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2026.5.2

「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」(国立ハンセン病資料館)開幕レポート。隔離を超えて紡がれた創造の軌跡

東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で、ギャラリー展「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」が開幕した。会期は6月7日まで。展覧会場の様子をレポートする。

文・撮影=大橋ひな子(編集部)

展示風景。絵画作品と編物作品が並ぶ
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 東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で、ギャラリー展「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」が開幕した。会期は6月7日まで。担当は同館学芸員の吉國元。

 国立ハンセン病資料館とは、患者・回復者とその家族の名誉回復を図るために、ハンセン病に関する正しい知識の普及や理解の促進による、偏見や差別、排除の解消を目指す施設だ。今回のギャラリー展「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」は、ハンセン病回復者であり、ひとりの画家でもある加藤博子の活動に焦点を当てた同館初の試みだ。

 加藤は1943年生まれ。12歳で静岡県御殿場市の駿河療養所に入所。岡山県にある長島愛生園の邑久高等学校新良田教室に進学後、好きだった絵画制作に熱中し、美術展などへの入選を重ねた。駿河療養所内での結婚を経て、夫との社会復帰、そして同施設への再入所を経験。社会復帰にあたっては絵画制作を中断し、編物の技術を習得した。2025年12月2日に82歳で逝去。

 本展は、国家による強制的な隔離政策や社会からの偏見によって人生を制約されながらも、生涯を通じて表現活動を続けた加藤博子の歩みを、絵画と編物を中心とした18点の作品で辿るものである。

左:加藤博子《自画像》(1972)石膏ボードに油彩 41×31cm、右:加藤博子《海》(1962頃)板に油彩、砂 60.6×92.2cm

 会場は5つのセクションで構成されている。第1章「入所」では、加藤の初期作品とともに画業の原点に関する資料が展示されている。加藤がハンセン病と診断されたのは10歳の頃。戦争による物資不足による栄養状態の悪化が原因のひとつと考えられているが、当時の社会における病への風当たりは極めて厳しかった。娘の発症を知った父親が一家心中を考えたというエピソードからは、社会の偏見が、いかにハンセン病患者の家族を追い詰めていたかがうかがえる。

《画材収納カバン》(1959)木材、アルミニウム、油絵具、紙 40.3×39×5.5cm

 1955年、12歳で駿河療養所に入所した加藤は、やがて岡山県の長島愛生園内にあった邑久高等学校新良田教室に進学する。会場では、高校1年生のときに加藤が母親にねだって買ってもらったという油絵具一式が展示されている。使い込まれたその道具からは、加藤がこの道具を使って一心に制作に打ち込んでいたことが伝わってくる。

 最初期の作品《海》(1962)は、療養所から見える夜の海を描いたと思われるものだ。砂を素材に混ぜるなどの技法からは新しい表現への意欲が感じられる。本作は第13回岡山県展(1962)に入選。作家自身は療養所に隔離されながらも、その表現は隔離の境界線を越え、社会へと届いていた。

 また、高校卒業時のエッセイにも注目したい。「入学当時、単に『好き』それのみだった美術が、私の中に大きい存在を示してくるようになった。深く追求したい。それを通して、人生の姿、人間の本質、虚飾の虚しさを知りたい。追えば追う程に深淵な世界。一生懸命になればなるほど不条理に逢い、療養所の古い観念や制度にあう。らいに始りらいに押し返される」(『全患協ニュース』1963年4月1日号より抜粋)(*1)との語りからは、加藤の美術への情熱と当時の葛藤が凝縮されている。

*1──引用した文献には、現代の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現や語句、差別的表現が見られるが、執筆当時の時代的背景と原典の資料的意義を考慮し、原文のままとした

第2章「結婚と社会復帰」、第3章「再入所・ハンセン病国賠訴訟を経て」

 第2章「結婚と社会復帰」では、1964年に同じ入所者の加藤健(1927〜2022)と結婚し、社会復帰を果たした時代に焦点を当てる。ここで重要なのは、当時の「社会復帰」が決して手放しで喜べるものではなかったという点だ。治療薬プロミンの普及により若者の社会復帰が急増した時期ではあったが、世間の偏見は根強く残っていた。加藤夫妻が1974年から15年間にわたり療養所の外で暮らす決断をした背景には、計り知れない覚悟と葛藤があったはずだ。会場では社会復帰直前に描かれた作品が紹介されている。

第2章「結婚と社会復帰」の展示風景
第3章「再入所・ハンセン病国賠訴訟を経て」の展示風景

 第3章「再入所・ハンセン病国賠訴訟を経て」では、加藤の5点の絵画作品が紹介されている。社会復帰後、ハンセン病に対する偏見や差別が原因で病歴を隠して働いていた夫妻だったが、夫・健の体調悪化を機に、治療に専念するため「生活と医療の場」である療養所への再入所を余儀なくされる。

 再入所の2年後に描かれた《道》(1990)は、駿河療養所へと続く林道を描いた作品だ。奥へと伸びる道はどこか閉塞感を感じさせ、先行きが見えない不安や隔離の苦悩を象徴しているかのようである。

加藤博子《道》(1990)キャンバスに油彩 46×53cm
加藤博子《風景》(2007)キャンバスに油彩 60.6×92.2cm

 いっぽう、2001年のハンセン病違憲国家賠償請求訴訟での勝訴後に描かれた《風景》(2007)は、同じく療養所からの眺望でありながら、構図は外の世界へと開かれたものになっている。原告のひとりとなった加藤は、国の控訴断念の報を聞いた際、「私にも人権があったのだ」と語ったという。国の誤った政策と社会の偏見が、いかに個人の尊厳を深く傷つけてきたかを物語るひとことだ。

 加藤は2009年、生涯で唯一となる絵画展を開催した。その案内状には「絵はふるさと」という言葉が記された。帰るべき場所を奪われた加藤にとって、表現することそのものが帰郷先であったのかもしれない。

生きていくための手段としての編物

 本展の大きな特徴は、編物作品を独立した章「想いを編み込むー加藤博子のニットデザイン」として紹介している点にある。

「想いを編み込むー加藤博子のニットデザイン」の展示風景

 当初、編物は美大進学を諦めた彼女にとっての「生きていくための手段」であった。しかし、担当学芸員の吉國は、これらもまた彼女の「存在証明」のひとつであると捉えた。実際に展示されたセーターを見ると、絵画で培われた色彩感覚やモチーフがデザインに反映されていることがわかる。

左:加藤博子《セーター、午後の情景》(1980年代)毛糸 57.5×138.7cm、右:加藤博子《セーター、夜の情景》(1980年代)毛糸 58×139cm
《編み方見本帳》(制作年不詳)紙、毛糸、ペン 43×30.9×9cm

 加藤のニットデザインはファッション誌にも掲載され、編物教室を開くなど、その創造性は社会的に高く評価された。展示されている見本帳などの資料からは、彼女の飽くなき探究心が伝わってくる。

加藤博子《労働者の夜》(1970以前)キャンバスに油彩 45.3×37cm

 最終章「共に生きてー加藤健さん」では、朝鮮にルーツを持つ夫・健との歩みが紹介されている。多くを語らなかった健に対し、加藤は短歌をつくり、健が撮りためた写真を集めた写真集を制作した。会場には、健が仲間に向けて手紙を書く姿を描いた《労働者の夜》(1970以前)や、親交のあった写真家・八重樫信之による夫婦のポートレートが展示され、2人の絆の深さが伝わってくる。

八重樫信之《加藤健・博子夫妻》(2017)写真プリント 28.5×42.5cm

 加藤博子というひとりの作家の歩みを丁寧に辿ることで、その表現活動の軌跡を明らかにする本展。作品の背景にある葛藤や挑戦を知ることで、その作品世界がどのように変遷していったのかを深く理解することができるだろう。絵画と編物という2つの視点から、国家と偏見による抑圧のなかで、ひとりの人間が表現を通して生き抜き、何をかたちにしようとしたのか。その足跡を伝える内容となっている。