間の調和的なあり方への関心と結びついている。ステンレス製のバルーン・ドッグやガラスケースに収められた新品の掃除機など、ピカピカの状態を保ち続けることに意味を見出すジェフ・クーンズもアプロプリエーションを用いる作家だが、完全性・永遠性を追求するその姿勢とは、対照的な態度だと言える。
インタビューの終盤、フィッシャーは「コズミック」という言葉を使った。物事は誰かが意図して置くのではなく、人間の秩序を超えた宇宙的な次元で自然に着地する。制作や日常のなかで積み重ねられた観察と詩的な表現が絡み合いながら紡ぎ出される宇宙観と哲学が、平易な言葉で語られたことが印象的だった。
*1──アプロプリエーション:既存のイメージや物をそのまま流用・転用し、作品とする手法。1980年代以降の現代美術で広く用いられる。






