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2025.7.11

「難波田龍起」(東京オペラシティ アートギャラリー)開幕レポート。21世紀に再発見する、抽象の向こうの人、もの、景色

東京・初台の東京オペラシティ アートギャラリーで、難波田龍起の大規模回顧展が開幕した。会期は10月2日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、左から《コンポジション》(1965)東京国立近代美術館蔵、《ファンタジー 青》(1966)池田20世紀美術館蔵
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 東京・初台の東京オペラシティ アートギャラリーで、難波田龍起(なんばだ・たつおき、1905〜1997)の大規模回顧展「難波田龍起」が開幕した。会期は10月2日まで。担当は同館学芸員の福士理。

展示風景より、《無窮 A》、《無窮 B》(ともに1990)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 難波田は、大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した。当初は身近な風景や古い時代への憧れを描いていたが、戦後になると抽象へと制作をシフトさせる。海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも、特定の運動に属することもなく、独自の道を歩んだことで知られており、戦後日本における抽象絵画の代表的な作家のひとりといえる。

展示風景より、《大地の窓》(1990)彫刻の森美術館(公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団)蔵

 東京オペラシティ アートギャラリーの中核を成す「寺田コレクション」は、東京オペラシティ共同事業者でもある寺田小太郎(1927〜2018)が収集した、戦後の国内作家を中心とする約4000点のコレクションだ。寺田がコレクションを始める契機は難波田との出会いであり、コレクションのなかのじつに約300点が難波田の作品となっている。同館にとっては極めてゆかりの深い作家だ。

展示風景より、《青の詩》(1962)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 本展は全6章構成で難波田の画業をたどるものだ。第1章「初期作品と古代憧憬」は、難波田の初期作品を展示し、その戦前の活動を追う。

 大正期、最初に難波田が強い関心を持ったのは詩であった。彫刻家、画家、詩人である高村光太郎(1883〜1956)と出会った難波田は、その薫陶を受けるなかで絵に目覚め、やがて画家を志すようになる。難波田は高村のもとで見たギリシア彫刻の写真集や、「金曜会」の主宰者である画家・川島理一郎からの影響を受けつつ、1930年代の半ばごろより、ギリシアの古代彫刻やレリーフをモチーフとする絵画を集中的に制作するようになった。

展示風景より、左から《ヴィナスと少年》(1936)、《戦士と母子》(1936)ともに板橋区立美術館蔵、《CHARIOTEER(ギリシャ彫刻より)》(1935)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 会場では難波田がこの時期に描いた、豊かな想像力によるギリシャ彫刻や、「自己が分裂せずに統合されていた時代」としての古代への思いを深めていった、初期の作品を見ることができる。

展示風景より、左から《ペガサスと戦士》(1940)世田谷美術館蔵、《廃墟(最後の審判より)》(1942)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 第2章「戦後の新しい一歩:抽象への接近」は、戦後、急速に抽象絵画に接近し、表現力を高めていった難波田の50年代半ばまでの画業を取り上げる。

展示風景より、左から《色彩によるデッサン》(1951)、《庭》(1951)、《原子彫刻》(1951)すべて東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 戦後の難波田をとくに刺激したのは、戦後復興によって新たに建てられていく東京のビル群のエネルギーだった。それまでの古典への憧れは薄れ、都市における直線の美しさを取りれた抽象絵画をキュビスム的に描くようになっていく。 

展示風景より、《昇天する詩魂B》(1956)池田20世紀美術館蔵

 第3章「アンフォルメルとの出会い」は、50年代後半、「アンフォルメル」の抽象画が日本でも紹介されるようになって以降、難波田が受けた影響を探る。

 西洋抽象絵画の新たな潮流が「アンフォルメル」の名のもとに紹介されるようになると、難波田もこれに呼応した。会場ではその代表的作家であるジャクソン・ポロックの影響を強く受けているであろうドリッピングによる作品も並ぶ。

展示風景より、左から《青い陽》(1961)東京国立近代美術館蔵、《たたかいの日々》(1963)世田谷美術館蔵

 いっぽうで担当の福士は、この時期の難波田の葛藤について、次のようにも語った。「難波田は、例えば同時期のもの派のように、物質そのものの表情や存在感を強く打ち出す傾向には批判的であり、根本的にはヒューマニズムの側に立っていたいという思いがあった」。実際に、こうした葛藤こそが、次章以降で紹介される、難波田の独自性を構築していったといっていいだろう。

展示風景より、左から《コンポジション》(1965)東京国立近代美術館蔵、《ファンタジー 青》(1966)池田20世紀美術館蔵
展示風景より、《青のコンポジション》(1963)東京国立近代美術館蔵

 第4章「形象とポエジー:独自の『抽象』へ」では、ドリッピングの波が過ぎたあとの難波田がたどり着いた、垂直線と水平線が拮抗しながらも混ざり合い、そこに色彩が複雑に絡み合うことで生まれる表情豊かな絵画群を紹介する。

展示風景より、左から《不思議な国(C)》(1984)世田谷美術館蔵、《原始的風景 A》(1987)東京国立近代美術館蔵

 福士は難波田の抽象画を次のように評価している。「たしかに、難波田の絵画は物質としての強度が弱いように思われることが多い。しかし、本展を準備するにあたって強く感じたことだが、難波田はマチエールの作家といえるのではないか。絵画の表面に現れるイメージの重なりは詩情豊かであり、見るものに様々なことを語りかけてくる。ぜひ、こうした観点で作品を見てもらいたい」。

 また、この時期の難波田の作品を見ていくと、たんなる抽象を超えた表現がしばし現出しているようにも感じられる。作品と対峙していると、線や色の重なりが、さながら人々や植物のように見えてくることがあり、そこはかとない具象性が感じられる。

 例えば難波田が長男と次男を相次いで亡くした時期の作品《昇天》においては「どこか人物の面影が見てとれる」と福士は語る。それが世を去った人々の姿と短絡的に結びつけることはできないが、難波田の絵画にはその人生が複雑に織り込まれていた可能性を汲み取ることもできるだろう。

展示風景より、左から《昇天》(1976)東京国立近代美術館蔵、《曙》(1978)世田谷美術館蔵

 第5章「石窟の時間」では、1988年に集中的に制作された大小55点の水彩画連作「石窟の時間」をおもに紹介している。鉱物や結晶を思わせる一連の作品は、難波田の地質や地層への興味をうかがわせる。

展示風景より、左が《人影が増えてくる》(1988)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 第6章「晩年の『爆発』へ」は、80年代後半から90年代にかけての、難波田の晩年の作品の紹介となる。とくに93年からの大型の連作「生の記録」は、難波田がパリのオランジュリー美術館でクロード・モネの睡蓮を見たのちに描かれたものだという。本シリーズについて難波田は「自らの人生を描いた」と語っている。線なのか、面なのか、その境界も曖昧なこの平面は、不思議な奥行きを湛えている。

展示風景より、左から《生の記録3》《生の記録3》(ともに1994)東京オペラシティ アートギャラリー蔵

 全国の館に収蔵されている難波田の作品は、コレクション展で目にすることも多い。しかし、これほど幅広く各館の所蔵品を集め、その画業を総覧できる展覧会は、非常に重要な機会といえるだろう。ぜひ本展に赴いて、2020年代のいまの批評眼でその価値を見定めてみてほしい。

展示風景より、《暁》(1991)東京オペラシティ アートギャラリー蔵