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2026.4.25

アンドリュー・ワイエスをもっと知るための6つのキーワード

アンドリュー・ワイエス(1917〜2009)の没後、日本初となる回顧展「東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展」が4月28日~7月5日に開催される。豊田市美術館(7月18日~9月23日)、あべのハルカス美術館(10月3日~12月6日)にも巡回が予定されている本展を機に、ワイエスをもっと知るためのキーワードを専門家に教えてもらいました。※4月26日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=荒木康子(元福島県立美術館学芸員)、小塚麻優子(一橋大学大学院言語社会研究科修士課程) 監修=高橋秀治(豊田市美術館館長)

洗濯物、白壁の家、犬という牧歌的なモチーフがアメリカの象徴的な風景を浮かび上がらせる。アンドリュー・ワイエス《洗濯物》(1961)紙に水彩 76.8×55.9cm カマー美術館、ジャクソンビル Gift of an Anonymous Donor, Cummer Museum of Art & Gardens, Jacksonville, Florida, USA ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR,
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KEYWORD 1:父と息子
向き合い、乗り越えるべき存在

 ワイエスの父・N.C.ワイエスは、『宝島』『ロビンソン・クルーソー』などの挿絵で成功を収めた、20世紀初頭のアメリカン・イラストレーションを代表する画家だった。アンドリューは、N.C.の5番目の子供で末っ子。2人の姉は画家、兄は化学者、もう1人の姉は作曲家になった。

 アンドリューは小さい頃から虚弱で学校に通えず、家庭教師に学ぶ。絵画については、姉2人と異なり英才教育を受けたわけではなく、父は息子をしばらく見守り、本格的な絵画の指導をするようになるのは15歳頃だった。決して早くはないが、それでもほどなくワイエスは画家としての才能を開花させていく。しかし同時に父との違いを感じ始め、愛憎半ばする父と息子の葛藤を抱えるようになっていった。そして23歳でベッツィ・マール・ジェイムスと結婚する。父から反対されていたこの結婚も、自立へのひとつのステップだったといえるかもしれない。

1945年、不慮の交通事故によって突然父が亡くなった年の自画像。アンドリュー・ワイエス《自画像》(1945)パネルにテンペラ 63.5×76.2cm ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、ニューヨーク National Academy of Design, New York, USA/Bridgeman Images. ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo

 しかし1945年、不慮の交通事故によって突然父が亡くなる。ワイエスは28歳だった。家父長としての父、芸術の師としての父、ワイエスにとって精神的な支柱であり、支配的な位置にあった父を乗り越える間もなく急に失い、大きな衝撃を受ける。世界のはかなさ、物事の循環と移ろい。この時得た死生観は、「オルソン・シリーズ」「カーナー・シリーズ」などその後のワイエスの作品に成熟をもたらすことになる。長い時間をかけ、息子ワイエスは、不在となった父と向き合い、父を乗り越え、自らの芸術の道を切り拓いていった。(荒木)

KEYWORD 2:テンペラ
写実を超えた作品を生み出すために

 ワイエスは3つの技法、鉛筆、水彩、テンペラを使い分けている。着想や発見を素早く描き留める鉛筆素描。同じく即興的で感情的だが、色彩の表情が加わり、空気感や温度、音などをより自由で伸びやかに表現できる水彩。水彩でも、筆の先の水分を指先で搾り、わずかに残った絵具の線によって、まるで織物を織り上げるように描いていくドライブラッシュ。そしてテンペラ。

 テンペラの歴史は古代エジプトまで遡るといわれ、油彩より古い。1930年代後半、ワイエスは姉の夫で画家のピーター・ハードからこの技法を学んだ。多くの画家が油彩を使うなか、油絵具の艶のあるこってりとした質感が肌に合わず、ワイエスはテンペラのマットな表面の仕上がりと、落ち着いた色彩を好んだ。

テンペラのマットな白のなかに複雑な陰影が表現されている。アンドリュー・ワイエス《灯台》(1983)パネルにテンペラ 84.5×57.8cm ユニマットグループ ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo

 卵の黄身と水と顔料を混ぜて作つくるテンペラ絵具には速乾性があり、いったん乾けば油彩よりも堅牢な画面となる。しかし油彩のように早く描くことができず、素描や水彩の瞬発力を必要とする技法と異なり、少しずつ塗り重ねていかねばならない。だが逆に時間をかけ、思索を深めながら取り組むことができる技法でもある。自ずと要求される対象とのそうした向き合い方は、鉛筆素描や水彩とは異なった、緻密でリアルでありながら、写実を超えた作品を生み出すことを可能にした。

 ワイエスの場合、素描、水彩が下絵でテンペラが完成作と分類できるわけではない。表現したい内容に応じて、鉛筆、水彩、ドライブラッシュ、テンペラという技法がそれぞれ選び取られている。(荒木)

KEYWORD 3:アメリカン・リアリズム
ナショナル・アイデンティティとしてのワイエス

 アメリカの具象絵画には、ヨーロッパとは異なる固有の流れがある。19世紀のハドソン・リヴァー派が大陸の自然を崇高の対象として描き、ウィンスロー・ホーマーやトーマス・イーキンズが日常の人間と風景を鋭い観察眼で捉えた。その流れは20世紀のリージョナリズム(地域主義・地方主義)のグラント・ウッドやトーマス・ハート・ベントンらによる農村礼賛へと続いていく。ワイエスはこの系譜に位置付けられながらも、そこから独自の場所へと踏み出した画家だった。

ワイエス《冬の野》(1942) パネルにテンペラ ホイットニー美術館 Whitney Museum of American Art, New York; gift of Mr. and Mrs. Benno C. Schmidt, in memory of Mr. Josiah Marvel, first owner of this picture 77.91 ©2026 Wyeth Foundation for American Art / New York / JASPAR, Tokyo

 同時代の画家であり、都市の孤独と硬質な光でアメリカの疎外感を描いたホッパーに対して、ワイエスは農村の静寂と時間の積み重なりを見つめた。《冬の野》(1942)における枯れ草の繊維、《スウィープ》(1967)の積み上げられた石垣とその向こうに見える稜線には、土地そのものの有機的な密度がある。

 広大な自然、開拓の記憶といった価値観は、アメリカのナショナルアイデンティティを支えてきた。ただし彼がほかのリージョナリストと一線を画すのは、祝祭的な雄大さを排し、衰退や孤立のなかにある個の姿を描き続けた点にある。

 そしてワイエスが繰り返し描いた窓や扉は、ルネサンス期のアルベルティ以来西洋絵画が想定してきた「開かれた窓」——観者の視線を世界へと透過させる装置——とは逆の力学を持つ。向こう側への通過を宙吊りにし、見ることそのものを問い返す境界として機能している。この一点にも、アメリカ具象絵画の系譜のなかでワイエスが占める場所の独自性が、端的に表れている。(小塚)

KEYWORD 4:ペンシルヴェニア州とメイン州」
固有の歴史があるからこそ生み出されたもの

 ワイエスが生涯描き続けた土地は、ペンシルヴェニア州チャッズ・フォードとメイン州クッシングの2ヶ所に限定される。重要なのは、固有の歴史と人物と物質が重なり合う場として機能したという視点だ。

 チャッズ・フォードは、クエーカー教徒の農村文化とドイツ系移民の歴史、そして黒人コミュニティの暮らしが重なる土地だった。ワイエスは少年時代から近隣のアフリカ系アメリカ人の家々に自由に出入りし、その暮らしを描いた。《マザー・アーチーの教会》(1945)は、地域の黒人コミュニティの礼拝所を描いた作品だ。《ケネットの集会所》(1980)では、クエーカーの質素な集会所建築が、装飾を排した光と影のなかに静かに浮かび上がる。土地の歴史や共同体の記憶は説明されるのではなく、建築の質感や光の落ち方として、ひっそりと画面に滲み出ている。

背景から土地の植生がわかる。アンドリュー・ワイエス《クリスティーナ・オルソン》(1947)パネルにテンペラ 83.8×63.5cm マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス Myron Kunin Collection of American Art, Minneapolis, MN photo: Curtis Galleries, Inc. ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR,Tokyo

 《クリスティーナ・オルソン》(1947)をはじめ、オルソン姉弟と長い歴史を持つオルソン・ハウスそのものの肖像は、この土地と切り離せない存在として画面に現れる。草の繊維、木材の風化、皮膚の質感。水彩やドライブラッシュが定着するのは、場所の記憶を宿した物質そのものだ。(小塚)

KEYWORD 5:オルソン・ハウス」
親密で豊かな場所として

 ワイエスの夏の家があるメイン州には、友人クリスティーナとアルヴァロ・オルソン姉弟が住んでいた。ワイエスが初めて彼らを訪ねたのは1939年。のちに妻となるベッツィに連れられてのことだった。それからおよそ30年、1967年のクリスマスにアルヴァロが、1ヶ月後にクリスティーナが亡くなるまでふたりを描き続けた。ふたりはワイエスにとってもっとも重要なモデルであった。

 彼らが住んでいた家はオルソン・ハウスと呼ばれていた。ここには長い歴史がある。1743年、ハソーン一族がマサチューセッツ州セーラムからこの地に移り住み、丸太小屋を建てたのが始まり。18世紀末に本格的な家屋に建て替えられ、さらに1870年には3階建に増築されて、夏だけの宿として一時期営業もしていたという。その後、スウェーデン人オラウソンがハソーン家の娘と結婚し、英語風にオルソンと名乗りこの家を引き継ぐ。そしてオルソン・ハウスと呼ばれるようになった。

住人のいなくなったオルソン家。アンドリュー・ワイエス《オルソン家の終焉》(1969)パネルにテンペラ 46.5×49.5㎝ クリーブランド美術館 The Cleveland Museum of Art, Promised Gift of Nancy F. and Joseph P. Keithley ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo

 ワイエスは、ふたりの主人公が不在のオルソン・ハウスも多く描いている。代わって主役をなしているのは、例えばアルヴァロがブルーベリー摘みに使っていた木の桶、クリスティーナがいつも座っていた部屋に通じる青い扉、アルヴァロが老いて修理もままならなくなり、白く干からびた壁板。たとえふたりが不在であったとしても、日常的な生活風景のなかに存在するそれらのものに、ふたりの気配や息づかいを感じ、ワイエスは一つひとつ慈しむように描き出している。このオルソン・ハウスの佇まいそのものに、障害を抱えながらも自立心を持って誇り高く生きるクリスティーナ、物静かに黙々と姉を支えるアルヴァロ、ふたりが過ごした時間、紡いできた物語、もっと言えば、彼らを育んだオルソン家の長い歴史が息づいているとワイエスには思えたからであろう。

 現在オルソン・ハウスはファーンズワース美術館が管理公開しており、2003年には、国定文化財史跡保存建造物に指定された。(荒木)

KEYWORD6:アメリカを描く
象徴性のなかにある複雑さ

 「私はアメリカ人に、アメリカとはどのようであるかを示したい」──1963年、『TIME』の表紙を飾ったワイエスはそう語った。この言葉は、描いた対象の報告であると同時に、みずからの絵画的世界を根拠づける宣言でもあった。

 同年、ワイエスはジョン・F・ケネディ大統領から自由勲章を授与され、アメリカ文化の公的な象徴として広く認知されるようになった。アメリカ芸術文学アカデミーへの選出、複数の大学からの名誉博士号取得を通して、「国民的画家」という評価は制度的に積み重なっていった。冷戦の緊張と急激な社会変動のなかで、農村の静けさ、木造建築の質感、摩耗していく事物と人の姿など、ワイエスの絵画が体現した「アメリカ」像は、時代に独特の吸引力を持ちえた。

氷に閉じ込められた落ち葉という抽象的なモチーフではるが、そこに複雑なアメリカ社会の原風景を読むこともできる。アンドリュー・ワイエス《薄氷》(1969)パネルにテンペラ 110.2×121.9cm 株式会社三井住友銀行 ©2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo

 しかしワイエスが実際に描いた「アメリカ」は、そうした称号が喚起するイメージよりもずっと複層的だ。《自画像》(1945)が示す内省的な視線、《オルソン家の終焉》(1969)では衰退していく土地と過ぎ去った過去、《薄氷》(1969)に見られるある種抽象的ともいえるモチーフの中心を持たないオールオーバーな画面構成は、いずれも「アメリカの誠実さ」という単純な称揚には収まりきらない緊張を孕んでいる。

 ワイエスが描いた私的な風景は、アメリカの原風景の一側面へと読み替えられていった。本展の作品群はその変換の過程を問い直す機会でもある。絵画の前に立つとき、より多層な「アメリカ」の姿が見えてくるはずだ。(小塚)