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2026.7.31

「アンドリュー・ワイエス展」(豊田市美術館)開幕レポート。「境界」の向こうでかすむ孤独と独立のアメリカ

愛知県豊田市の豊田市美術館で、アンドリュー・ワイエスの回顧展「アンドリュー・ワイエス展」が開幕した。会期は9月23日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(編集部)

《乗船の一行》(1982)パネルにテンペラ 70.5×50.8cm。ワイエス作品で顕在化している「不在」を象徴する1枚
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 愛知県豊田市の豊田市美術館で、アメリカの具象絵画を代表する画家、アンドリュー・ワイエスの回顧展「アンドリュー・ワイエス展」が東京都美術館より巡回するかたちで開幕した。会期は9月23日まで。担当は同館館長の高橋秀治。

 ワイエスは1917年、米・ペンシルヴェニア州生まれ。挿絵画家の父から教育を受け、故郷のチャッズ・フォードとメイン州の限られた風景や知人を生涯の主題とした。水彩、テンペラ、ドライブッシュなどによる表現による静謐で孤独を孕んだリアリズムを確立し、アメリカの国民的画家とされている。

第3章「オルソン・ハウス」の展示室、ワイエスが長年モチーフにしたメイン州の邸宅「オルソン・ハウス」の模型が展示されている

 本展は約100点のワイエス作品を5章構成で展示することにより、その画業の全貌に迫るものだ。

第1章「ワイエスという画家」

 第1章「ワイエスという画家」では、ワイエスの生い立ちを紹介するとともに、その作風を端的に紹介する作品が並ぶ。。ワイエスは少年時代から91歳でこの世を去るまで、生まれ故郷であるペンシルヴェニア州と、夏の家があるメイン州の2つの拠点で生涯にわたって絵を描き続けた。したがって、絵の主題の多くもこれらの土地や家に根ざしたものとなっている。 

アンドリュー・ワイエス《自画像》(1945)パネルにテンペラ 63.5×76.2cm。20代の頃に描かれた自画像であるが、その後ワイエスが自画像を描くことはほとんどなかった

 1945年、ワイエスに絵の技術を教えた父が突然の事故で世を去ったことは、その人生において非常にショッキングな出来事であり、また画家として自身の道を歩むことを決意する契機でもあった。本展の最初に展示されている《自画像》(1945)は、父が亡くなった年に描かれたものだ。自らの道を開拓していこうとする、20代後半の若きワイエスの姿が表れた作品といえる。

《火打ち石》(1975)パネルにテンペラ 55.6×73.3cm。青みがかった海岸の巨石をワイエスは「火打ち石」と名づけた

 本章で強い印象を残すのは《火打ち石》(1975)だ。海岸の巨石は斜面にあるのだろうか、斜めになった地平線の上に曇天のなか差した光を浴びてそそり立っており、圧迫感と不安定さが同居する奇妙な存在感を持っている。画面左には平行に引かれた水平線が覗いており、手前にはカモメが残していったと思われるエビの残骸や羽が見下ろすように落ちており、遠近の感覚が複雑に入り組む。ポップ・アートや抽象表現主義といった当時のアメリカの美術の動向と距離を起き、田舎の風景を主題に据え続けた保守的な画家とされることが多いワイエスだが、その構図や遠近の表現には前衛的な感性を見て取ることができる。

第2章「光と影」

 第2章「光と影」では、ワイエスが陰影の「あわい」を卓越した技術によって表現していったことを示す作品が並ぶ。

 本章ではワイエスが好んだテンペラと水彩の2つの画法を意識して見るのがおすすめだ。テンペラは顔料を水で溶き、卵などの乳化作用を持つ物質を混ぜることで定着させる技法。ルネサンス期以前、油彩が登場するまでは主流だったものの、20世紀において積極的に取り入れる向きは稀だったと言える。乾燥が早く、つねに水分を加えながら一気に描き上げる必要あるため技術を要するが、ワイエスはそのマットな質感、シャープな線描、透明表現の豊かさなどを求めて用いていた。

《粉挽き場》(1962)パネルにテンペラ 77.5×130.8cm。ワイエス夫妻が購入した古い粉挽き場と穀物倉が描かれている

 《粉挽き場》(1962)は、テンペラの魅力がよく表れた作品といえるだろう。本作はワイエス夫妻が新居として購入したばかりの古い粉挽き場を描いた作品だ。ふたりの門出の象徴ともいえる建物がモチーフとなっている本作には、光と影の要素が多重に絡み合う。上空を飛ぶ2匹の白い鳥や、曇天のなかうっすらと差して建物を照らす陽光などは希望を象徴しているようにも感じるが、庭木や背景の林は枯れており、木製の柵と有刺鉄線もどこか寂しげだ。テンペラならではの乳白色で表現されたくたびれた壁や、つやが抑えられた木々の寒々とした表情は、本作にたんに明るいとも暗いともいえない、陰影の同居による独特の世界を与えている。

左から《三月の嵐》(1960)紙にドライブラッシュ・水彩、《凍りついた家》(1978)紙に水彩。《凍りついた家》はワイエス家の隣人のドイツ系移民、カール・カーナ―の家の玄関を描いている
左から《スプール・ベッド》(1947)紙に水彩 55.9×76.5cm、《メイン州イースト・フレンドシップ》(1944)ウォーヴ紙に水彩・グラファイト 54.9×74.9cm。《スプール・ベッド》はベッドの木製部分が「糸巻(スプール)」に似ていることから名づけられており、少ない色でもその形状がよく表現されている

 いっぽう、《凍りついた家》(1978)を見れば、ワイエスの水彩画の技術の高さが伝わってくる。雪と氷に閉ざされた隣家の玄関を描いた本作は、陽光と雪に反射した光、建物の壁面に落ちている影の多彩な表情などが、水彩ならではの滲みを生かした階調によって表現されている。また、《メイン州イースト・フレンドシップ》(1944)の屋外の生い茂る木々の深い色合いや、《スプール・ベッド》(1947)の窓から差し込み光などにも同種の水彩の妙が感じられる。水彩の複雑な色調によって、ワイエスは多彩な色と光を生み出していった。

第3章「オルソン・ハウス」

 第3章「オルソン・ハウス」では、ワイエスが長く作品の題材にし続けた、メイン州のオルソン・ハウスが描かれた作品を取り上げている。オルソン・ハウスは、ワイエスと妻、共通の友人であったクリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟の自宅のことで、ワイエスはこの家と周辺の人々を題材に描き続けた。

《クリスティーナ・オルソン》(1947)パネルにテンペラ 83.8×63.5cm、右が鉛筆による習作2点(ともに1947)。比較することでワイエスがスケッチに様々な要素を付け加えて絵画に物語性を加えていたことがわかる

 本展のメインビジュアルにも使用されている《クリスティーナ・オルソン》(1947)は、オルソン・ハウスの象徴的存在としてワイエスが幾度も描いたクリスティーナの姿を描いたものだ。進行性の病で足が不自由だった彼女は、夫妻の友人として長く関係を築き、ワイエスは彼女をモデルとした作品を多く残した。本展で紹介される《クリスティーナ・オルソン》(1947)は、裏口の踏み段に腰かけて休むクリスティーナの遠くを見る印象的な横顔と、家の中に差し込む光と屋内の暗がりの対比を印象的に描いた1枚だ。本作は習作とともに展示されているが、習作に描かれているクリスティーナの姿は後ろで束ねられており、風になびく髪はワイエスによって加えられたものであることがわかる。写実的と評されることが多いワイエスだが、実際には複数のモチーフを組み合わせながら、画面上で物語を構築するように作品を制作していた。それはときに遠近法への忠実さを欠いていたり、陰影の対応関係が乱れていたりもするが、こうした必ずしも精緻な統合を目指していない点が、ワイエスの作品の独特の空気感を生み出している要因のひとつでもある。

左が《オルソン家の終焉》(1969)パネルにテンペラ 46.5×49.5cm、右が《オルソン家の終焉》の習作(1969)。中空から屋根を見下ろすような構図で俯瞰の距離を感じる作品

 オルソン・ハウスをめぐる物語は、本章の展示作品のいたるところから感じることができるが、《オルソン家の終焉》(1969)はワイエスがこの家とどのような思いで向き合っていたのかがとくによく伝わってくる作品だ。1967年にクリスティーナが、翌68年にアルヴァロが亡くなると、オルソン・ハウスは誰も住む者がいなくなった。煙が上がることがないこの家の煙突と、その先に佇むいつもと変わらない湾の対比は、ワイエスが愛したこの家の人々の不在を見る者に強く印象づける。人のいない部屋、誰も座っていない椅子、窓に映る人影といった「不在」を描くことで、逆説的にその存在を前景化させるワイエスだが、本作はオルソン家のふたりの存在が、画家にとっていかに大きかったのかが、喪失感とともに表現されている。

第4章「まなざしのひろがり」

 第4章「まなざしのひろがり」も、周辺の風景や静物といった「不在」を感じさせるワイエスのモチーフが多く紹介されている。

《乗船の一行》(1982)パネルにテンペラ 70.5×50.8cm。メイン州の海岸近くにある家の窓辺の風景を描いた作品

 《乗船の一行》(1982)には、表題のような「一行」の人物は1人として描かれていない。誰も座っていない椅子と何もないテーブル、窓の外にはヨットの帆が光を浴びて白く輝く。椅子に座っていた人々は、ヨットに乗り込んだのだろうか。この空間に居た人々、交わされていた会話、その仕草も手振りも描かれていないが、過ぎていった時間だけははっきりと感じ取ることができる。

《モデルの椅子》(1982)紙に水彩 53.3×73.6cm。モデルが不在であることによって、その人物像を浮き上がらせようという試みが見える

 《モデルの椅子》(1982)は、モデルが着用していたシャツがかけられた椅子がメインのモチーフとなっている作品だ。モデルとなっていたのはアン・コールという女性であり、彼女を描いた水彩作品も数点あるものの、本作ではその姿は認められない。モデルの不在を示す白いシャツと、彼女が座っていたであろう椅子は、どのような人物がそこにいたのか、という見る者の思索をうながす。傍らに添えるように置かれた卵は、構図に調和をもたらすと同時に、モデルがどのような人物であったのかを想像させるモチーフにもなっている。

第5章「境界あるいは窓」

 最後となる第5章「境界あるいは窓」は、ワイエスの作品に表れている「境界」に着目する。

 ワイエスの作品には頻繁に「窓」が登場する。本展を担当した高橋は、この「窓」を「境界」を指し示すモチーフと捉え、展示の構成を行なった。例えば《ゼラニウム》(1960)は、オルソン・ハウスの窓を外から見た様子を描いた作品だ。部屋のなかには人影と赤いゼラニウムが見え、その向こうにも窓、さらにその先には海が見えている。ゼラニウムはクリスティーナが好んだ花であり、室内の人物がクリスティーナであることを物語る。光を取り入れると同時に、こちら側とあちら側を隔絶する窓という「境界」が、この部屋がクリスティーナの個人的な世界であることを示唆している。

《ゼラニウム》(1960)紙にドライブッシュ、水彩 52.7×39.4cm。クリスティーナの姿を窓の外から覗き見るようなドラマ性が演出されている
《ヒトデ》(1986)紙に水彩 72.7×54.0cm。ワイエスのマネージャー的な役割を担った妻・ベッツィの後ろ姿から、画家と妻の関係性の推察を誘う

 《ヒトデ》(1986)も、窓越しに人物の後ろ姿を描いた1枚だ。本作で描かれているのは、ワイエスの妻・ベッツィであり、彼女は双眼鏡で海の方向を見ている。ヒトデが置かれた窓枠の向こう側から、外からの豊かな光が入ってきており、ベッツィはそのなかに立っている。鮮やかな海とともにあるベッツィの姿だが、それは窓という「境界」の向こう側にいる存在であることも印象づけられている。ベッツィの意識は、はるか青い海の向こうに注がれている。長年連れ添った画家の妻が、同時にひとりの個人であるという事実。そこにある「境界」が、この窓と光によって示されているようにも受け取れる。

《薄氷》(1969)パネルにテンペラ 110.2×121.9cm。ワイエスが自身の人生を述懐するように描いた作品

 ワイエスの作品における「境界」は、窓や扉、柵といった具体的な構造物以外にも見出だせる。《薄氷》(1969)は、氷の下に沈む枯葉を描いた作品で、ワイエスの作品のなかでは変わったモチーフと言える1枚だ。乾いた質感のテンペラによって、氷のなかの気泡や光の屈折が表現され、氷の重層的な表情をつくり出している。氷という「境界」の向こう側にある枯葉について、ワイエスは本作の購入者への手紙で「重ねた経験や出会った人々」であると説明した(会場の解説パネルより)という。絵画を見る者と、アンドリュー・ワイエスというひとりの画家との、交わらない、しかしだからこそ絵画として魅力的な距離がここに生まれている。

 「アメリカの国民的な画家」と言い習わされてきたワイエスだが、それはたんに「アメリカの郊外の普遍的な風景を描いたから」というだけではないことが本展を通して見えてくる。乾いた質感とコントラストの薄い色調や、対象の不在、「境界」の意識など、ワイエスの絵画には孤独や寂しさがつきまとうが、そこには世界中からアメリカに移り住んで来た人々が築いてきた、孤独をはらんだ連帯が見い出せはしないだろうか。アメリカという国のあり方が根本から揺さぶられるこの時代において、ワイエスの絵画が語りかけてくるものは多い。