2026.9.11

「丸木スマ展 73歳からのアーティスト」(滋賀県立美術館)開幕レポート。壮絶な人生から生まれた作品が現代に語りかけるものとは?

滋賀県大津市の滋賀県立美術館で、画家・丸木スマの初期から晩年までの歩みを辿る展覧会「丸木スマ展 73歳からのアーティスト」が開幕した。会場の様子をレポートする。

文・撮影=三澤麦(編集部)

第8章「丸木スマ的曼荼羅」の展示風景より、《簪》(1955)
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 滋賀県大津市の滋賀県立美術館で、73歳で初めて絵筆をとった画家・丸木スマの歩みをたどる展覧会「丸木スマ展 73歳からのアーティスト」が開幕した。会期は11月23日まで。企画は山田創(滋賀県立美術館学芸員)、監修は岡本幸宣(原爆の図 丸木美術館学芸員)、永井明生(キュレーター/美術研究者)が務める。

 丸木スマは1875年広島県生まれ。農作業や船宿業に従事し、長年家族の暮らしを支えた。1945年、70歳のときに爆心地から約2.5キロの自宅で被爆。翌年には夫と死別するという過酷な境遇に見舞われた。終戦から3年が経った48年、長男の丸木位里とその妻・丸木俊の勧めにより、73歳で初めて絵を描き始めた。身近な自然や生き物を独自の色彩と構図で捉えた作品群は、50年以降、女流画家協会展や再興日本美術院展などで立て続けに入選。70代にして異例の画壇デビューを飾る。81歳で没するまでの約9年間で700点以上もの作品を遺した。近年では、 2008年に埼玉県立近代美術館、11年に原爆の図 丸木美術館、17年に一宮市三岸節子記念美術館、21年にベルナール・ビュフェ美術館などで個展が開催されている。

 本展では、スマの初期から晩年までの作品や関係資料など、およそ130点が展示されている。スマはこれまで「おばあちゃん画家」の愛称で親しまれ、注目を集めてきた。だが本展の企画にあたり担当学芸員の山田は、その愛称の陰に隠れていた彼女の多面的な姿に着目。「丸木スマ」の本質を改めて捉え直すといった構想が、全9章という緻密な展示構成に結実している。

第1章「スマ、73歳絵を描く」の展示風景。満面の笑みを浮かべるスマの写真と赤松俊子(丸木俊の旧姓)によるスマにまつわるテキスト。会場ではテキストの朗読も聞くことができる

73歳で出会った「絵を描く喜び」

「絵を描きはなえてから、面白うての。こりゃ、まだまだ死なりゃせん思うて。わしゃ、今が花よ。」

 展覧会は、スマが残したこの力強い言葉から始まる。73歳で息子夫妻である丸木位里・俊の勧めによって絵を描き始めたスマは、正月の寄せ書きに描いた絵で家族を驚かせたという。第1章「スマ、73歳絵を描く」では、その経験から次第に絵を描く喜びに目覚めていったスマの初期作品を、当時を振り返る俊の言葉とともに紹介している。

スマの初期作品

 続く第2章「ひらく、スマの世界」では、野菜や動植物、人々の暮らし、自然風景といった、スマを象徴する作品群を紹介する。野川の近くで暮らし、日常的に畑仕事を行っていたスマは、身近なモチーフを豊かな色彩と伸びやかなタッチで描き出した。瑞々しい野菜やユーモアあふれる動物たちの姿からは、スマの温かな観察眼が伝わる。

第2章「ひらく、スマの世界」の冒頭を飾る《夕暮れの畑》(1956)
第2章では「野菜・果物」「花・植物」「スマさんのペット」「生き物」「風景・暮らし」といった5つのトピックで作品が展示されている

「丸木スマ」はいかに受容されていったのか

 こうしたスマの絵は、なぜ戦後の画壇で高く評価されたのか。画壇に進出していった背景には、息子夫妻が画家であり美術界が身近に存在した点も挙げられる。第3章「画壇へ」では、「女流画家協会展」「再興日本美術院展」、さらには「院展」の入選作品を通じ、スマが画壇での評価を確立していく過程を時系列順に追う。

「再興第37回日本美術院展」(1952)の入選作品。左はスマによる作品群、右はスマと同時期に入選した小倉遊亀の《娘》(1951)
「第38回日本美術院展」(1953)に入選したスマによる《きのこ》

 第4章「丸木家の人々」では、スマと深い関わりをもった人々、とりわけ位里と俊、そして娘の大道あやに関する作品や資料を展示する。位里と俊は「原爆の図」シリーズで知られるが、その制作風景をスマが傍らで見つめていたことが資料からもわかる。さらにスマと俊は姑と嫁の関係でありつつも、画家同士として共鳴しあい、交流していた姿も展示作品からうかがえる。娘のあやが絵を描き始めたのも60歳頃であり、スマの歩んだ道筋と重なる。

写真は、「《原爆長崎之図 浦上天主堂》制作中の丸木位里と後ろから見つめる丸木スマ」(1953-54頃)
スマと俊の関係性がうかがえる作品と写真

 73歳で絵筆を取り、一気に画壇の脚光を浴びたスマに対し、周囲はどのような視線を注いでいたのか。第5章「『丸木スマ』はどのように受け入れられたか?」では、1952年の初個展の様子や、当時の雑誌・新聞記事などの資料を網羅する。民藝運動を提唱した柳宗悦、山下清を見出した精神科医の式場隆三郎をはじめ、吉川英治、石牟礼道子、水上勉といった文学界の鬼才たちまでもが、熱い視線を送っていた様子が伝わる。

スマの個展に関する写真やポスター
式場隆三郎が所持していたスマの作品《柿もぎ》(1949)

スマの創作と原爆

 第6章「ピカドン」では、スマと原爆との関係性を紐解く。70歳で被爆したスマは奇跡的に一命を取り留めたものの、街中にあふれる無数の遺体や惨状を目撃し、翌年には長年連れ添った夫・金助を亡くした。本章では、直接的な表現を多く遺さなかったスマによる数少ない原爆関連の作品や言葉を紹介する。色彩豊かで伸びやかな画風の根底に、壮絶な被爆体験が存在していた事実を突きつけた。

第6章「ピカドン」の展示風景。右奥ではスマが残した被爆体験記「老いたる隠亡」(*)の言葉を投影している *「隠亡」は不適切用語として現在は使用されていない言葉だが、本展では当時の記述として記録性を担保するためにそのまま使用している

 第7章「スマが描いた広島の風景」では、スマが生きてきた広島の情景がいかにその感性を育んだかを、作品を通じて読み解いていく。そして第8章「丸木スマ的曼荼羅」で展示されるのは、本展のハイライトともいえる最晩年の大作《簪(かんざし)》(1955)だ。俊に「おばあちゃんの生涯の曼荼羅図」と評された本作には、それまでの作品にも登場したあらゆる動物や草花が圧倒的な密度で描き込まれている。《簪》という題名について俊は、「私たちは、きらきら輝く簪をこの絵の題名にして、働きとおした女、おばあちゃんの生涯を飾ることにしました」と、スマの画集にその思いを寄せている。

第7章「スマが描いた広島の風景」の展示の様子
第8章「丸木スマ的曼荼羅」の展示風景より、《簪》(1955)

 最終章「絵は誰でも描ける」のタイトルは、位里と俊の著作名に由来する。このエリアでは、スマの作品を鑑賞しながら来場者自身が自由に創作を体験できるスペースを併設。専門的な美術教育を受けず、73歳から筆を握ったスマのように、誰もが表現の楽しさに触れられる空間となっている。

第9章「絵は誰でも描ける」に設置された創作スペース

 当時「おばあちゃん画家」や「うずもれていた天才」として脚光を浴びた丸木スマ。しかしその本質は、そうした素朴で微笑ましいイメージだけに収まるものではなかった。生きることの苦しみも喜びも素直に絵筆を通してぶつけたスマの絵画は、時代を超えて見る者の心を力強く揺さぶる。「絵は誰でも描ける」というメッセージとともに届けられる本展は、鑑賞者一人ひとりへ、自分を表現する喜びと、いくつになっても新たに広がる人生の可能性を感じさせてくれるはずだ。

スマによる《自画像》(制作年不詳)