2026.10.8

何を価値と呼ぶのか。「経済」の意味を問い直す、第18回リヨン・ビエンナーレ

お金だけが「経済」ではない。生産、交換、分配、ケア、そして人や物のあいだに生まれる関係まで──「経済」と「価値」の意味を問い直す、第18回リヨン・ビエンナーレが開幕した。2028年に開催されるマニフェスタの芸術監督にも指名されているキャサリン・ニコルズのキュレーションによる本展。その主要会場を現地からリポートする。会期は12月13日まで。※10月9日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=飯田真実

主要会場のひとつ、旧フランス国鉄技術センター「レ・グラン・ロコ」外観 撮影:筆者
前へ
次へ

リヨンから太平洋まで

 1991年に始まったリヨン・ビエンナーレは、85年に終了したパリ・ビエンナーレに代わる「フランスにおける現代美術の大規模イベント」として位置づけられ、現在まで続いている。84年開館のリヨン現代美術館(Musée d'art contemporain de Lyon、以下macLYON)館長を長年務めたティエリ・ラスパイユが創設し、地域に根ざした文化機関と外部の国際的なキュレーターをつなぐ方式を定着させてきた。その後、ラスパイユの後任として同館館長に就いたイザベル・ベルトロッティが、2019年から芸術監督も引き継いでいる。

 第18回のゲスト・キュレーターは、90年代からベルリンを拠点に活動し、現在ハンブルガー・バーンホフ現代美術館に在籍するキャサリン・ニコルズ。2022年にプリシュティナで開催されたマニフェスタ14に携わり、歴史や場所、物語と観客との関係を重視してきた実践がベルトロッティの目に留まった。シドニー出身であるニコルズには、リヨンと太平洋地域をつなぐ媒介者としての役割も期待された。フランスでは同地域のアートに触れる機会がまだ少なく、オーストラリア先住民の美術を欧州で紹介するオパール財団や、アオテアロア・ニュージーランドの現代美術を海外に発信するOffice for Contemporary Art Aotearoaなども協力している。

 国際展として、こうした見どころと実施のための予算にも毎回関心が集まる。今回は約800万ユーロを投じ、42の国・地域から120名/組のアーティスト(うち女性は7割近く、2割強が35歳以下)による400点もの作品を展観する規模となった。そのうち約70点が新作だ(*1)。

*1──公的パートナーに文化省、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、リヨン・メトロポール、リヨン市が名を連ねるが、公的資金は近年減少方向にあり、多くのメセナや地元企業の協力によっても支えられている。2026年2月16日付のリヨン・メトロポール委員会資料による2026年の予算総額は766万ユーロ。内訳は、キュレーション・作品制作・展示設営などの芸術関連約215万ユーロ、運営費約246万ユーロ、会場整備・警備約100万ユーロ、観客向け事業約99万ユーロなど。出典: République française, Métropole de Lyon, Extrait du registre des délibérations de la commission permanente, commission permanente du 16 février 2026, délibération n°CP-2026-5001.

芸術監督イザベル・ベルトロッティ(右)と、キュレーターのキャサリン・ニコルズ(左) Photo © Blandine Soulage

「経済」と私たちの関係を結び直す

 ニコルズがリヨン・ビエンナーレのオファーを受けたときは、ドナルド・トランプの米国大統領再選と重なったという。「世界を大きく左右するお金の力を前に、どうにかしなければという感覚から出発した」と本人は話す。そこで向き合ったのがアートを通じた「経済」だ。子供の頃に見た海賊のイメージや英語圏の物語、そこに潜む帝国主義や社会の歪みに気づき、様々な思想に触れ、アーティストや多くの人々との対話を行き来しながら、貨幣や市場だけに占有されない経済の姿を考えていく。

 たどり着いた本展のテーマは「Passer d’un rêve à l’autre(ある夢から別の夢へ)」。足がかりとなったのは、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』と、ロベール・フィリウの「詩的経済」(*2)である。都市と資本主義を通じた「集合的な夢」をめぐる思考と、アーティストの立場から経済構造や価値を問い直す仕事を参照し、そこからケアや依存、交換、分配などへと経済の意味を広げていった。

 鑑賞者はまず、旧市街でいまも利用されるトラブール──建物の内部を横切り、別の通りへ抜けていく独特の通路──を通るよう促される。かつて商品の移動や第二次世界大戦時のレジスタンスの活動を支えた都市構造を体験し、その先にあるmacLYON、織物装飾芸術博物館、旧フランス国鉄技術センター「レ・グラン・ロコ」へ向かう。作品を見るために街を移動するのではなく、街を通過しながら境目や敷居をまたいでいくこと自体が、作品を見る行為になる。

*2──フランス生まれのロベール・フィリウ(1926〜87)は、米国のUCLAで経済学を学んだのち、詩人・アーティストとして活動し、フルクサスにも参加した。「詩的経済(Principes d’économie poétique)」は、芸術を通じて既存の経済構造や「価値」のあり方を問い直し、交換や共有、協働による別の経済の可能性を探る考え方。フィリウの作品や思想は、リヨン・ビエンナーレの複数会場で紹介されている。

スーザン・フィリップスのサウンドアート作品が展示されているトラブールのひとつ「Cour des Vorace」 © Romainbehar, CC0, via Wikimedia Commons

負債を引き受ける──macLYON

 ニコルズのキュレーションによると、macLYONは「実存(existential)」の領域にあたる。生と死、大地と空、遺産と負債などを通じて、過去に残されたものと現在を生きる私たちとのつながりを問いかける。

 地上階エントランスで待つのは、ブリラント・ミラジミによる高さ7メートルの油彩《Transparent body, foggy future》(2026)だ。1998〜99年のコソボ戦争で行方不明となった人々を主題に、骸骨の身体が、天と地の区別がつかない白黒の画面に、死を拒み成長を続ける子供のような表情で立つ。いっぽう、展示室では、ヤスミーン・アル・ダヤによる、胎児のように丸まった小さな粘土の人物像が展示ケースに収められている。ガザで暮らす作家は作品を持ち出せず、展示品は2025年の「Gaza Biennale Berlin Pavilion」のためにペトリット・ハリライが制作したレプリカだ。自らを守るような姿と、原作の不在が印象に残る。

ブリラント・ミラジミ《Transparent body, foggy future》(2026)。館内には、同作家がゴヤの《我が子を食らうサトゥルヌス》をモチーフにした赤い絵画もある Courtesy de l’artiste, Isabella Ritter, Paris et Ermes Ermes, Roma. Photo © Emmanuelle Firman
ヤスミーン・アル・ダヤ《Embrace》(2024)/ペトリット・ハリライによるレプリカ(2025) Photo © Emmanuelle Firman

 オセアニアからは、ランギ・キパ、マウリーン・ランダー、ヘイリー・ミラー・ベイカーら世代の異なる作家が、先住民の記憶や文化の継承と断絶を、鯨の歯や骨、土地に根差した麻や写真など、異なるメディウムで表現する。植民地主義によって断絶を余儀なくされた文化があるいっぽうで、それを血縁や場所性を超えた人と人との連帯によって移動させ、再現することで、そこから学ぶ可能性を示す。

 過去を乗り越え、より豊かな現在へとひらくような絵画もある。自然光の入る部屋に現れたトゥ=ヴァン・トランの色彩豊かな風景画は、ベトナム戦争で使われた虹色の枯葉剤を想起させる色を地層のように重ねた。マシュー・ハリスは、藍鉄鉱の顔料で3万9000ものセルを描き、英国に収蔵された先住民文化財が収集・分類され、価値づけられてきたことを示す。セルとセルのあいだをグリッド状に這う白地が歪んでくるような錯覚すら覚える。

トゥ=ヴァン・トラン《Les Couleurs du gris (Coulours of Grey)》(2023-26) 撮影:筆者

一緒に生きられないのか──織物装飾芸術博物館

 リヨンでは、2014年に大型の文明博物館「コンフリュエンス」が開館するいっぽう、近代化を支えた絹産業の遺産を収める織物装飾芸術博物館は2021年から工事のため閉館している。今回は特別開館し、「関係(relational)」という域を設定しながら、傷んだままの内装の上にビエンナーレの作品が重ねられた。そのパラドックスを感じながら、展示室へ入った。

 外は晴天の9月、昼下がりの室内もやや蒸し暑い。ミハイル・カリキスは、現在拠点とするリスボンで若者たちとグルベンキアン管弦楽団が共演したコンサートを映すインスタレーションで、分断の時代に何が人を結びつけるのか、彼らの声を響かせる。未来への希望のようにも聞こえるが、現在を築いた大人は何を汲むべきだろうか。アンジェリカ・メシティは、現在拠点とするフランスで教えられるウォームアップ・ゲームを行う若者たちを映像に捉える。手をこすり、指を鳴らし、拍手する身振りは、やがて雨音のような集団のリズムへと変わっていく。祈雨の儀式にも見紛うのだが、いまの地球でかつてと同じように雨が降るとは限らない。

 トーゴ出身のコクー・フェルディナン・マコウヴィアも現在パリを拠点にしている。歴史的建造物のホールの壁一面に、一度焼かれた段ボールを白く塗り世界地図をつくり直した《Tectonique des ombres》(2026)は、土地や国境を別のかたちで捉えながら陰影を落とす。たくさんの粘土玉がつながった作品もある。作家が街に出て人々と話し、それぞれがつくったかたちを集めたものだ。作品制作や展示が搾取になりかねないことを自覚する作家にとって、他者とつくり分け合うことが、制作の一部になっている。

コクー・フェルディナン・マコウヴィアによる展示風景 Photo © Blandine Soulage

 奥に進むと、macLYON同様に自然光の差し込む部屋に出る。ルシア・カグラマニャンによる、水滴のかたちにも見える白いハンモックがぶら下がっている。リヨンのアルメニア系コミュニティの協力で制作され、ジェノサイド後の孤児院や難民キャンプで使われた担架や包帯を参照している。鑑賞者はその中で揺られ、離散した人々の言語による子守唄を聴く。当事者にとって危機の経験が、ここでは他者を包み、眠りへ誘うものとして差し出されている。その傍らには、ロシア・ウクライナ戦争によるまだ小さい娘との移住を、フィンランドの一時滞在先での散歩やヨガ、髪を切るといった日常の光景として焼き付けたカーチャ・レシフの写真がある。

ルシア・カグラマニャンによる展示風景 Photo © Emmanuelle Firman

 さらに、動物のイメージとぬいぐるみの作品も現れる。北イタリアに戻ってきたオオカミと人間が分け合う土地(ミケラ・デ・マッテイとインヴァーノムト)、地域で見つかった動物の死体と使い古されたぬいぐるみを並べるポラロイド(フィオナ・クラーク)、十字架に磔にされた猿のぬいぐるみ(アネット・メサジェ)……近代化や戦争による生態系の破壊と断絶に、犠牲と愛着、贖罪への願いが重なる。

川や綱、蛇のように──旧フランス国鉄技術センター「レ・グラン・ロコ」

 リヨン南部、ローヌ川沿いに広がる旧フランス国有鉄道の技術センターは、19世紀にできた広大な「産業(industrial)」遺構だ。前回からビエンナーレの会場に加わったが、冬の温度管理の難しさもあり、今回は展開スペースや会期を縮小している。いっぽうで、この空間を生かした展示には、ヴェネチア・ビエンナーレなど大規模国際展を見慣れた人にも新鮮なスケール感がある。ここでは素材や労働が生産・流通するだけでなく、集められ、再構成されるなかで、何が価値を持つのかが問い直される。

 ジョエル・アンドリアノメアリソアは、マダガスカル語のタイトルをもつ《Tady Mitady Tadidy (the rope in search of its own memory)》(2026)で、これまで作家が関わってきた土地や人々から譲り受けた糸や紐、布の端材を束ね、つないだ。総延長は44キロメートル。異なる場所から集まった素材は国や地域を隔てるのではなく、人や土地をつなぐ巨大な滝となって天井から吊るされている。ちなみに同作家は今年、デュシャン賞にもノミネートされている。

ジョエル・アンドリアノメアリソア作品の展示風景 Courtesy de l’artiste et de la Galerie Almine Rech. Photo © Blandine Soulage

 その奥で、4000本以上のか細いナイロン糸が、川面の写真を立体的に持ち上げ、光を反射している。ミゲル・ロスチャイルドの《Río de la Plata》(2026)は、アルゼンチンとウルグアイのあいだを流れるラプラタ川を、政治と物質のアーカイブとして捉える。独裁政権下に人々が飛行機から投げ落とされた記憶と、現在の工業汚染が重なる川。その表面の軽さが、かえって悲劇の重さを感じさせる。

 カンドラニ・ユリスの《Placing Bets Beyond the Line of Faith》(2026)は、数百枚のヒジャブとハンガーで、全長9メートルの蛇行する構造体をつくる。ジャワの「ナーガ」に着想を得つつ、ヒジャブ市場の拡大と女性の社会的立場の対比を示し、現代インドネシアでの宗教、ジェンダー、社会規範の交差に挑む。

カンドラニ・ユリス作品の展示風景 撮影:筆者

 市場と宗教、教育もまた、切り離せないものとして絡み合っている。マイケル・スティーヴンソンは、3つの「教室」を実寸大インスタレーションで再構成する。福音派神学校、スタンフォード大学での起業家向けの講座、そして2008年の世界金融危機後の政治と経済をめぐる空間。それぞれの場で、アイデアが政策へ、信念がガバナンスへと移行していく過程を追う。また、ビエンナーレの各会場では、フィリウの実践に基づく複数のソファが設置され、会期中の意見交換の場になる。

花咲くベッドで見る夢

 これらの会場をめぐると、「価値」は最初から決められたものではなく、人や土地、物のあいだを渡りながらかたちを変えていくことが見えてくる。何を残し、何を受け継ぎ、誰が誰を支えるのか。その選択の積み重ねが、私たちの世界をつくっている。

 「レ・グラン・ロコ」の所々に置かれた貨物用コンテナの中で、本ビエンナーレに参加する唯一の日本人アーティスト、谷内恒子(1946〜2026)の《Micro-Event No. 41 / Flower Bed》(2011)が見られる。長年拠点としていたパリのニュイ・ブランシュで発表された作品で、草間彌生の《My Flower Bed》(1962)へのオマージュとして、花で覆われたベッドに横たわり、電子音楽の子守歌を聴く一晩のパフォーマンスを映像に残したものだ。親密で気怠い表情には、孤独や不眠のストレスも感じられる。

 奇しくも草間も谷内も、今年永眠した。眠りは、何かを生産する行為ではない。それでも、身体を休め、記憶や経験をもとに夢を見、また目覚めるために必要な時間だ。そう考えると、「経済」は生産や交換だけではなく、誰かに身を預け、何かを受け取り、次の時間へ渡していくことまで含むのかもしれない。「経済」とは、夢の先へ価値を持続させていく発明なのだから。