アンドリュー・ワイエスとは何者だったのか。日本における研究の第一人者・高橋秀治の言葉から探る
アンドリュー・ワイエス(1917〜2009)の没後、日本初となる回顧展「東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展」が4月28日~7月5日に開催される。豊田市美術館(7月18日~9月23日)、あべのハルカス美術館(10月3日~12月6日)にも巡回が予定されている本展を機に、アメリカ具象絵画を代表する画家であり、私的なモチーフから普遍的なイメージを様々に喚起するワイエスの生涯と作品の特徴を、日本におけるワイエス研究の第一人者である豊田市美術館館長・高橋秀治の言葉から迫ります。※4月26日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

──アンドリュー・ワイエスは日本でも人気の高い画家ですが、その人物像には謎めいた印象もあります。まずは作家性の背景となる生い立ちからうかがえますか。
高橋秀治 アンドリュー・ワイエスは第一次大戦下の1917年、ペンシルベニア州チャズフォードに生まれました。決して豊かな時代ではありませんでしたが、父親のニューウェル・コンヴァース・ワイエスは人気の挿絵画家で、地域の名士でもありました。ワイエス家は裕福で文化的な環境に育っています。ワイエスは5人兄姉の末っ子で、長女・ヘンリエット、次女・キャロラインは画家、三女アンは作曲家でした。ヘンリエットの夫はピーター・ハード、アンの夫もジョン・マッコイという画家でした。このような芸術家一族でしたが、ワイエス自身は早くから指導を受けた姉たちに比べ、放っておかれたと感じていたようです。病弱で小学校にもほぼ通わず、午前中は家庭教師に学び、後はひとり近隣を歩き回って、自分の世界をつくるという少年時代を送りました。
生と死の気配のなかで
──ワイエスが本格的に絵に取り組むようになったのは、やはりそうした家族からの影響が大きいのでしょうか。
高橋 ワイエスは幼い頃から近隣の風景や、騎士や兵隊を想像して描いていましたが、父親に絵の手ほどきを受けはじめたのは15歳からでした。ワイエスにとって父親は偉大な存在でしたが、反発も感じることがあり、失った片腕の代わりにフックをつけたアフリカ系アメリカ人を描いたときに、父親が「美しくない」とワイエスの目の前でそのフックを消してしまったこともあったそうです。ワイエスの絵に対する思いと、父親の思いは必ずしも一致しませんでした。
そんな父親は、ワイエスが28歳の頃に踏切事故で急逝します。父の死はワイエスの生涯に影を残しました。さらにその5年後、自身も肺の病気で片肺の半分を切除する大手術を受け、ある種の臨死体験をします。そうした経験から「生と死」に敏感になり、作品の深みも増していきました。
──23歳の頃に父の反対を押し切って結婚した妻のベッツィは、生涯の大きな支えだったそうですね。
高橋 ベッツィはワイエスのマネージャー役として、ほぼすべての作品の記録を亡くなるまで取り続けました。ワイエスも出品した展覧会を機に知り合った、エドワード・ホッパーの妻で画家でもあったジョセフィンから、夫の絵の記録を丹念につけていると聞いたことがそのきっかけです。ワイエスは作品ができると最初にベッツィに見せ、タイトルも相談していたようです。なかにはベッツィがタイトルをつけたと思われる作品もあり、絶筆とされる《グッバイ》(2008)もそのひとつではないかと思われます。
私もワイエス夫妻には何度か会いましたが、ワイエスは事前に聞いていたよりも気さくで、ベッツィは聡明な印象の人でした。ワイエスが資質を発揮し、これほど大きな画家になったのは、ベッツィの存在があったからだと思います。
──アフリカ系アメリカ人のコミュニティをはじめ、多様な人々と交流を築いていたことも、当時のアメリカ社会においては異例のことだったのではないでしょうか。
高橋 子供時代から近くにリトル・アフリカと呼ばれたコミュニティがあり、深い親交がありました。存命中には「親友たち」と題してアフリカ系アメリカ人を描いた絵を集めた展覧会も開催したほどです。ワイエス自身の家系もスイス系やイギリス系ですし、生家の隣人で絵のモデルになったカール・カーナーはドイツからの入植者で、代表作《クリスティーナの世界》(1948)に描かれたクリスティーナ・オルソンの父は、スウェーデンからの移民でした。移民の国アメリカで、多様なルーツの人と交流した画家でした。













