30人が選ぶ2025年の展覧会90:金澤韻(現代美術キュレーター)

数多く開催された2025年の展覧会のなかから、30人のキュレーターや研究者、批評家らにそれぞれ「取り上げるべき」だと思う展覧会を3つ選んでもらった。今回は金澤韻(現代美術キュレーター)のセレクトをお届けする。

文=金澤韻

「『元始女性は太陽だった』のか?」展示風景より、みょうじなまえ《Alter Dominant》(2025) Photo by Kenji Agata
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「『元始女性は太陽だった』のか?」(KOTARO NUKAGA、5月17日~6月14日)

展示の一部として制作された雑誌『kika』 撮影=筆者

 聞かれてこなかった声を意識にのぼらせる展覧会には、いつも大きな可能性と創造性を感じる。世界はこれからいくらでも更新し得ると、確信させられるからだ。嶋田美子、山本れいら、みょうじなまえによる3人展は、神話化された女性性の背後にある政治と身体を浮かび上がらせた。コマーシャリズムにまみれた出産関連産業の未来を描く、みょうじの《Alter Dominant》は、その恐ろしいようなリアルさのなかに、いつの時代も右往左往しながら精一杯生きようとする人間の姿を捉えていた。同時期に同じ東京で開催された長谷川愛「PARALLEL TUMMY CLINIC」(協力:山田由梨)も人工的な妊娠出産のための架空のクリニックで、こちらでは「血縁主義・資本主義・能力主義・出生主義・民族主義と切り離された人工子宮は可能か?」と問いかける。前者はapexartのコンペで1位を獲得した山本れいらの企画が同団体の支援のもと山本主催、コマーシャルギャラリー KOTARO NUKAGAの協力(会場提供)により実現。後者はオルタナティブなアートスペース SHUTLが企画、主催。属性の異なるプレイヤー間の連携と共鳴が、東京の「いま」を感じさせた。

「プラカードのために」(国立国際美術館、11月1日~2026年2月15日)

「プラカードのために」展示風景より、田部光子《プラカード》(1961)、《人工胎盤》(1961)、《たった一つの実在を求めて》(1963) 写真提供=国立国際美術館 撮影=山中慎太郎(Qsyum!)

 上記2展とも響き合う《人工胎盤》(田部光子作品)が出展され、フェミニズム的視点を予感させた本展は、もっと別の、家族の形を問う作品や、病や災害を通し人間性について考察する作品も含んでいた。個人的で、あるいは繊細で言葉にしにくいことが、作家の創造性によって形ある声になる──その様相が丁寧に掬いあげられ、風通しのよい空間として立ち上がる。未来の人類に届けるべきものを考え記録していく国立館の仕事として大いに勇気づけられた。公的機関の仕事としては、豊田市美術館で始まり現在東京国立近代美術館で開催されている「アンチ・アクション」も今年触れるべき出来事だったと思う。等閑視されてきた女性作家たちの活動を史実に基づき丁寧に描き出した中嶋泉の原作著書は、高い評価を得ていたいっぽうで長らく絶版になっていたが、これを展覧会として蘇らせている(2026年に兵庫県立美術館へ巡回)。

「アペルト20 津野青嵐 共にあれない体」(金沢21世紀美術館 デザインギャラリー、10月18日〜2026年4月12日)

展示風景より、津野青嵐《Walking With》(2025) 撮影=編集部

 ファッションの展覧会に行くたびに、“理想の身体”が画一的なマネキンの形で無遠慮に迫ってくる状況に嫌悪感を覚えるようになった。多様性を尊ぶ美術館の中ですらこうなのだから、世の身体にまつわる規範の圧は言うまでもない。津野は、重荷のような服を背負って歩き、また身体を離脱する服を考え、そして、人々が食卓を囲むためのテーブルクロスとして機能する服を作った。それは抵抗でもあり、心情の吐露でもあり、ユーモアでもあり、未来への提案でもあった。

 私自身も今年、発達障害研究の方々からの依頼により企画した「修復の練習」では“見えない障害”がテーマとなった。当事者の方々、当事者でない方々の双方から多くの共感が寄せられた本展では、現代美術が私的で社会的な困難と静かに向き合い、他者の経験を想像するための回路になり得ることを、あらためて実感した。新しい年にも、同様の試みが積み重なっていくことへの希望を抱きつつ。