2026.8.19

学芸員・大内曜インタビュー:いくつもの「場所」と「時間」を共鳴させ、東京都美術館の100年を語り直す

東京・上野の東京都美術館で、開館100周年記念企画の一環として、「この場所の風景―上野・大牟田・ブエノスアイレス」展が開催されている。日本初の公立美術館として誕生し、日本の近現代美術の展開とともに歩んできた同館が、その歴史を振り返るとともに、そこから遠く離れた場所で私的に展開されてきた美術活動も丹念にたどる本展。ここでは、美術のもつ根源的な価値と美術館の今後の在り方までを問う試みがなされている。企画を担当した東京都美術館学芸員の大内曜に、展示に込めた思いを聞いた。

聞き手・構成=山内宏泰 撮影=手塚なつめ

本展を担当した大内曜(東京都美術館学芸員)。壁面の作品は江上茂雄による水彩画シリーズ
前へ
次へ

3つの場所から「東京都美術館の100年」を語る

──タイトルにもあるように、本展では「この場所の風景」として「上野」「大牟田」「ブエノスアイレス」の3つの都市が舞台となっています。この構成の意図について、まずは教えてください。

大内曜 本展は「東京都美術館の100年」を様々な角度から見つめ直そうという試みであり、100年という「時間」と、上野をはじめとする「場所」をキーワードに据えました。会場も、タイトルにある3つの場所を舞台にして全三部で構成されています。

 まず第一部「上野―東京都美術館の100年」では、開館100周年を迎える東京都美術館のあゆみと、館の周りに広がる上野という街の風景の移り変わりを見つめ直します。第二部「大牟田―江上茂雄の100年」では、福岡県大牟田市で101年の生涯を過ごした画家・江上茂雄(1912〜2014)に注目します。東京都美術館とは直接の関わりはないのですが、そうした表現者を取り上げることで、「東京都美術館」という制度が見落としたり見過ごしたりしてきたものにも焦点を当てたかったのです。

 さらに第三部「ブエノスアイレス―《百日草の庭》をめぐる100年」では、市井の人々の記録に着目したメディアづくりを展開してきたAHA! [Archive for human Activities /人類の営みのためのアーカイブ]に展覧会への参加を依頼し、企画制作していただいたリサーチ・プロジェクトが展開されます。ここでは、アルゼンチンのブエノスアイレスという土地が舞台となります。発端となったのは、当館の最初の収蔵品となった藤岡鉄太郎(ふじおか・かねたろう)の《百日草の庭》(1926)という来歴が不明の絵画でした。ちょうど100年前に描かれたこの絵の謎を追うと、同名の人物がこの頃ブエノスアイレスに移住していたことがわかったのです。2人が同じ人物なのかを探るため、ブエノスアイレスに渡った人物の足跡を追いかけていくプロセス自体が、プロジェクトとして展示されています。

──一見すると、この3つの都市には関連性が薄いように思われます。その糸口を知るためにも、各部の具体的な内容をお聞かせください。

大内 第一部では、当館の歴史をダイジェストでたどっていきます。冒頭に並ぶのは、開館した1926年頃の美術館をモチーフにした写真や版画、絵画などです。続いて設けたのが「戦争と戦後」というセクション。1940年代前半の太平洋戦争期には、戦意高揚のための「戦争美術展」が新聞社や陸軍・海軍の主催で行われました。当館はまさにそうした催しの会場となっていました。今回はその側面にフォーカスし、当時の戦争美術展で展示された作品をいくつか紹介しています。

第一部「上野―東京都美術館の100年」の展示風景。冒頭には「戦争美術展」に出品された作品や戦時下の上野を写した記録が並ぶ

 また、戦後の上野の様子も、写真や絵画などを展示することで描き出します。上野駅が焼け残ったことで、一帯には家を失くした人々が集まり、闇市が生まれました。引揚者たちの玄関口でもあった当時の上野が、いかに混沌としていたのかがよくわかります。

 さらに、1950年代から60年代の「アンデパンダンの時代」にも着目します。戦後の民主化とともに、芸術における従来のヒエラルキーを解体していこうという流れが起こり、無審査自由出品のアンデパンダン形式の展覧会が勢いよく広がっていきました。その代表ともいえる通称「読売アンデパンダン」展の出品作なども紹介しています。

 それから1975年、現在の前川國男設計の建築への建て替えの時期も扱っています。開館50年を迎えて「自主企画展」が始まったり、作品をコレクションしていく「収集活動」が本格化していったりと、美術館という組織が熟成していく過程をご覧いただけます。

「読売アンデパンダン」展に出展した作家たちの作品が並ぶ
東京都美術館で初めて収蔵された作品2点。左から、藤岡鉄太郎《百日草の庭》(1926)、鈴木昇一《臨海学校》(1927)

──第一部は東京都美術館の歴史全体というよりも、特定の視点に重きを置いたものになっていますね。

大内 はい。100年にわたり数多くの団体展や企画展、またそれ以外の大小様々な美術活動の舞台となった当館の歴史を、このスペースですべて振り返ることは不可能です。今回軸としたのは、戦前から戦後の社会・美術の状況の転換と、例えば開館とともに開催された「第一回聖徳太子奉讃美術展」、あるいは1970年の「人間と物質」展など、代表的な展覧会としてすでに何度も確認されてきたものをなぞるのではなく、読売アンデパンダンにおいても、児童の絵画クラブによる出品といった、館の歴史としてあまり注目されてこなかった事象に目配りをするような意識をしました。

 上野の100年を紐解いていくと、日本の美術史におけるこの土地の重要性も改めて見えてきます。明治時代に国を挙げて開かれる博覧会の舞台として上野公園が選ばれ、パビリオンのひとつとして美術館が建てられたことで「美術」という共通認識がこの地で育まれていきました。日本の美術を生み、育んできた土壌としての「上野」を再発見するきっかけになればと思っています。

大牟田を生きた画家の100年

──続く第二部では、上野から遠く離れた土地で活動した画家・江上茂雄が取り上げられます。この知る人ぞ知る画家を選んだ理由にはどのようなものがありますか。

大内 江上茂雄は1912年福岡県に生まれ、大牟田で暮らした画家です。会社員として大家族の生活を支えながら、空いた時間で生涯絵を描き続けました。戦時中までは水彩画や鉛筆によるスケッチが中心でしたが、戦後はクレヨンやクレパスを使った大画面の絵画へと展開し、さらに定年退職後は約30年間にわたり、身近な風景を水彩画で描き続けました。当館と直接の関わりはないのですが、同時代をまったく異なる土地で生きてきた美術家の営みを追うことで、様々な「もうひとつの100年」が存在したことを浮き彫りにできればと考えました。

第二部「大牟田―江上茂雄の100年」の展示の様子。初期のスケッチから水彩画、クレヨンやクレパスを用いた大画面の作品まで、江上の創作活動の全貌が紹介されている

 第一部とのつながりを探るとすれば、アンデパンダン展の隆盛期に福岡で結成された前衛美術集団「九州派」の存在が挙げられます。彼らがこぞって上京し、アンデパンダン展に出品した背景には、1960年代前後に大牟田で起きた炭鉱労働運動「三池争議」がありました。エネルギーが石炭から石油へと変わっていく転換期に起こった炭鉱労働者の生活の揺らぎが、九州派の作家らの原動力のひとつだったのです。

 じつは江上自身もまた、大牟田で炭鉱関係の会社に勤めていました。三池争議は当然ながら江上の創作にも大きな影響をもたらし、会社を追われる強い不安を抱きながら、それを原動力に新たな木版画による風景シリーズ(「大牟田五十景」)や、即興的につくりだす抽象絵画作品などを生みだしていきました。また、第一部では戦争の時代に焦点を当てていますが、江上にとってももちろん戦争の時代の苦しさは共通しています。美術館で大画面に描かれた戦地での兵士たちの活躍の姿に大勢の観客が熱狂するいっぽう、徴兵されなかった江上は屈折した思いを抱え、道端の花を描くことに救いを見出していました。離れた場所でありながら、社会の動きは地続きであり、それに対しそれぞれの場所で、それぞれの人がどういった反応を示していたのか、ということなども対比しながら鑑賞いただけたらと思っています。

──江上作品を鑑賞するうえで、具体的な注目ポイントを教えてください。

大内 キャリアのなかで自身の作風を大きく変化させている点でしょうか。若い頃は水彩画を、徴兵を免れた戦時下では鉛筆と水彩で道端に咲く花を線描で緻密に描き、そこからクレパスを使った風景画に長く取り組みました。また、先ほど話したように、三池争議の頃には、実験的な抽象絵画に挑戦したこともありました。

江上が定年退職後から約30年にわたって描いた水彩による風景画の数々

 そして第二部の大きな見どころとなるのは、定年退職後に再び水彩画へと回帰した約30年間の活動です。毎日のように遠くまで歩いていって、目の前の風景を1枚描いては帰ってくるという生活を続けました。日々の天候や本人の心情が反映されたのかとも想像されるこの晩年の水彩画シリーズが、本展のハイライトのひとつと言えるでしょう。

江上が孫に宛てて送った絵入りのはがき

 ほかにも、押し花や自身で染めた色紙を使った作品、孫に宛てて描いた絵入りのはがきなど、総数400点にも及ぶ出品作品から、江上の創作活動の全貌を一挙にご覧いただけます。ただ、これもまだ残された作品のうちのほんの一部に過ぎません。恵まれたとは言えない生活のなかで、家族たちを養いながら、それでも描くことをあきらめず、そこにのめりこんでいった数十年という時間。誰かに見せるためではなく、ただ自分のために描かれた絵。そのような非常に個人的とも言える表現のなかにもやはり時代が反映されており、社会の変化・動揺というものが映し出されている。静かで力強い表現が、美術館という場所から遠く離れたところで続けられてきたことに、美術館として目を向けていく必要があるのではないかと考えています。

 今回は、数年にわたる調査を経て、これまでに公の場で展示されたことのない江上作品を多数展示しています。この機会に、ひとりでも多くの方に江上茂雄やその作品と出会っていただきたいですし、これまでに江上さんの絵を見たことがある方にとっても、必ず新しい発見があると思います。

「ブエノスアイレス」に渡ったある日本人の100年

──第三部では、藤岡鉄太郎の《百日草の庭》(1926)と、大牟田からさらに遠く離れたブエノスアイレスという場所が取り上げられています。この藤岡の行方を追ったリサーチがプロジェクトとして展示されていますが、いったいどのような内容なのでしょうか。

大内 ここではいわゆる美術作品の展示とは趣が変わり、写真や映像、テキストなどを用いたリサーチ・プロジェクトの成果が展示されています。第三部の企画・構成はAHA! [Archive for Human Activities /人類の営みのためのアーカイブ]が担当しています。本プロジェクトのはじまりは、当館の最初の収蔵作品である藤岡鉄太郎《百日草の庭》です。鈴木昇一の《臨海学校》(1927)とともに1927年に収蔵された記録はありますが、なぜこの2点が選ばれたのかはよくわかっていません。100周年記念である本展において、100年前に描かれ、現在は東京都現代美術館に保管されているこの《百日草の庭》の謎を追うリサーチ・プロジェクトの企画をAHA!の松本篤さんから提案していただきました。

第三部「ブエノスアイレス―《百日草の庭》をめぐる100年」では、「藤岡鉄太郎」をめぐるリサーチの成果が発表されている

 藤岡鉄太郎についてどこまで深く追いかけられるかは未知数でしたが、1927年に、同姓同名(同音異字)の人物「藤岡鉄太郎(ふじおか・てつたろう)」がブエノスアイレスに渡っていたということを知り、リサーチが動き出しました。「絵だけが当館に残っていて描き手の正体がわからないのは、海外移住したからではないか」という仮説をきっかけに、AHA!はこの人物を追いかけ始めます。

 さらに調べると、その人物には絵を描く趣味があったとわかります。アルゼンチンの関係者などに問い合わせを重ねることで、現地のご遺族にたどり着くことができました。彼の長女も存命で、描いた絵も残っていることがわかり、ならばと思い切ってAHA!は現地まで向かうことになります。出発前に起こった思いがけない出来事から、リサーチは、鉄太郎が残し家族たちが受け継いできた庭の物語へと導かれていきます。

 本プロジェクトでAHA!は、「かねたろうはてつたろうなのか?」という問いから出発し、美術館の歴史とはまた異なる「100年」を探ることを試みました。その結末がどのようなものであったか、ぜひ会場で目の当たりにしていただければと思います。

本プロジェクトを担当した松本篤(AHA! 世話人)

交差する「この場所の風景」が生み出すものとは

──三部それぞれにまったく異なる題材が並びました。これらは互いにどう結びついていると考えられるでしょうか。

大内 東京都美術館が誕生したきっかけには、九州で炭鉱や石炭商を営んでいた実業家・佐藤慶太郎による100万円(現在の40億円相当)の巨額な寄付が背景にあります。炭鉱由来の富によって当館が生まれたいっぽうで、大牟田の炭鉱で働いていた江上茂雄は、当館とはなんの関係も持たずに独自の活動を続けていました。佐藤は筑豊、江上は筑後と、地域は異なりますが、日本の近代化を支えた九州の炭鉱の存在が、いっぽうで東京に美術館をもたらし、いっぽうで炭鉱で働く人びとに何をもたらしていたか。そういったことを想像するきっかけになればという思いもあります。

 また例えば、第三部では、藤岡鉄太郎の父が1900年代初頭、売薬業で成功したのちに当時日本で生産が拡大した絵具やクレヨンの製造業に参入しようとしたという話が登場します。その鉄太郎はブエノスアイレスでは、ほかの日本人移民とともに花き産業に関わりました。同時期、尋常小学校に通っていた江上はクレヨンと出会い、藤岡鉄太郎が花の栽培業や花屋を営んでいた頃、青年期の江上は道端の花に慰められ、その細密描写に取り組んでいました。直接的な関係があるということではないのですが、11歳違いで同時代を生きた2人を取り巻く社会状況や、「花」というものへの特別な関わりから見えてくることや感じられることもあります。本展の登場人物たちの歩みや展示作品の細部をじっくり読み取っていくと、100年という時代や社会と、そこに確かに生きていた無数の様々な人びとの存在が浮かび上がってくると思います。

 現在日本で暮らす私たちにとっても、例えば遠くの国で起こっていることだと感じてしまいがちな戦闘行為や対立関係等が、私たちの日々の生活に様々なかたちで影響をもたらすのだと実感させられるようなことが続いていると思います。たとえ自分にとって何も影響がないと思われることであったとしても、それを無関係だと感じてしまうこと自体が、関わりを避けるという無自覚的な選択をしているということもできるかもしれません。過去の出来事についても、一見すると無関係な事象同士であったとしても、それらが起こった社会状況、時代背景などに目を向けていくと決して関係がないとは言えない。本展では、それらをはっきりわかりやすいかたちで明示しているわけではないのですが、二度の世界大戦という世界的な大事件も経験したこの100年、20世紀という時代を通して、離れたそれぞれの場所でどういったことが起こっていたのかということへの想像を広げていくことに、本展がつながっていったらいいなと考えています。

──東京都美術館は開館から100年が経ちました。この節目に開催される本展を通じて、これまでの美術館の歩みとその在り方についてどのようにお考えでしょうか。

大内 本展は「東京都美術館の100年」を、様々な角度から見つめ直そうという試みです。多様な捉え方ができるように構成していますので、鑑賞者それぞれが何かを感じ取っていただけると信じています。

 鑑賞される方ご自身にも、それぞれの「100年」や、大切な個人史があるかと思います。それらと展示が接続し、響きあえばなによりです。本展をきっかけに無数の「100年の歴史」が循環し、豊かな歴史を形成するきっかけになればと願っています。

 また、私たち東京都美術館は「美術館を人々のより良い生活に寄与する場所にしていきたい」という理念を掲げています。本展で提示したのは、美術活動を精神的な支えとしていた人たちの姿です。 江上茂雄も藤岡鉄太郎も、自身の作品を売って生活をしていたプロの画家ではありませんでした。他者に評価されずとも、絵を描き続けることを人生のなかでなによりも大切にしていたのです。

 本展は、そうした美術や表現の根源的な力に焦点を当てることで、「個人の営み」と「美術館という公の制度」がこれからどうつながっていけるのかを皆さんと一緒に考える機会にできればと思っています。そして、この展覧会に触れることが、皆さんのより良い生活の一助になれば、企画者としてはうれしいかぎりです。

東京都美術館外観 写真提供:東京都美術館