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2026.5.14

「田中信太郎──意味から遠く離れて」(世田谷美術館)開催レポート。意味を削ぎ落とす独自の哲学とは

東京・世田谷の世田谷美術館で、「田中信太郎──意味から遠く離れて」が開催されている。会期は6月28日まで。会場をレポートする。

文・撮影=大橋ひな子(編集部)

展示風景より、80〜90年代の作品群
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 東京・世田谷の世田谷美術館で、「田中信太郎──意味から遠く離れて」が開催されている。会期は6月28日まで。担当は同館学芸員の野田尚稔。

 田中信太郎は1940年東京生まれ。太平洋戦争末期に茨城県日立市に疎開し、高校卒業まで暮らす。上京後は、現代美術家の篠原有司男(1931〜)の影響もあり、反芸術と称されていたネオ・ダダ・オルガナイザーズ(ネオ・ダダ)の活動に参加。前衛美術家として活動するも、60年代の後半よりミニマル・アートを彷彿とさせる作品へと転換する。その後70年の「人間と物質」展(東京都美術館・京都市美術館・愛知県美術館・福岡県文化会館、1970)、「ヴェネチア・ビエンナーレ」(1972)など主要な国際展に参加。85年以降は、平面と立体を組み合わせた作品を発表し、2019年に亡くなるまで、独自の思想に裏打ちされた作品を発表し続けた。

 本展は、東京では初となる田中の回顧展だ。日本未発表だった70年の絵画作品から、晩年に探求し続けていた平面作品、そして亡くなるまで継続して制作した金属によるドローイングまで、アトリエに遺された作品を中心に40点弱で構成される。さらに60〜70年代にかけて、世田谷の祖師谷にアトリエを構えていた時代の作品図面や資料もあわせて展示されている。

 入り口すぐの場所に位置する、特徴的な扇形の展示室では、《◯△◻︎(〝萌〟〝凛〟〝律〟)》(2001)が紹介されている。本作は2001年に国立国際美術館で開催された大規模個展「田中信太郎ー饒舌と沈黙のカノン」(2001年9月13日〜10月14日)で発表されたものだ。円、三角、四角のシンプルな要素で構成される本作の造形には、99年に制作された《無域》の要素が取り入れられている。

田中信太郎《◯△◻︎(〝萌〟〝凛〟〝律〟)》(2001)真鍮(3点1組) 各290×290×15cm 田中信太郎アトリエ

70年代──ミニマル・アートへ

 田中は1960年代、篠原有司男との出会いを機にネオ・ダダへ参加する。当時は廃物を用いた作品を発表していたが、現存するものはほとんどないという。そのため本展では、主に70年代以降の作品を時系列に沿って紹介していく構成となる。

 「廃物」を用いたネオ・ダダでの活動後、70年代頃からミニマル・アートを思わせる作品を手がけはじめる。その背景には、素材である「廃物」自体が意味を持ちすぎてしまうことへの反発があった。以降、田中は一貫してシンプルな造形を追求。作者の手跡や作業の形跡を消し去り、物体が発する意味や言葉に頼らない作品制作に専念するようになる。

田中信太郎《無題D》(1972)金属粉、アクリル樹脂(2点1組) 各4×160×110cm 田中信太郎アトリエ

 会場では、72年の第36回ヴェネチア・ビエンナーレ出品作《無題D》(1972)が紹介されている。アクリルのなかに金属粉が入れられた本作は、ほかの《無題》9点と組み合わされることで《Mort+Coagulationによるインスタレーション》を成す。

田中信太郎《風ーピアニッシモ》(1970)カーボン、キャンバス(3点1組) 各182×227.6cm 田中信太郎アトリエ

 《風ーピアニッシモ》(1970)は、横幅約2.3メートルに及ぶ大型の平面作品だ。《無題D》と同様に金属粉(本作ではカーボン)が用いられている。本作は米・ルイジアナ美術館で開催された「日本美術展」(1974年9月7日〜11月3日)に出展されたが、これまで国内で紹介された記録はない。田中は「一度海外で発表した作品は、国内では展示しない」と決めていたふしがあるという。既視感のあるものを発表したくないという強い意志と、誰も見たことがないものを追い求めるスタンスは、ネオ・ダダ時代から変わることはなかった。

 独自の哲学や思想を確立していた田中は、作品について語ることはなかったが、その思索の深さを物語る詩的な言葉をいくつも残している。会場ではそのうちのいくつかを紹介しており、田中の創作姿勢を紐解く一助となるだろう。たとえば、1972年の私家版『田中信太郎』には、「視覚を眼で考える」という言葉が書かれている。物体が発する言葉に引っ張られず、ただひたすらに対象を「見る」ことのみを探求するという姿勢を象徴するひとことだ。

80年代──闘病前後

 続いて80年代頃の作品が展開されている。《鉛の胎児》(1979)と《銅の家》(1979)は、第8回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)への出品作《72kgのQuartetto》の一部だ。どちらも当時の田中の体重と同じ72キロでつくられている。言葉や数字から意味が付与されることを避ける田中は、あえて数値を自身の体重と一致させることで、数字にそれ以上の意味を持たせないようにした。

左:田中信太郎《銅の家》(1979)銅鋳造 20.7×20.7×20.7cm 田中信太郎アトリエ 右:田中信太郎《鉛の胎児》(1979)鉛鋳造 22×22×22cm 田中信太郎アトリエ
左:田中信太郎《同体積:黒》(1980)ポリストーン(2点1組) 200×25×25cm、50×50×50cm 田中信太郎アトリエ 中央:田中信太郎《同体積:白》(1980)ポリストーン(2点1組) 200×25×25cm、50×50×50cm 田中信太郎アトリエ 右:田中信太郎《同体積:銅》(1980)銅(2点1組) 200×25×25cm、50×50×50cm 田中信太郎アトリエ

 80年には、ミニマル・アートの境地とも言える作品《同体積:白》《同体積:黒》《同体積: 銅》(すべて1980)を東京画廊と村松画廊で同時開催した個展(1980年3月24日〜4月5日)にて発表。村松画廊に展示された白と黒の作品には、日常的でも伝統的な彫刻素材でもない工業用素材である人造石材が用いられている。この素材は、田中の盟友であったデザイナー・倉俣史朗も自身の作品で用いていたものだ。67年の出会いから91年に倉俣が逝去するまで続いた2人の深い親交の一端に触れられる点も、本展の見どころのひとつだろう。

田中信太郎《風景は垂直にやってくる》(1985)キャンバスにアクリルペイント、オブジェ(銅) 194×260×60cm 日立市郷土博物館

 その後田中は、83年に耳下腺癌が発覚し手術を行う。一度制作の一線を退くが、85年の「第3回東京画廊ヒューマン・ドキュメンツ’84 / ’85」で《風景は垂直にやってくる》(1985)を病後初発表し、復帰。キャンバスを支持体とした平面作品と銅でできた立体を組み合わせた本作は、いままでの作風とは大きく異なっていた。複数の物体を組み合わせることで空間が生まれるが、一つひとつの関係性に意味はないという。しかし、重力に任せて絵具を垂らす手法や、銅板を屋外で自然に腐食させる制作方法からは、作者の手跡を消し去ろうとする田中の一貫した姿勢を読み取ることができる。

90年代以降──晩年に向き合い続けた平面作品

 90年代の作品としては、91年の東京画廊での個展で発表された《韓(HAN)ー海を前にして》(1991)が紹介されている。同展は、65年の個展以来はじめて開催された平面作品のみの展覧会だ。納得できる作品が完成したときしか発表をしないと決めていた田中の個展開催は極めて不定期で、ときには数年の空白期間を置くこともあった(グループ展では発表することもあった)。また、ネオ・ダダを除いて特定のジャンルや文脈にカテゴライズされることを拒んだことも、国際的な評価を受けながらも国内でその全貌が紹介される機会が少なかった要因かもしれない。

田中信太郎《韓(HAN)ー海を前にして》(1991)キャンバスにアクリルペイント 194×582cm 日立市郷土博物館
展示風景より、90年代以降の作品群

 立体作品の印象が強い田中だが、晩年にかけて平面作品に改めて向き合っていた。《Heliotrope 2008》(2008)や《羽化》(2008)はその証左だが、生前には発表されなかったという。風を使って絵具を広げるといった新しい手法を試みながら、なぜ本作は発表されなかったのか。「私の見たいものは、私にしか見えないのに、私にも、見えない。」(「秋田小吉展」図録、2005)という言葉を残した田中は、平面のなかに何を見出そうとしていたのだろうか。

世田谷区祖師ヶ谷のアトリエについての資料など

 ほかにも、2010年代の小作品や、63〜78年まで拠点を置いた世田谷区祖師ヶ谷のアトリエについても、当時の写真とともに紹介されている。手跡を残さないために外部発注していた田中ならではの精密な図面も、極めて貴重な資料となっている。

 60年代から晩年に至るまで、様々な表現手法を用いた作品によって国内外から高く評価された田中信太郎。しかしながら、独自の思想にもとづいて美術界の主流からあえて距離を置いていたため、その創作の軌跡が包括的に紹介されることは極めて稀であったといえる。田中が作品のなかに込め続けた純粋性と、そこに宿った強い信念を会場で感じ取ってみてはいかがだろうか。