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2025.11.8

未完の革命の継続としての連帯──ヨーロッパを周縁から問い直す「キーウ・ビエンナーレ2025」

2015年から開催されており、今回で6回目の開催を迎えたKyiv Biennial(キーウ・ビエンナーレ)。ロシアによる侵攻下で2回目の開催となった今年の「キーウ・ビエンナーレ2025」を、現地からキュレーター・慶野結香がレポートする。

文・撮影=慶野結香

Basel Abbas & Ruanne Abou-Rahme(バセル・アッバス&ルアンヌ・アブ=ラーメ)の《Oh Shining Star Testify(輝ける星よ、証言せよ)》(2016-19)
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 Kyiv Biennial(キーウ・ビエンナーレ)は、2015年から開催されており、今回で6回目の開催を迎えた。主催はキーウに拠点を置く視覚文化研究センター(Visual Culture Research Center)。2021-22年のロシア・ウクライナ危機後、ロシアによるウクライナへの全面侵攻下においての開催は2回目となった。しかしマイダン革命、2014年クリミア危機以降から続くウクライナ紛争の長期化を考えれば、このビエンナーレは危機とともに始まり、継続されていると言える。

 2015年、第1回目のタイトルは「The School of Kyiv(キーウの学校)」であったが、ウクライナおよび国際的なアーティスト、知識人、そして一般市民の対話を促す、6つの「学校」という概念的プラットフォームが設けられていた。そして翌年春にはその学校がヨーロッパ各地に拡張され、複数の都市に「分校」が開設されたのだった。ビエンナーレを「アート、知識、そして政治を結びつける国際的なフォーラム(*1)」として位置づける姿勢は、ウクライナへの渡航が難しくなった現在においても、だからこそ健在だ。

キーウ・ビエンナーレ2025のメイン会場となったワルシャワのMuseum of Modern Art

 2023年版に引き続き、今回の「キーウ・ビエンナーレ2025」もヨーロッパ各地、複数の会場で開催されている。今回はヨーロッパの美術館、アート機関、大学による連合体 L’Internationale(ラ・アンテルナシオナル)との共催で、2024年に開館したポーランド・ワルシャワのMuseum of Modern Art(現代美術館)をメイン会場(2025年10月3日〜2026年1月8日)とし、展覧会はベルギー・アントワープのM HKA(アントワープ現代美術館、2025年10月9日〜2026年1月11日)、ウクライナ・ドニプロのDCCC(ドニプロ現代文化センター、2025年10月23日〜2026年2月7日)、キーウのDovzhenko Centre(国立オレクサンドル・ドヴジェンコ映画センター、2025年10月24日〜12月28日)、オーストリア・メンフィスのKunstraum MEMPHIS(クンストラウム・メンフィス、2025年11月11日〜12月5日)、同じくリンツのLentos Kunstmuseum Linz(レントス美術館、2025年11月11日〜2026年1月6日)の4国6会場で、異なるテーマを掲げて開催される。そのほか、M HKAでの3日間にわたるフォーラム、DCCCでのトークやスクリーニング・イベントも含まれるが、本稿ではワルシャワのメイン会場の様子を中心に、サテライト会場の一つであるアントワープ現代美術館での展覧会にも触れたい。

*1──「キーウ・ビエンナーレ」Webサイトより

 ワルシャワでは、展覧会のテーマとして「Near East, Far West(近い東、遠い西)」が掲げられた。言うまでもなく地政学的なテーマであるが、ヨーロッパの植民地時代に生まれた「Far East(極東)」という言葉を転倒させ(*2)、帝国主義によって規定された、西欧中心のまなざしを問い直そうとしている。さらにキュレーターたち(*3)は、現在の地政学的現実に対し、中央東ヨーロッパ、旧ソ連東部、そして中東地域を包摂する領域を「Middle-East-Europe(中東=東欧)」と呼び、新たな地政学的概念を提案する。つまり、ヨーロッパの中心都市(メトロポリス)とEUの外縁部にある「周縁」との新たな植民地主義的関係を問い直し、「Greater Europe(拡張された大ヨーロッパ)」の運命が、その東の境界地帯で形づくられつつあることを強調している。その境界地帯では、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザでの軍事行動が現在形で続いている。そこでは、戦争、占領、民族浄化、ジェノサイドといった帝国主義・植民地主義の暴力、そして世界政治に広がるファシズム的傾向が、形を変えて今も続いている状況だ。メイン会場のワルシャワも、旧「西側」の周縁同士をつなぎ、「中東=東欧」圏が抱える政治的複雑性と歴史的絡み合いを再び開くための場として選ばれている。

Museum of Modern Art in Warsawでの会場サイン

 展覧会は、あらゆる「暴力の歴史と現在を可視化するマトリクス」として構成され、拡張されたヨーロッパの時空間を横断する複合的な文脈を鑑賞者に体験させようとする。大きな階段のあるアトリウムを挟んで両翼に延びる展示室には明確に決められた順番はなく、出入口のどちらからでも入れる構成となっている。

 個々の作品を見ていこう。テーマに対して象徴的なのは、Lana Čmajčanin(ラナ・チマイチャニン)の《551.35 – Geometry of Time(時間の幾何学)》(2014 / 2025印刷)。ボスニア・ヘルツェゴビナ地域における複数の地図を重ね合わせ、その国境線の変遷を可視化しようとした作品だ。旧ユーゴスラヴィア地域の地図は、数世紀にわたる戦争と和平のたびに何度も描き直され、歴史的な地図はナショナリズムや帝国的権益のイデオロギーを示し、支配と分断の道具となってきた。しかし後ろから照らされ、光の中で浮かび上がる地図の線は重なり合うことで、むしろ曖昧さを孕みながら、「境界とは何か」という根本的な問題を投げかける。

Lana Čmajčanin(ラナ・チマイチャニン)の《551.35 – Geometry of Time(時間の幾何学)》(2014 / 2025印刷)

*2──Where is the Middle East? The Near East? The Far East?, Dictionary.com, https://www.dictionary.com/e/east/? などを参照
*3──ワルシャワのキュレーターは、スウェーデン、ウクライナ、オランダ、ドイツ、ベルギー、ポーランド(順不同)を拠点として活動する、Nick Aikens(ニック・エイキンス)、Vasyl Cherepanyn(ヴァシル・チェレパニン)、Zippora Elders(ジッポラ・エルダース)、Charles Esche(チャールズ・エッシェ)、Nav Haq(ナヴ・ハック)、Serge Klymko(セルゲイ・クリムコ)、Magda Lipska(マグダ・リプスカ)。

 地図だけでなく、記録やモニュメンタルなものなど文化遺産を扱った作品も目につく。展示室に入ってすぐの空間で展開された、Nikita Kadan(ニキータ・カダン)の《Silence in the Classroom(教室の沈黙)》(2025)では、教室に似せた空間に、ソビエト体制下から現代に至るまで続く、抑圧された芸術家たちの作品やカタログなどの資料が断片的に配置されている。彫刻的なインスタレーションに加え、壁にはインスタレーションの一部として「プラチナ・コレクション」から、20世紀前半のウクライナのアヴァンギャルド芸術家(*4)の絵画も展示された。このコレクションは、キーウのコレクターで美術史家・Ihor Dychenko(イーホル・ディチェンコ)が収集したもので、これらはウクライナの公立美術館では稀にしか見られない。なぜならソビエト体制下のウクライナでは、アヴァンギャルドは「社会主義リアリズムに反する逸脱的芸術」とされ、国家機関による収集や保存は行われず、多くの作品が散逸し、また破壊された。さらに、2022年2月にロシアの全面侵攻が始まって以来、このコレクションは最優先で避難対象とされ、ワルシャワ現代美術館が保管することになった。現在もウクライナでは、文化機関や美術館の建物が破壊・略奪され得るため、コレクションの多くは地下に隠されるか、避難を余儀なくされている。そうした作品の「沈黙」を可視化し、失われつつある歴史の痕跡・記録を、記憶する場としての「教室」で再び取り戻そうとしている。

 ほかにも、Artur Żmijewski(アルトゥル・ジミェフスキ)はワルシャワのソビエト軍人墓地で、ポーランドの「解放者」としての赤軍を称える記念碑を撮影し、文化遺産であると同時に対立の火種でもあるモニュメントの二面性を明らかにする。加えて、Ali Cherri(アリ・チェリ)のスライド作品《A Monument to Subtle Rot(微細な腐敗への記念碑)》(2024)では、パレスチナの作家カリム・カッタンのテキストと、帝国主義・軍事侵略・空爆による破壊を経験した都市にある、取り壊された記念碑の写真を組み合わせることで、植民地主義者の語りに彩られた構築物としての中東の歴史を、神話的想像力と結びつけながら語り直す。

Nikita Kadan(ニキータ・カダン)の《Silence in the Classroom(教室の沈黙)》(2025)

*4──このコレクションには、ウクライナのアヴァンギャルド芸術を代表する、Mykhailo Boichuk(ミハイロ・ボイチューク)、Oleksandr Bohomazov(オレクサンドル・ボフマゾフ)、Kazymyr Malevych(カジミール・マレーヴィチ)、Viktor Palmov(ヴィクトル・パルモフ)らの作品が含まれ、中には女性作家Mariia Syniakova(マリア・シニャコーワ)も含まれる。

 イデオロジカルな歴史の抹消といった暴力行為はもちろん、「中東=東欧」地域では長期化する不安定な戦争状況のなかで、日常生活に空爆をはじめとする暴力が組み込まれてしまった。Lawrence Abu Hamdan(ローレンス・アブ・ハムダン)の《The Diary of a Sky(空の日記)》(2024)では、ベイルート上空におけるイスラエル軍戦闘機とドローンの絶え間ない存在を音で描き出す。かつて自由の象徴であった空は、恐怖、監視、心理的圧力に満ちた空間へと変貌し、戦闘機の飛行音や停電中に鳴る発電機の唸りが暴力の交響曲として空を満たしている。

 Saule Suleimenova(サウレ・スレイメノヴァ)《Sky Above Almaty: Qandy Qantar / Bloody January(アルマトイの空:血の一月)》(2022)も、2022年1月にアルマトイで起きた「血の一月(Qandy Qantar)」と呼ばれる民衆蜂起で、国家暴力の象徴となった「血に染まった空」を題材に、カザフスタンにおける集団的・個人的な記憶の構築に焦点を当てている。また、Koka Ramishvili(コカ・ラミシュヴィリ)の《War from My Window(窓から見た戦争)》(1991–92)もジョージアの首都トビリシで起きた内戦下における日常を同時に見つめている。

Saule Suleimenova(サウレ・スレイメノヴァ)《Sky Above Almaty: Qandy Qantar / Bloody January(アルマトイの空:血の一月)》(2022)

 Bojana Piškur(ボヤナ・ピシュクル)は、進行中のアーカイブ・リサーチ・プロジェクトである《East of East: Trains and the Making of the East(東のさらに東:列車と「東洋」の形成)》(2024–)において、列車をたんなる移動手段ではなく、帝国、戦争、移民、発展を支えるインフラであると同時に、地域の想像力や政治的構築をかたちづくってきた装置として捉えなおそうとする。西ヨーロッパでは鉄道が進歩と産業の象徴だったいっぽうで、東欧、バルカン、中東ではそれが帝国主義と植民地的支配の手段となってきた。このプロジェクトでは、文書、写真、地図、チケット、ポスター、旅行記や個人的な手紙などの多様な資料から、記録を超える、歴史的な「移動する想像力」の地図を描き出すことで、「東洋」という概念がいかにかたちづくられてきたのかを探っている。

 同じくインフラへの問いは、Hito Steyerl(ヒト・シュタイエル)の映像インスタレーション《The Leak(リーク/漏出)》(2024)で扱われた「ノルド・ストリーム」のガスパイプラインの歴史とその政治的意味をロードムービー的にたどることで、天然ガスの流通、プロパガンダ、陰謀論のあいだの密接なつながり、そしてシベリアなど先住民居住地における環境破壊の関係性をも浮かび上がらせる。「リーク=漏出」しているのは、ガスだけでなく、情報、影響、そして支配の浸透にもわたっている。

Bojana Piškur(ボヤナ・ピシュクル)《East of East: Trains and the Making of the East(東のさらに東:列車と「東洋」の形成)》(2024–)

 政治的な作品が多いのは事実だが、ひとつの地域を越えた現実の裂け目を詩的想像力によって可視化しようとする作品も散見される。例えばMajd Abdel Hamid(マジド・アブデル・ハミード)の《From the Series “Son, This Is a Waste of Time”(シリーズ「息子よ、それは時間の無駄だ」より)》(2023–24)では、パレスチナの伝統技法であり、地域ごとに異なる模様や色彩を持つ刺繍を参照しながら、白い布に白い刺繍を施す。ウクライナで育ち、「ロシア・アヴァンギャルド」の象徴とされたカジミール・マレーヴィチの代表作《白の上の白》(1918)から想を得て、白い糸で刺された模様は、文化の消失と土地の占領を象徴しようとしている。各作品には「400時間」「11月から5月(2月を除く)」など、それぞれ制作に費やされた時間を示し、労働と記憶の蓄積を暗示している。

 さらに、Navine G. Dossos(ナヴィン・G・ドッソス)による《Series "No Such Organisation"(シリーズ「そんな組織は存在しない」)》(2018–20)においてもパターン的な装飾性が扱われている。この作品は、2018年10月にイスタンブールで起きたサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギ殺害事件への応答として制作され、サイバー諜報、国家監視、報道の自由といった複雑に絡み合う領域に言及している。企業、国家、そして組織を象徴するロゴやマーク、例えばWi-Fiの記号、通貨のシンボル、国旗、国連のエンブレムなどを隠れたイメージとして扱うことで、その鮮やかな装飾の背後にある、存在しないとされる国家の暴力や監視のシステムを絵画によって暴き出そうとしている。

Majd Abdel Hamid(マジド・アブデル・ハミード)の《From the Series “Son, This Is a Waste of Time”(シリーズ「息子よ、それは時間の無駄だ」より)》(2023–24)からの一作品

 ワルシャワではほかにも、Assaf Gruber(アサフ・グルーバー)による映像インスタレーション《Miraculous Accident(奇跡的な事故)》(2024–25)など、1948年から2025年までの拡張ヨーロッパを舞台に、現実と虚構を交錯させ、時空間を超える物語として没入的に展開する。ウッチ映画大学で教鞭をとるユダヤ系ポーランド人女性と、彼女の亡き夫でモロッコ出身の作家との関係性を軸に、記憶と演出の境界を探り、映画というメディウムそのものが、愛、喪失、再生の儀式として機能しうることを体験させる。

 本展は、戦争や植民地主義によって刻まれた暴力の痕跡を、地図、記録、音、装飾、映像など多様なメディウムを通して可視化し、記憶として再構築し、他者へと開きなおす試みであると言える。旧ユーゴスラヴィア、ソ連体制下ウクライナ、イスラエル占領下のレバノン、ロシア侵攻下の東欧など、帝国の境界に位置する地域を横断しながら、国家やイデオロギーによって抹消された声や沈黙を掘り起こそうとする。アーティストたちは、失われた文化遺産や日常に潜む暴力を素材として、歴史の再解釈と再生のためのアプローチを展開している。それは、「東」と「西」という固定的な枠組みを超え、むしろ「周縁」を中心化することで、拡張されたヨーロッパの新たな地図を描き出そうとする行為のように思われる。

 ワルシャワでのメイン展を拡張しつつ、独立した展示としても機能する複数会場のひとつを担っているのが、アントワープ現代美術館(M HKA)である。M HKAでは、展覧会開幕の約一週間前の10月3日に、進行中だった新館建設プロジェクトの中止が発表され、さらに10月6日にはフランダース政府との協議を経ることなく、現代美術館としての地位を失い、2028年までに国際的アートセンターへと再編されることが通告された。こうした状況もあって、美術館内外には、キーウ・ビエンナーレ以上に暴力的な権力に対する、強い連帯と結束の空気が漂っている。

M HKA(アントワープ現代美術館)

 アントワープでの展覧会のテーマは「Homelands and Hinterlands(故郷と後背地)」。帝国の中枢によって、資源として支配されてきた旧植民地や周縁地域を指す「ヒンターランド」の経済的・地理的・文化的・政治的な重要性を再認識しようとする試みがなされている。通常は「In Situ(イン・シチュ)」プログラムとして、新進気鋭の国際的なアーティストを招き、実験的なアプローチのために活用されている空間を今回のビエンナーレに充てたM HKAでは、Basel Abbas & Ruanne Abou-Rahme(バセル・アッバス&ルアンヌ・アブ=ラーメ)の《Oh Shining Star Testify(輝ける星よ、証言せよ)》(2016-19)がなかでも大きく展開された。イスラエル軍が設置した「分離フェンス」を越え、パレスチナ料理の食材を採りに行こうとした少年が射殺されたことを起点に、イスラエル軍による監視映像を人権団体が入手・公開した映像をもとに構成されたインスタレーションでは、暴力的に抹消される身体・土地・建築物の日常的な記録映像が断片的に繋ぎ合わせられ、それらが儀式的な歌や踊りを通して立ち現れてくる。テクノロジーの時代において、デジタル化された断片が、存在そのものをシステムによって不可視化する構造にいかに抗いうるか問うているのだ。

 ほかにもメディア批評的な作品として、Giorgi Gago Gagoshidze(ジョルジ・ガゴ・ガゴシゼ)の映像作品《It’s Just a Single Swing of a Shovel(スコップのたった一振り)》(2015)がある。ジョージア在住のアルメニア人高齢女性が、スクラップ金属を集める途中、誤って光ファイバーケーブルを切断し、3か国全体のインターネット通信を遮断してしまった2011年の出来事が、無意識のハッキングとして解釈されている。たった一振りのスコップに負けてしまうインフラの脆弱さと不安定さを暴き出すとともに、テクノロジーの時代における個人的な行為の力について考えさせられる。

Basel Abbas & Ruanne Abou-Rahme(バセル・アッバス&ルアンヌ・アブ=ラーメ)の《Oh Shining Star Testify(輝ける星よ、証言せよ)》(2016-19)

 ワルシャワの会場では、物語を内包する映像作品の存在感が際立っていたが、M HKAでは、映像作品は上記の2点のみで、写真コラージュ、絵画など静的なメディアが目立つ。出来事を直接的に再現したり、言及したりするよりも、断片的なイメージの喚起力に焦点が当てられているように思われる。同時にミュージアム・コレクションからMona Hatoum(モナ・ハトゥム)の頭髪を用いたインスタレーション《Recollection(追憶)》(1995)や、Davyd Chychkan(ダヴィド・チチュカン)のポスター絵画シリーズ《Ribbons and Triangles(リボンと三角形)》(2020-22)が出品されるなど、美術館であることを活かしながらコレクションとの対話が試みられている。

 チチュカンは、無政府組合主義アーティストであり活動家だったが、このシリーズでは、古典的な政治ポスターの言語を引用し、ウクライナ刺繍や伝統衣装の文様とモダニズム的幾何学デザインを融合させ、ウクライナ国旗の黄と青に加えて3つの象徴的な色、反権威主義の黒、フェミニズムと文化的進歩の紫、社会的平等と直接民主主義を意味する赤を用いている。さらに作中にウクライナの政治・文化史における重要人物を登場させることで、同国の解放闘争の過去を参照しつつ、未完のモダニズム的プロジェクトとしてのウクライナ社会の今後の方向性を示唆しようとする。

Davyd Chychkan(ダヴィド・チチュカン)《Ribbons and Triangles(リボンと三角形)》(2020-22)の一部

 この展覧会は、中心から切り離され、現代の不均衡が凝縮されるヒンターランド的な空間における、失われた身体や風景、抹消された声や断絶された通信に対して、存在と不在のあいだに生まれる新たな記憶のかたちを探るかのようである。さらに中世からヨーロッパ屈指の港湾都市であり、植民地貿易の歴史を背負ってきたアントワープの地政のことを重ねると、まさに港の背後にあるヒンターランドの声を拾い上げ、再接続させる場としての必然性が切実なものとして感じられる。またM HKAが、地方政府から政治的な決定を押し付けられ、美術館スタッフだけでなく、地元のアーティストや鑑賞者たちが、文化の公共性を守るために連帯する姿(*5)は、キーウ・ビエンナーレが戦争の只中で、中心的インフラの喪失を経てもなお、文化を分散的かつネットワーク的に構想し、社会との関係を再構築しようとする根源的な問いと重なり合っている。

 今回の「キーウ・ビエンナーレ2025」において、ワルシャワとアントワープの展覧会を結ぶ軸線を考えれば、ヨーロッパはもはや単一の中心ではなく、「中東=東欧」を含む、複数の周縁やその無数の交差点から構成される空間である現実が映し出されている。そして作品の多くは、社会が暴力に沈黙するその瞬間を、静かに問い返している。戦争の傷口を抱える東から、あらゆる制度の転換期に立つ西へと広がるこの「ビエンナーレ=連帯」は、政治的分断と経済的不均衡の只中で、芸術がいかに地図を引き直し、新しいヨーロッパ像を構想できるかを問うものとなった。その後、それぞれの場所の状況を織り込みながらウクライナ、オーストリアへと続く本ビエンナーレの枠組みでは、アーカイブを解放の手段として思考の場を開いたり(ドニプロ)、映画運動の今日的意義を探ったり(キーウ)、戦争によって一変した大地の風景に向き合い人間の身体と生息環境を再考したり(メンフィス)、土地と風景を外宇宙から地中深くまで貫く垂直的な惑星的思考によって捉えなおそうとする(リンツ)試みが控えている。2013-14年にかけてウクライナで起きた市民運動「ユーロマイダン」が瞬間的に成功し、非暴力抵抗から政権転覆に至った事実を考えれば、このビエンナーレは未完の革命に続く芸術的実践として、分断された大地の上で、共に生きることの可能性を問い続けるだろう。

*5──ビエンナーレのイベントの一つとして、M HKAではMOST Magazineのキュレーションで「There Is Nothing Solid About Solidarity(連帯には確かなものはない)」と題された3日間のフォーラム(10月24日〜26日)が開催されたが、それに合わせて25時間におよぶ「Museum at Risk(危機にある美術館)」と名付けた自発的なマニフェステーション(意見表明集会)が行われた。