レンブラントはいかにして美術を学んだのか
──その後、レンブラントは大学を辞して、本格的に絵を学ぶことになります。最初の師はどのような人物で、どのような技術を学んだのでしょうか。
深谷 レンブラントが最初に就いたのはヤーコプ・ファン・スワーネンブルフ(1571〜1638)という画家です。彼はライデンで画家として活躍し、政治家としても実績を残したイサーク・ファン・スワーネンブルフ(1537〜1614)という画家を父に持っていました。レンブラントにとっては、同じ町にいる非常に評判の高い画家の息子、という位置づけの人物だったはずで、同じ町の画家に弟子入りするというのも、自然な流れだったと思われます。
レンブラントは2〜3年をスワーネンブルフのもとで過ごします。具体的にどのような影響を受けたかについてはあまりわかっていませんが、作品を比較しても類似点はたいして見当たらないため、基本的には基礎的な修業をしたと考えられます。パネルの下準備や、キャンバスの張り方、当時は既製品がなかった絵具のつくり方や地塗りの方法といった、絵画の基礎技術を教わったはずです。
むしろレンブラントの作風や技術に影響を与えたのは、次の師となるピーテル・ピーテルスゾーン・ラストマン(1583〜1633)だったと思われます。彼はイタリアへ留学して帰国した後、アムステルダムで活動していました。「物語画」を得意としていた画家で、さらに当時の画家のなかでは豊かな蔵書でも知られており、その知識を実作に反映させる画家でした。例えば古代ローマの物語を描く際には、当時の風習を忠実に画面に反映させるなど、非常に工夫を凝らした形跡が見られます。
レンブラント・ファン・レイン《バラムとロバ》(1626)パネルに油彩 63.2×46.5cm コニャック・ジェイ美術館(フランス、パリ)
ピーテル・ピーテルスゾーン・ラストマン《バラムとロバ》(1622)パネルに油彩 41.3×60.3cm イスラエル美術館(エルサレム) レンブラントは、このラストマンから多くのことを学んだに違いありません。西洋美術史における画題には、キリスト教やギリシャ・ローマ神話から採られたいわば「定番」がありますが、ラストマンはこれまでに描かれたことのない新しい題材を描くなど、非常に開拓心に満ちた画家だったのです。レンブラントはラストマンのもとで、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢や、主題を開拓する方法、そしてそれを表現するための工夫を、短い期間ではありましたが深く学んだのだと思います。例えば《バラムとロバ》(1626)に描かれた、旧約聖書のバラムとロバの物語などは描かれることの少ない主題ですが、ラストマンの試みに応じるかのように、レンブラントも同主題の作品を制作しています。
──そのほか、レンブラントに影響を与えた画家はいるのでしょうか。
深谷 彼が若い頃にアトリエを共有していたヤン・リーフェンス(1607〜74)の存在は、大きいと言えるでしょう。リーフェンスもレンブラント同様にラストマンに学んだ画家です。彼らはほとんど同い年で、お互いに切磋琢磨し合うライバルであり、友人でもありました。家も徒歩5分ほどしか離れていない場所に住んでおり、お互いのアトリエを頻繁に行き来していたようです。それぞれの絵画についての議論を交わし合える関係性だったのでしょう。若い頃のレンブラントにとって、リーフェンスとの関わりは極めて大きなものでした。
また、ライデンの町にはかつてリューカス・ファン・ライデン(1494〜1533)という非常に高名なエングレーヴィング(ダイアモンド様の固い刃のついた器具「ビュラン」を使い、銅版に線を彫り、その溝にインクを埋めて刷ることで作品にする、エッチング以前に主流だった版画技術)を手がける作家がいました。彼はレンブラントより100年ほど前の時代の人物ですが、地元で活動した重要な作家としてレンブラントが意識していた可能性は大いにあると思います。
ハイヘンスとの出会いと感情表現の強み
──レンブラントは活動の初期から若くして人気画家に上り詰めていくわけですが、彼が高い評価を得た最大の理由はなんだったのでしょう。
深谷 私が一番大きかったと考えているのは、レンブラントのアトリエを訪れたパトロンたちも指摘している「卓抜した感情表現」です。彼が20代前半の頃、オランダ総督の秘書官であり宮廷の美術を担当するエージェントでもあったコンスタンティン・ハイヘンス(1596〜1687)がアトリエを訪れ、レンブラントとリーフェンスの作品を目にしました。その際、ハイヘンスはレンブラントの油彩画、とくに《銀貨を返すユダ》(1629)を大絶賛し、まだ髭も生えそろわないようなオランダの若者が、この作品で古代の作家にもまったく劣らない、すさまじい表現を達成している、と言ったのです。ハイヘンスが絶賛したポイントこそ、まさにその「感情表現」でした。
レンブラント・ファン・レイン《銀貨を返すユダ》(1629)パネルに油彩 79×102.3cm マルグレイブ城、ノース・ヨークシャー、スコットランド このハイヘンスに見出され、オランダ総督の周辺からの高額な注文の数々を受注できたことは、レンブラントのキャリアにおいて非常に大きなことだったと思います。総督のフレデリック・ヘンドリック(1584〜1647)や、腹心であるハイヘンスが作品を頼んでいるとなれば、ほかのパトロンたちの注目も集まりますし、実際に、この時期の彼らは、ボヘミア王フリードリヒ5世(1596〜1632)の2人の息子とそれぞれの家庭教師の肖像画などを受注しています。このように、レンブラントの初期の評価においては、ハイヘンスの周囲の仕事を多くこなしたことが決定的な役割を果たしました。
銅版画へのこだわり
──今回、国立西洋美術館で開催される展覧会は「銅版画家レンブラント」というテーマで、版画作品の展示が大きな割合を占めています。レンブラントはエッチングやドライポイントといった技法を使った銅版画に、いつ頃から取り組んでいたのですか。
深谷 はっきりとした年代は不確定ですが、1625年頃だと思われます。レンブラントが20歳になったばかりの頃、リーフェンスと同時期に取り組み始めているため、ふたりで一緒にやり始めたのだろうと考えられます。
──当時のオランダでは、レンブラントのように銅版画に積極的に取り組む画家は多かったのですか。
深谷 意外と少ないと思います。銅版に直接彫り込むエングレーヴィングは職人技が必要なため、版画専門でもない限り、手がける画家はほとんどいませんでした。いっぽう、エッチング(防食剤を塗った銅版を引っかくことで金属部を露出させ、その削られた部分を酸などに浸して腐食させて凹みをつくり、インクを流し込んで印字する方法)も、専門の設備や酸性溶液の調合、腐食の時間といった高度な知識が必要なため、手がける画家はそこまで多くはありませんでした。レンブラントとリーフェンスが師事した画家にも銅版画の専門家はおらず、レンブラントが誰からこの技法を教わったのかわかっていません。候補としてはヨハネス・ファン・フリート(1600/10~68)やジャック・デ・ヘイン3世(1596~1641)といった版画家が挙げられてきましたが、独学に近かったのではないか、とも目されています。
──レンブラントの作品はエッチングとドライポイント(エングレーヴィングと同様に腐食を使わず、銅版を直接彫り込む技法。鉄筆を使うことで彫りの両端が盛り上がり細かな滲みなどが表現できる)を組み合わせて陰影を巧みにつくった作品も多く、これら銅版画の技法を意識的に使い分けていることが作品から伝わってきます。このようにレンブラントが銅版画に強い関心を持った理由をどのように考えていらっしゃいますか。
深谷 レンブラントは油彩画においても明暗への強い関心を持っていましたから、油絵具のマチエールとはまた違う質感で、線を主体にしながら絵画的な明暗を紙の上でつくり出す銅版画に、深い興味があったのだと思います。わずかな変更で見え方が劇的に変わりますし、一度彫った銅版に少し手を加えて別の状態(ステート)をいくつも刷り出していくプロセスは、彼にとって興味深いものだったのでしょう。
レンブラント・ファン・レイン《病人たちを癒すキリスト》(1649頃)和紙にエッチング、ドライポイント、ビュラン 28.2cm×39cm レンブラント・ハウス美術館 もちろん、レンブラントの版画がよく売れた、というのも大きな理由だと思います。レンブラントは浪費家で、つねに資金を必要としていましたから、版画をたくさん売るたことは重要でしたし、17世紀は、版画コレクターたちもある種の競争心も抱きつつ、非常に貪欲に活動していました。そのため、レンブラントはステートをたくさんつくってみたり、わざわざ高価な羊皮紙に刷ってみたり、日本から輸入された高いクオリティを持つ和紙を使ってみたりすることで、彼らのコンプリート欲や変わったヴァージョンへの興味をかき立てたのです。このようにバリエーションをつくることで、作品を集める人々の購買欲を刺激するやり方は、ほかの作家に比べても飛び抜けて上手でした。