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2025.6.10

問い直される「太陽」としての女性。笠原美智子評「『元始女性は太陽だった』のか?」展

1911年、平塚らいてうは「元始女性は太陽であった」と高らかに書き記した。2025年、その言葉の意味がいま、再び問われている。KOTARO NUKAGA Threeで開催中の「『元始女性は太陽だった』のか?」展(〜6月14日)では、異なる世代・視点を持つ3人のアーティストが、戦争と母性、制度と記憶、そして未来の身体をめぐって問いを投げかける。本稿で評論家・キュレーターとしてフェミニズム展を牽引してきた笠原美智子(長野県立美術館館長)は、展覧会の構成をたどりながら、現代日本におけるフェミニズムの現在地と、その可能性を考察する。

文=笠原美智子

「『元始女性は太陽だった』のか?」展(5月17日〜6月14日、KOTARO NUKAGA Three、東京)より、嶋田美子の展示の様子 All Photos by Kenji Agata
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問い直される「太陽」としての女性

 1990年、東京都写真美術館で翌年の「私という未知へ向かって―現代女性セルフ・ポートレイト」展(*1)の準備をしていたとき、「フェミニズム展、いいねぇ、僕もフェミニストだから」と言った学芸員がいた。1994年、2年後の「ジェンダー 記憶の淵から」展(*2)の提案をしたとき、「ジェンダーって誰?」と聞いた人がいた。しつこいけれど、学芸員である。

 25歳の平塚らいてうが『青踏』で「元始女性は太陽であった」と書いたのは1911年。わたしがいまこの文章を書いているのが2025年だから114年が過ぎ、日本で最初のフェミニズム展と言われることになる1991年の「現代女性セルフ・ポートレイト」展の開催から34年がたつ。わたしは1991年から2017年までフェミニズムの観点からの展覧会を多々組んできたけれど、そのあいだ、「日本の女性の意識は変わった。けれども権力を持った男性のそれは変わらない」という趣旨を繰り返し書かねばならなかった。らいてう先生が生きていたら「あなたなんか甘い、わたしは100年近くもそう問うてきたのだから」とおっしゃるだろう。深いため息をもらしながら。

 けれども最近、もしかしたらこの数年のあいだに、日本の社会は、日本の美術は、変わってきたのかもしれない、と思うことがある。本当にそんなことが起こっているのか。

フェミニズム展の歴史と現在

 アメリカやヨーロッパでは1970年代以降、ジェンダーの視点は間違いなく現代美術の主要なテーマのひとつであり続けてきた。1991年の「現代女性セルフ・ポートレイト」展では5ヶ国18作家の作品を通して、従来の「女性像」「女らしさ」「女の役割」「女の美」などを問い直し、解体し、修正し、解釈し直し、新たなイマジネーションの展開を検証した。彼女たちがセルフ・ポートレイトを選択したのは、自分たちの二重基準を十分に自覚していたからである。誰もが生まれ落ちたその日からその社会の価値観を学ぶ。家父長制社会では男性の視点である。いままで男性作家は女性の身体を使って自分自身の性愛を「女の美」だの「女のエロス」だのと称してきた。たんに自分に都合の良い、男による女の理想像である。彼女たちは自分に内在する男の目を恐れた。同じことをしかねない。ならば自分を対象にしたらどうか(*3)。

 1996年、「ジェンダー 記憶の淵から」展を企画・実施した。「現代女性セルフ・ポートレイト」展が基本編とするなら、応用編である。社会は男と女の二元論で成り立っているわけではない。人種や階級、民族や歴史、宗教そしてセクシュアリティなど、ジェンダーの問題は生きることのすべてに複雑に絡まり合っている。この展覧会は「記憶」をキーワードに6ヶ国11作家の作品で構成した。この「『元始女性は太陽だった』のか?」展に出品している嶋田美子が唯一の日本人作家だった。

 1990年代、日本でも女性アーティストの活躍は著しかった。けれどもフェミニストを自任するアーティストにはほとんど出会わなかった。嶋田美子や嶋田としばしば組むこともあるブブ・ド・ラ・マドレーヌ、のちに「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」展(1998)(*4)に参加してもらった岡田裕子やパフォーマンス・アーティストのイトー・ターリは稀有な存在だった。フェミニズムのメッセージを発している優れた作品に出合うことはあった。しかし当の作家のなかには、「わたしはフェミニストではない」とわざわざ念を押す人もいた。マスコミがつくり出した、正義を振りかざして男性を糾弾するヒステリックなフェミニストのイメージが社会に浸透していたし、現代美術や写真において権力を握っていたのはほとんどが男性だったから、そうした振る舞いは理解できないことではなかった。なかには「党派に属していると思われるのが嫌だ」という作家もいた。これも誤解である。フェミニズムはジェンダーをはじめとする構造的不均衡を是正する考え方であり、しばしば「一人一派」と言われているように、「党派」とは遠いところにある。(独裁者が忌み嫌う)多様性や公平性、包摂性を尊ぶ立場である。

 フェミニストを忌避する空気が根強く残るいっぽうで、2000年代以降の情報革命による社会生活の変化のほうが先んじた。それはフェミニストへの姿勢すら、一元的なフォビアから多元的な受容や嫌悪へと変えたように思える。情報インフラが劇的に刷新され、スマートフォン、SNSがなくてはならないものになり、(裏付けがされているか否かにかかわらず)情報が即座に伝わる時代になった。2017年にアメリカで始まった「#MeToo」は、日本でもセクハラや性暴力など、かつてなら泣き寝入りや沈黙を強いられてきた被害者が少しずつ声を上げる契機となった。直近ではフジテレビの事案がある。性的加害やセクハラ、パワハラおよびその対応が巨大企業の命運をも左右することが明らかになった。「このくらいは大丈夫」だと高をくくっていた多くの「おじさん」の心胆を寒からしめていることだろう(そう願いたい)。

 とまれ、2010年代以降、確かに美術館やギャラリーでの女性作家の展覧会は増えた。当然のこととしてフェミニストを名乗る小田原のどかや百瀬文地主麻衣子、丸山美佳や遠藤麻衣、内海潤也などのアーティストやキュレーターが活動を展開している。2015年に結成され「ジェンダーや国籍の異なる、第4波フェミニスト・アクティビストによるアートグループ」である明日少女隊は、現在メンバーが50名以上になっているという。2021年にはタイトルに「フェミニズム」と題した展覧会が2つ、金沢21世紀美術館で開催された(*5)。いっぽうのキュレーターである長島有里枝は1990年代半ばに「女の子写真」と揶揄的に命名されて若い女性作家だけがくくられた経験から、当時の言説をつぶさに検証しその女性差別的な構造に対し自ら異議申し立てする著書『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020)を上梓している。保守的美術史の堅城のような東京国立近代美術館さえ、常設展の一部の小企画「フェミニズムと映像表現」展(*6)に続き、2025年末には「アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦」展が開催されるという。

記憶への抵抗としてのアート

 そして2025年、「『元始女性は太陽だった』のか?」展である。緻密に練られた展覧会である。企画者であり出展アーティストである山本れいらはこの展覧会を実施するにあたり過去から現在、未来へと幾重にも思考の糸を張り巡らせた。ギャラリーは3部屋に分かれている。

展示風景より、中央のインスタレーションは嶋田美子《白い割烹着(White Aprons)》(1993)

 最初の部屋には日本のフェミニズム・アートの革新者である嶋田美子の作品を持ってきた。「ジェンダー 記憶の淵から」展にも出品された《風船爆弾・日の丸》(1993)と《白い割烹着(White Aprons)》(1993)に《赤ちゃんコンテスト》(1992)を壁面に加え、その斜め横にはインスタレーションが迫る。12枚の白い割烹着からはそれぞれ赤いひもが垂れ、その下には玩具のピストルや戦没者の写真、軍人勅諭が結ばれている。

嶋田美子《白い割烹着(White Apron)》(部分)の展示風景
嶋田美子《白い割烹着(White Apron)》(部分)の展示風景

 白い割烹着とたすき掛けは、銃後を守る、良き母、良き妻、良き娘たちの表象である。しかし善良な母・妻・娘たちは、熱に浮かされたようにやすやすと翼賛体制に組み込まれ加担してしまう。そう、あの平塚らいてうも優生主義、天皇礼賛、母性主義の罠に落ちた彼女たちのひとりである。嶋田は戦時下の女たちと戦争の背景にある天皇制を視覚化している。彼女は日本の女性の身体がいかに国家によって管理・統制されてきたか、そしてその枠組みが植民地における女性という幾重にも下位に置かれた身体を「従軍慰安婦」として平気で踏みにじってきたかを問う。

嶋田美子《白い割烹着(White Apron)》(部分)の展示風景

 嶋田の作品は記憶への意志であり、忘却への抵抗である。《赤ちゃんコンテスト》での、競り市にかけるかのように裸の乳児の両脇を支えて突き出す若い母親の屈託のない笑顔を見ていると、それが戦時下という特殊な状況なのだからと過去に置き去りにすることはとてもできなくなる。いまを生きるわたしたちと彼女たちはつながっている。無関係であるはずがない。

可視化される管理と制度

 終戦から80年を経てもなお、国家による女性の身体の管理・統制は続いているのである。山本れいらの「Refracted Sunlight(屈折した太陽光)」シリーズ(2025)は一見するとなんとも美しい作品である。

展示風景より、山本れいら「Refracted Sunlight(屈折した太陽光)」シリーズ(2025)

 部屋の三方の壁面に6点の円型の作品が均等に配置されている。漆黒の宇宙のような黒く塗られた円型の作品は、三日月、半月、満月へと満ちていく。そして三日月型の表面から満月へと少しずつ露わになっていくのは、もちろん月面のクレーターではない。パールホワイトで緻密に描かれているのは、いまにも狭い円から這い出してきそうな、丸まった美しい裸の赤子である。少しだけ髪の毛が生えた大きめの頭部を下に、口の部分に小さな手がかかっていて、足は縮めて時計の11時の部分にある。あまりにも可憐な姿ゆえに、この子が臨月に死んだ母親の子宮にいる子供だと気づいた瞬間に、一気に周りの空気が凍りつく。この子は本来ならば人の目にふれられる存在ではないのだ。

展示風景より、山本れいら「Refracted Sunlight(屈折した太陽光)」シリーズ

 この絵の下地になっているのは18世紀の解剖学者ウィリアム・ハンターの妊娠子宮図だという。妊娠の各段階で死んだ妊婦の死体を集めて解剖し、それを精緻な図像で子宮の中での胎児の成長過程を著した。墓掘り泥棒を雇っていたというから、解剖された女性は言うまでもなく遺族の許可も取ってはいないだろう。医学の発達という名目のもと、永遠の眠りから無理やり覚まして母子を切り刻むのは狂気の所業に思えるが、こうした「女」「子供」への悪行は300年前の例外的な野蛮ではない。山本れいらはこの子を生き返らせて、現代に生きるわたしたちに問いかける。この子はあなたかもしれないし、あなたはこの子の母かもしれない。なぜなら、わたしたちの身体は「子」や「母」と同じく管理されているのだから。

展示風景より、山本れいら「Refracted Sunlight(屈折した太陽光)」シリーズ

 円型の黒塗りの部分には小さな白抜きの文字が浮かんでいる。刑法第29章堕胎の罪第212条から第216条の条文である。堕胎罪がいまだにあることは知っていた。しかし、実際には条文を読んだのは67年生きていて恥ずかしながら初めてだった。条文は妊娠して産まないのは罪であると断罪する。女性自身が産む・産まないという選択を保証するリプロダクティヴ・ライツどころではない。これほどあからさまに「女子」の身体を国家が我が物のようにいまだに扱っているのだ。

展示風景より、山本れいら「Refracted Sunlight(屈折した太陽光)」シリーズ(部分)

 整然と並ぶ端麗な作品を振り返り、この作品が1995年生まれの若いアーティスト・山本れいらによってつくられたことを一条の光として、再び嶋田美子の戦時下を通って、みょうじなまえの部屋に入る。

未来の身体、母性の罠

 なんとも明るい部屋である。まず目に飛び込んでくるのは、リゾートの映像なのか、風光明媚な水辺の景色と、波打ち際からカメラが移動して水中の映像が流れる大画面モニターである。

展示風景より、みょうじなまえ《Alter Dominant》(2025)

 透明な海の中を実際にゆったりと泳いでいるかのようなヴァーチャル体験。しかしやはり不穏な予感がする。そのモニターの前には手術室の椅子が置かれ、それも形状から、産婦人科用らしいのだ。壁面には均整の取れた、整いすぎて美しい、どう見ても10代後半か20代前半の若い女性が、これもなんともかわいらしい子供を抱いた写真が展示されている。透明な服と大きなピアス、そして背景は何かの器官なのか、すべて柔らかいアクリルのようなものでできていて、背景のピンク色に染まっている。並置されているのは子宮を模したような立体で、やはり柔らかいアクリルのようなものでつくられているが、どこか形状がおかしい。棚には先ほどの女性と子供の写真が表紙の雑誌がずらりと並んでいる。どうやらこれは産科の待合室らしい。

展示風景より、みょうじなまえ《Alter Dominant》(2025)
展示風景より、みょうじなまえ《Alter Dominant》(2025)

 みょうじなまえは30年後の近未来の妊娠・出産シーンをつくり出した。展示されているのはすべてAIによってつくられた写真や映像だという。ファッション誌のような体裁の雑誌『kika』には、未来のファッションとともに、特集「NEW WOMB 新しい自然、わたしたちの〈胎〉のかたち」のインタビューが掲載されている。性別や年齢を問わず人工子宮によって妊娠・出産ができるようになったにもかかわらず、お腹の中にわざわざインプラント型人工子宮を入れて出産する女性が増えているのだという。「痛みこそが愛情の証拠であり、苦しみこそが母性の真正さを保証する。そんな空気が、少しずつ、じわじわと、わたしたちの世界に広がりはじめている」(*7)。

みょうじなまえ《Alter Dominant》(部分)の展示より、雑誌『kika』

 別のページではやはりAIでつくられた美少女が、口を半開きにして濡れた長い黒髪を垂らしてセミヌードで語る。「そう、性的に見られるって、嫌なことばかりじゃない。むしろ、自分が性的存在として存在できてるんだって実感できる喜びもある。私はそれを“選んで”感じてるから、怖くないんです。それに、快楽を受け取ることって、与えることと同じくらい尊いと思う」。そう、これは巧みな罠だ。すべてが美しく洗練されて準備され、なんでも思い通りになるのに、進んで「痛み」を選択する。自ら望んで選び、その結果に満足していると思わせ、待合室に置かれた雑誌の未来の女たちが纏っているような、透明な蜘蛛の糸のように柔らかい檻に誘う。当然のことながらそこには、女性がその身体をコントロールするのを嫌忌し、その逆方向に誘導する意思がある。それは母性への回帰であり、その方法をとらない/とれない人々を排除する。

みょうじなまえ《Alter Dominant》(部分)の展示より、雑誌『kika』

 「『元始女性は太陽だった』のか?」展は、過去から現在へ、そして未来へと時を翔けながら、幾重にもわたしたちの身体について問いかける。どの作品も単純な結論など導き出さないし、見る人によって、様々な見方ができるだろう。

 最後にみょうじなまえがつくり出した雑誌『kika』の編集後記で、2055年に生きる編集長・林春菜が2025年に生きるわたしたちに贈った文章でこの小文を閉じよう。

……常に考え続けること。注意深く、選び続けること。時には失敗して、大きなものを失うことがあることでしょう。それでもなお、自分らしく生きようとすること。その連なりの中にしか、おそらく自由はありません。どうか、あなた自身を信じてください。そこから生まれた選択と、その選択があなた自身の意思であることを、誇ってください。体の重さも、痛みも、あなた自身の物語の一部として、どうか慈しんでください。2055年の空の下から、あなたにこのメッセージを送ります。

あなたと、私たちの未来に、深い祈りと祝福を込めて。

*1──出品作家は以下の通り。シンディ・シャーマン、ジュディ・データー、ジュディス・ゴールデン、リサ・カネモト、ナン・ゴールディン、バーバラ・デジュネヴィエーヴ、アン・ノグル、スーザン・カエ・グラント、ビー・ネトルズ、カタリーナ・シーバディング、リディア・スハウテン、ジョー・スペンス、ソニア・ランディ・シェリダン、リタ・デウィット、パティ・レヴィ、ヘレン・チャドウィック、スーザン・ヒラー、石内都。
*2──出品作家は以下の通り。ジョン・コプランズ、ローリー・トビー・エディソン、マスミ・ハヤジ、劉虹、マリ・マール、トリン・T.ミンハ、ローナ・シンプソン、嶋田美子、ミトラ・タブリジアン、キャリー・メイ・ウィームス、ハンナ・ウィルケ。
*3──この展覧会図録に寄稿していただいた縁で、若桑みどりの知己を得、千野香織や北原恵、池田忍らと1995年に「イメージ&ジェンダー研究会」を立ち上げた。美術におけるジェンダーに関わる様々な課題を考える有志の集まりで、のちには美術史家の鈴木杜機子や馬渕明子、吉良智子や学芸員の同志である小勝禮子やLGBTQ研究者の溝口彰子も加わった。この研究会はそれぞれの美術の専門分野で孤軍奮闘していたわたしたちの精神的支柱となった。
*4──この展覧会はヌード写真を視線の力学によって考え、新たな身体表現の可能性を探るものだった。出品作家は以下の通り。E.J.ベロック、アルフレッド・スティーグリッツ、ピーター・フジャー、ロバート・メイプルソープ、ジーン・ダニング、キャサリン・オピー、リン・ビアンキ、デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、メアリー・ダフィー、古屋誠一、大塚勉、神藏美子、岡田裕子、ジーン・フレイザー、イトー・ターリ、シェリル・デュニエ、スー・フリードリック、バーバラ・ハマー、セディ・ベニング。この展覧会を契機に「エイズ」に向き合うアーティストに焦点を当てた「ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現」展(2010)を企画した。出品アーティストは以下の通り。AAブロンソン、ハスラー・アキラ、フェリックス・ゴンザレス=トレス、エルヴェ・ギベール、スニル・グプタ、ピーター・フジャー、デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、ウィリアム・ヤン。
*5──「フェミニズムズ / FEMINISMS」展と「ぎこちない会話への対応策―第三派フェミニズムの視点で」展(金沢21世紀美術館、いずれも2021年10月16日〜2022年3月13日)。前者は金沢21世紀美術館学芸員の高橋律子、後者は長島有里枝が企画・構成した。
*6──「解放され行く人間性 女性アーティストによる作品を中心に」展(2019年6月18日〜10月20日)、「女性と抽象」展(2023年9月20日〜12月3日)、「フェミニズムと映像表現」展(2024年9月3日〜12月22日)、「フェミニズムと映像表現」展(2025年2月11日〜6月15日)、上記すべて東京国立近代美術館で開催。
*7──「花咲折愛×林春奈 NEW WOMB 新しい自然、わたしたちの〈胎〉のかたち」『kika』6月号(〈株〉季花、2055年5月17日)。