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2026.2.20

瀝青と音で構想する未来の冥界。アンドリウス・アルチュニアンの日本初個展「Obol」が開幕

銀座メゾンエルメス ル・フォーラムで、アンドリウス・アルチュニアンの日本初個展「Obol」が開幕した。ビチューメン(瀝青)と音を素材に、未来の冥界を構想する本展をアーティスト、キュレーターの言葉とともにレポートする。

文=王崇橋(編集部)

「Obol」展の展示風景 © Nacása & Partners Inc./ Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès
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 銀座メゾンエルメス ル・フォーラムで、アルメニアとリトアニアにルーツを持つアーティスト/作曲家アンドリウス・アルチュニアンによる日本初個展「Obol」が開幕した。会期は5月31日まで。

 本展は、エルメス財団が、東京・根津にあるオルタナティブ・スペース「The 5th Floor」のディレクター、岩田智哉をゲスト・キュレーターに迎えて開催するもの。第59回ヴェネチア・ビエンナーレのアルメニア・パビリオン代表をはじめ、上海、光州、リヨンの各ビエンナーレにも参加してきたアルチュニアンは、音と時間を主軸に、神話、儀礼、政治的想像力を横断する実践によって国際的な評価を得ている。

 タイトルの「Obol」とは、死者が冥界の川を渡る際の渡し賃として口に含ませる銀貨を指す言葉である。地中海世界の神話に由来するこの習俗について、アルチュニアンは「愛する人をあの世へ送り出すための儀式は、文化を超えて存在している」と語る。本展は9階から始まり、下階へと降りていく構成をとる。鑑賞者は、地上から地下へと移行する身体的体験を通して、冥界へと降りていくかのような感覚へと導かれる。

死者が冥界の川を渡る際の渡し賃をモチーフにした彫刻作品 © Nacása & Partners Inc./ Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 アルチュニアンは、冥界をたんなる死後の空間ではなく、「生きた場所」として構想する。「冥界には行政的なシステムもあれば、経済もあり、さらにはクラブのような文化的空間もある」と述べるように、それはひとつの社会として想像されている。

 8階のインスタレーションでは、冥界へと誘うような日本語と英語のテキストがレーザーによって投影され、一部の文字は鏡面に反射することで初めて読むことができる構造になっている。こうした仕掛けは、反転や二重性というテーマを空間的に体現するものだ。

展示風景より © Nacása & Partners Inc./ Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 二重性は本展を貫く重要なモチーフである。鏡像や反転の構造は、アルチュニアンが作曲において用いる時間操作とも響き合う。彼は音楽を「歪んだ時間の建築」と捉え、「音楽は時間そのものを素材として扱うことができる」と語る。時間とは「何かが消滅していく過程そのもの」でもあるが、音楽はその消滅を可聴化する媒体となる。

 また、本展ではビチューメン(瀝青)という素材が複数の作品に用いられている。ビチューメンは、数百万年前の藻類が地中で圧縮されて生じた漆黒の物質である。古代においては聖なる素材としてメソポタミアの神殿・ジッグラトの外壁やエジプトのミイラづくりの工程に用いられたいっぽう、現代では道路舗装や防水加工など世俗的用途へと転用されている。アルチュニアンは「ビチューメンは聖性と実用性という二重性を内包している」とし、「つねにわずかに動き続ける、不安定な素材」だと述べる。

展示作品に用いられたビチューメン(瀝青) © Nacása & Partners Inc./ Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 アルチュニアンにとって、音もまたビチューメンと同様に「素材」である。「音は決して1ヶ所にとどまらず、つねに動き続ける。既存のシステムを少しずらしたり、壊したりする力を持っている」と語るように、多孔質で内外へと浸透するその性質は、粘性を持つ瀝青と重なる。概念的でありながら身体に直接作用する音は、空間を横断し、展示全体を結びつけるアンセムのように響く。

 ゲスト・キュレーターの岩田智哉は、本展の制作プロセスについて次のように振り返る。「アンドリウスはこれまでビチューメンを作品に用いてきましたが、天然の状態を実際に目にしたことはなかった」。昨年、ふたりが新潟県胎内市を訪れ、地中から湧き出る瀝青を目の当たりにした体験が、本展の方向性を決定づけたという。「その瞬間に、ビチューメンを本展の軸にできるという確信が生まれた」と岩田は語る。

 本展では、実際に新潟産のビチューメンが作品に用いられている。また、山梨県のスタジオでの滞在制作を通じて、「コンセプトとマテリアリティが相互に反応しながら変化していった」と岩田は述べる。素材に触れることで構想が揺らぎ、再構築される。その往還が、本展の構想過程を特徴づけている。

展示風景より © Nacása & Partners Inc./ Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 空間構成も本展の重要な要素である。岩田が主宰するThe 5th Floorは、元社員寮を改装した親密な空間であり、「鑑賞者と作品の対話が非常にインティメイトに生まれる場所」だという。いっぽう、ル・フォーラムはレンゾ・ピアノ設計による開放的な建築で、ガラスのファサードを通じて銀座の街の光が流れ込む。岩田は「空間を作品で埋め尽くすのではなく、あえて余白を残すことを選んだ」と説明する。展示作品数は多くないが、その空白を音が満たし、レゾナンスを生み出すことで体験の強度を高めている。

 ネオンで描かれた蛇やオボルの銀貨、未来の冥界における儀式を想起させる装置が配される本展は、思弁的でありながら身体的でもある体験を提示する。鑑賞者は、未来の冥界の儀式へと誘われ、その儚い境界を往還する旅へと足を踏み入れることになるだろう。