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2025.10.4

「ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末」(パナソニック汐留美術館)開幕レポート。時代を超えて花開いたウィーン文化のダイナミズムを見る

パナソニック汐留美術館で「ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末 生活のデザイン、ウィーン・劇場都市便り」が開幕した。会期は12月17日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

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 東京・汐留のパナソニック汐留美術館で、「ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末 生活のデザイン、ウィーン・劇場都市便り」が開幕した。会期は12月17日まで。担当は同館学芸員の宮内真理子。

 19世紀末から20世紀初頭のウィーンでは、独自のモダンスタイルが確立された。オーストリアの建築家、オットー・ヴァーグナーが実用性と合理性を重視する「実用様式」を提唱。その思想に共鳴した弟子、ヨーゼフ・ホフマンらが推進したウィーン世紀末のデザインには、幾何学的で建築的な造形を特徴とし、実用性と快適さを実現する機能美が備わっていた。

展示風景より、ウィーン工房製の器

 こうした世紀末のデザイン革新の背景には、19世紀前半の建築様式である「ビーダーマイヤー様式」への回帰がある。手工業の質の高さ、模倣ではない主体的なデザイン、自然モチーフへの親しみなどが、世紀末のデザイナーたちにとって「近代的な住文化の出発点」として賞賛された。こうして、過去の遺産を意識的に継承し、造形の基盤として参照しながら、より時代に即した造形に発展させることで独自の「ウィーン・スタイル」を獲得していった。

 本展はこの「ビーダーマイヤー」と「世紀転換期」という、ウィーンの2つの特徴的な時代を取り上げ、銀器、陶磁器、ガラス、ジュエリー、ドレス、家具など、多彩な作品約270点を展示するものだ。

 序章「美意識としてのビーダーマイヤー」では、本展を象徴する存在として、アルベルト・バリス・ギュータースローの水彩画《アーダルベルト・シュティフターに捧ぐ―高みを目指して》(1937)を展示している。表題のアーダルベルト・シュティフター(1805-68)は、ビーダーマイヤー時代を代表する文学者であり、20世紀の入ってから描かれた本作は彼へのオマージュだ。花瓶の背景には気球、背の低い建物、音楽を表す楽譜など、技術を称え生活を眼差すというビーダーマイヤー時代の美意識が凝縮された1枚といえる。

展示風景より、アルベルト・バリス・ギュータースロー《アーダルベルト・シュティフターに捧ぐ―高みを目指して》(1937)アセンバウム・コレクション

 第1章「ビーダーマイヤー ─ミニマルなかたちに宿る宇宙の雛形、日常を彩る劇場的な装飾」では、ビーダーマイヤー時代、つまり18世紀末から19世紀半ばにかけてのウィーンの生活文化と造形の展開を示す。

 この時代は抑圧的な政治のもと、人々の意識は家庭での生活へと向かい、実用性・簡素さ・誠実さを備えた手工芸が称揚された。シンプルで幾何学的な、モダニズムにも通じるデザインの数々は、現代の価値観においても思わず所有欲をそそられるものだ。

展示風景より、ビーダーマイヤー時代のインテリア
展示風景より、ビーダーマイヤー時代の銀器

 第2章 「総合芸術」、二つの時代―ビーダーマイヤーとウィーン・スタイル」では、19世紀前半のビーダーマイヤー銀器やガラス作品と、20世紀前半にデザインされたウィーン工房やロブマイヤー製の作品を相互に比較する。

展示風景より、左からヨーゼフ・ホフマン《センターピース》(1924-25)、《サモワール》(1838)

 とくに注目したいのは、ウィーン世紀末のデザイナーたちが、約100年前のビーダーマイヤーの造形を学び、巧みに同時代のデザインに取り入れていったことがわかる品々だ。例えば、アントン・ケル 《キャセロール鍋》(1807)とヨーゼフ・ホフマン 《グラーッシュ用の器》(1907)の制作年には100年という開きがあるが、そのシンプルな造形やデザインの根底には共通性が見られる。いっぽうで滑らかな曲線や装飾的な取っ手など、後者においてはより洗練への工夫がされていることもわかる。

展示風景より、奥左がアントン・ケル 《キャセロール鍋》(1807)、奥中央がヨーゼフ・ホフマン 《グラーッシュ用の器》(1907)

  第3章「ウィーン世紀末とウィーン工房─暮らしと時代をリードした女性たち」では、帝国の近代化と急速な都市拡張のなかで、建築、デザイン、工芸の分野に革新が起きたウィーンの世紀転換期に焦点を当てる。

展示風景より、左からダゴベルト・ペッヒェ《箪笥(ウィーン工房チューリッヒ支店の家具の一部)》(1917)、《エドゥアルト・アストのためのアームチェア》(1922)、《センターピース》(1920)

 オットー・ヴァーグナーは(1841〜1918)は、世紀転換期のウィーンにおいて、近代的な美学のあり方を示し、その教え子であるヨーゼフ・ホフマン(1870〜1956)と画家のコロマン・モーザー(1868〜1918)は、1903年にウィーン工房を創設、総合芸術としての生活芸術を目指した。なお、工房では多くの女性アーティストやデザイナーたちが活躍したことも特筆できる。また、アドルフ・ロース(1870〜1933)もウィーン工房と対峙しつつ、自らの建築において同時代的な合理性を追求していった。会場ではこの時代の熱気を伝える展示品を見ることが可能だ。

展示風景より、左からヨーゼフ・ホフマン《サナトリウム・プルカースドルフの食堂の椅子》、コロモン・モーザー《アームチェア》(1903)、ヨーゼフ・ホフマン《ストンボロー夫妻のベルリンの住居の洗濯物チェスト(使用人部屋用)》(1905)

 本展において重要なのは、この19世紀末の文化を支えた女性達の活躍にも目を向けている点だろう。

 批評家・ジャーナリストのベルタ・ツッカーカンドル(1864〜1945)は、自宅のサロンで芸術家や知識人の交流をうながし、作家、作品、思想の紹介や批評が交わされる文化的な場をつくりあげた。さらに、サナトリウムの計画にも関わり、施主である義弟とホフマンを引き合わせるなど、活躍の機会創出についても尽力している。

 ウィーン分離派の代表的画家であるグスタフ・クリムト(1862〜1918)が肖像画を残している、マーガレット・スタンボロー=ヴィトゲンシュタイン(1882〜1958)は、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)の姉でもあり、世紀末ウィーン文化を深く理解し、住居にウィーン工房のしつらえを取りれる実践者であった。同じくクリムトの肖像で知られるオイゲニア・プリマヴェージ(1874〜1962)もホフマンが手がけた邸宅や別荘に暮らし、理念を体現したひとりだ。

 エミーリエ・フレーゲ(1874〜1952)はウィーン工房が内装を手がけたファッションサロンを経営。コルセットから解放された改良服を考案。さらにウィーン工房が制作したジュエリーを組み合わせる、トータルコーディネートなども提案していた。

展示風景より、ウィーン工房製のビーズバッグやアクセサリー

 音楽家、グスタフ・マーラー(1860〜1911)の妻であったアルマ・マーラー(1879〜1964)は、ホフマン設計の邸宅に住み、ウィーン分離派とも交流。芸術を生活に根ざしたものとしてとらえる感性を育んだ。グスタフの没後は画家のオスカー・ココシュカ(1886〜1980)と恋愛関係になり、その創作を支えた。

展示風景より、左からオスカー・ココシュカ《アルマ・マーラーの肖像》(1912)、グスタフ・クリムト《17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像》(1891)、《「オイゲニア・プリマヴェージの肖像」の習作》(1913-14)、ヨーゼフ・ホフマン《温度計(プリマヴェージ家旧蔵)》(1905)

 このように、本章は芸術やデザインの潮流のみならず、それらの実践者として文化を支えた女性たちについても詳細にわたり紹介している。つくり手だけでは文化が成り立たないことを、改めて教えてくれる試みといえるだろう。

  第4章「ウィーン・エコーズ─『ウィーン・スタイル』の継承と共鳴」では、「ウィーン・スタイル」の精神が、世代と場所を超えてどのように受け継がれたのかを紹介する。

 陶芸家ルーシー・リーは、ウィーン工芸美術学校で学び、卒業後はウィーン工房とも関わりをもちながら作品を発表していった。イギリスへ亡命後は、機能性と優美さを兼ね備えた、きわめて洗練された陶磁器を制作します。彼女の作品には「ウィーン・スタイル」の美意識が息づいている。

展示風景より、左がヨーゼフ・フランク《フロアランプ》(1934[デザイン])

 ほかにも、グラーツ工芸美術学校で学んだのちフィンランドで活躍した陶芸家フリードル・ホルツァー=チェルベリ、ウィーン工房で活躍し、後に京都に拠点を移したフェリーチェ・リックス(上野リチ)、ホフマンに学びロースやウィーン工房の理念に影響を受けた建築家、ヨーゼフ・フランクなどの作品もここでは見ることができる。

 100年以上にわたりウィーンで育まれた、文化のダイナミズム。さらに100年後の現代を生きる人々が、文化をつくるとはどういうことなのかを改めて学ぶことができる展覧会といえるだろう。