2025.7.10

「具体」の聖地で検証する、その功績

1954年に兵庫県芦屋市で結成された「具体美術協会(以下、具体)」。1972年の解散に至るまでの「具体」の活動と、それ以降に芦屋で行われたビエンナーレや美術コンクールを紹介する芦屋市立美術博物館の企画展「具体美術協会と芦屋、その後」をレポートする。

文・撮影=中島良平

展示風景より
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 戦前より二科会などで活躍した前衛画家で、製油業を営んでいた実業家でもある吉原治良(1905〜1972)を中心に、1954年に芦屋で結成された「具体」。芦屋市立美術博物館で7月5日よりスタートした「具体美術協会と芦屋、その後」展は、吉原が急逝する1972年まで続けられた「具体」の活動を3つの時代に分けて紹介する「第1部:具体美術協会 1954-1972」と、「具体」解散以降の芦屋の文化的な動きをたどる「第2部:『具体』が芦屋へもたらした、新しい息吹」で構成される。展覧会を担当する大槻晃実学芸員は企画の意図を次のように説明する。

大月晃実学芸員
芦屋市立美術博物館外観。設計を担当した山崎泰孝(当時、坂倉準三建築研究所に所属)は、建築設計以外においても芦屋の文化活動に携わった

 「吉原治良さんが住んでいたことや、『具体』の結成の地であり、芦屋公園で美術展が開催されたことはもちろんですが、芦屋と『具体』のつながりはそれだけではないと考え、調査を続けてきました。そこでわかったのは、『芦屋川国際ビエンナーレ』や『ルナ・フェスティバル』が『具体』解散後に芦屋で行われ、その中心を担ったのが元『具体』のメンバーとその他の芦屋市民だったということです。芦屋の人々に『具体』がどのような影響を与えたのか知りたいと思い、今回の展覧会を企画させていただきました」。

 「第1部:具体美術協会 1954-1972 具体誕生/1954-1957」の展示は、同館の前庭からスタートする。松の木に吊るされているのは、元永定正がポリエチレンのバッグに水と水性インクを入れて手がけた《液体(赤)》。1955年8月に芦屋川沿いの芦屋公園で開催された、「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展(以下、野外実験展)」(主催:芦屋市美術協会、芦屋市)に出品された作品だ。松の木を用いた展示風景が、初出時の「野外実験展」の景色を想像させる。

展示風景より、元永定正《液体(赤)》(1955/2025) ※所蔵者表記のない作品はすべて芦屋市立美術博物館蔵

 建物1階ロビーには、先述の「野外実験展」と、翌1956年にやはり芦屋公園で開催された「野外具体美術展」(主催:具体)というふたつの野外美術展を編集して屋内に再現。吹き抜け空間の天井高を活用した展示空間には、白髪一雄が赤い丸太を組み合わせて制作した《どうぞ、お入りください》(1955/1993)や、元永定正による液体作品《作品(水)》(1956/2025)などと併せて、田中敦子の《作品(ベル)》(1955/2000)も展示。来場者が自由にスイッチを押すことができるこの作品によって、会場内には断続的にベルの音が響き渡る。

展示風景より

 2階に上り、最初に出会うのは4点の絵画作品だ。「ひとの真似をするな、今までに無いものをつくれ」という吉原の思想が求心力となった「具体」では、どのような画材を用いるか、絵筆の代わりに何を使うか、という発想のもとで新たな表現が探求された。例えば吉原治良は円を描いた油彩作品の数々で知られているが、その画風を確立したのは1960年代半ばのこと。それまでには多様な絵画表現を試し、模索を繰り返した。また、破った紙を用いた《紙破り》や《剥落する絵画》で知られる村上三郎は、「野外具体美術展」では景色そのものを絵の「主題」とすべく、額縁を木の枝から吊るした作品《あらゆる風景》を発表した。

展示風景より、左から上前智祐《作品》(1958)、吉原治良《作品》(1958)、白髪一雄《地熱星鎮三山》(1961)、嶋本昭三《作品》(1963頃)
展示風景より、左から東貞美《作品》(1953)、金山明《WORK》(1954)、吉原治良《作品》(1955)
展示風景より、村上三郎《あらゆる風景》(1956/1992頃)個人蔵

 1954年に結成された「具体」だが、作品制作はメンバーそれぞれが行っていたものの、グループとして作品展を開催するよりも前に機関誌『具体』を1955年1月1日付で創刊した。日英表記で誌面が構成されており、作品図版に加え、吉原による作品や展覧会の評論、会員のエッセイや芸術論も掲載され、1965年10月まで11年にわたって12冊が発行された。海外への展開も視野に入れ、戦略的に活動を計画した吉原治良の実業家としての視点がそこには垣間見える。

展示風景より、機関誌『具体』が創刊号(画面右の黄色い絵の表紙のもの)より並ぶ
展示風景より、吉原治良による「具体美術宣言」が掲載された『芸術新潮』(1956年12月号)

 その戦略は、見事に奏功する。『具体』誌を受け取ったパリ在住の画家、堂本尚郎が、「アンフォルメル」の主唱者であるフランスの美術評論家であるミシェル・タピエに見せると、タピエは強い関心をもち、「具体」の海外での展示をプロデュースするのみでなく、のちに拠点となる「グタイピナコテカ」の名付け親となるなど、その後の展開に大きな影響を与える出会いをこの機関誌がつくったのだ。展示は「第1部:具体美術協会 1954-1972 『具体』から『GUTAI』へ/1957-1965」へと続く。

「第1部:具体美術協会 1954-1972 『具体』から『GUTAI』へ/1957-1965」展示風景より
展示風景より、左から正延正俊《作品64-3》(1964)、田中敦子《作品》(1960)

 タピエが来日したのは、1957年9月のこと。吉原治良と「具体」会員たちが大阪駅で出迎え、「具体」会員たちの作品を保管していた吉原の本宅(大阪・中之島)や芦屋にある別邸に案内した。新たな抽象表現を追求する作家たちによる身体性や物質性を強調した作品を目の当たりにしたタピエは、その質の高さに感銘を受け、「具体」の熱心な支持者となったという。作品を意味性や物語と切り離し、純粋な抽象表現を目指す彼らが初めて評価を受けた瞬間であり、その後の大きなモチベーションを獲得する出会いとなった。

展示風景より、左から向井修二《作品》(1964)、前川強《作品 60-1》(1960)

 1962年9月1日、吉原が所有していた大阪・中之島の古い土蔵を改築して「グタイピナコテカ」をオープンした。ここでは1955年10月より定期的に行われてきた「具体美術展」のほか、「具体」会員たちの個展や、新人発掘の場となる公募展「具体美術新人展」などが開催された。白髪一雄や元永定正、田中敦子ら第一世代に、前川強や向井修二、名坂有子、松谷武判ら第二世代と呼ばれるメンバーがこの期間に加わった。

 ドンゴロス(コーヒー豆の麻袋)を支持体とする前川や木工用ボンドを画材とする松谷のように、新たな素材を用いる作家、あるいは向井や名坂のように、反復を通して新たな表現を獲得しようとする作家ら、第二世代にとっても「ひとの真似をするな、今までに無いものをつくれ」のコンセプトは強い求心力となっていた。

展示風景より、左から名坂有子《UNTITLED》(1963)、松谷武判《作品・62》(1962)

 そして展示は、「第1部:具体美術協会 1954-1972 具体フィナーレ/1965-1972」へ。1970年に国家的一大事業として開催された日本万国博覧会(大阪万博)が後期「具体」のハイライトとなり、テクノロジーの発展と呼応するように科学技術を駆使する第三世代の作家が加入。彼らから刺激を受けた第一世代が、それぞれに新たな技法を確立したのもこの時期だった。

「第1部:具体美術協会 1954-1972 具体フィナーレ/1965-1972」展示風景より
展示風景より
展示風景より、今井祝雄《白のイベントI》(1965)。モーターによりラバー材を盛り上げる動きを繰り返すキネティックアート作品
展示風景より、大阪万博の様子をレポートした数々の資料

 大阪万博では「具体」のグループ展に加え、万博美術館で開催された万国美術展〈現代の躍動の部〉において屋外展示《ガーデン・オン・ガーデン》を会員14名で共同制作し、クライマックスとして会場中心部のお祭り広場で「具体美術まつり〈EXPO‘70お祭り広場における人間と物体のドラマ〉」を実施した。長い準備期間と多額の予算を費やしたこのショーは、パフォーマンス・グループとしての「具体」の存在を広く知らしめることとなった。

 しかしこの時期、都市計画に伴う立ち退きによって「グタイピナコテカ」は閉館を余儀なくされ、大阪万博閉幕後の残務処理などでトラブルが起こると、第一世代の主要な会員が離脱するという深刻な事態が生じた。吉原は活動拠点として新たな美術館建設の構想を抱いていたが、1972年1月18日に自宅で倒れ、2月10日にクモ膜下出血により芦屋市立病院で逝去した。良くも悪くも圧倒的な影響力、求心力をもった吉原が他界したことで、3月31日をもって具体美術協会は解散した。

展示風景より

 「具体」が解散したことで、所属していた作家たちがそれぞれの道を歩むようになった。そのなかでも、芦屋を発信地として芸術祭やコンクールの企画に携わる作家たちがいた。吉田稔郎や松谷武判、今井祝雄らだ。展示は「第2部:『具体』が芦屋へもたらした、新たな息吹」へと続く。

「第2部:『具体』が芦屋へもたらした、新たな息吹」展示風景より

 話は「具体」結成以前に遡る。1948年4月に創立された芦屋市美術協会と芦屋市が主催者となり、同年6月に公募展「第1回芦屋市美術展覧会」が開催された。「何人も随意に応募することが出来ます」「大きさは制限なし」と募集要項に記された同賞は、第4回より「芦屋市展」と名を変え、現在も多くの人に開かれた公募展として継続している。芦屋市美術協会には正会員として吉原治良が所属しており、前衛を目指す若手作家たちに「芦屋市展」への出品を促し、やがて1954年、同展に出品した若き才能たちとともに「具体」を結成した。

展示風景より
展示風景より、吉田稔郎《作品》(1959)。第12回芦屋市展(1959年6月)出品作
展示風景より、手前から村上三郎《空気》(1956/1992)第9回芦屋市展(1956年6月)出品作・個人蔵、堀尾昭子《無題》(1998)第51回芦屋市展(1998年6月)出品作

 1955年に吉原の発案のもとに芦屋公園で開催された「野外実験展」は、「具体」の会員の作品が、「具体」以外の作家や市内の中学・高校生たちが共同で制作した作品とともに発表される意欲的な場であった。「具体」が活動していた1954年から1972年の間にも、吉原を含むメンバーたちは「芦屋市展」に出品し、作品審査にも関わっており、同展は「具体」の登竜門にもなったという。初日に来場者が3000人を数えることもあったというから、注目度も高く、地域と芸術をつなげる文化事業としても機能してきたことがわかる。

 そして、3月末日をもって「具体」が解散した1972年、「具体」の会員だった松谷武判と芦屋在住の華道家・肥原俊樹が二人展の計画を立てる。芦屋市内で洋装店を経営し、吉原治良の活動に影響を受け、若手作家の育成に尽力していた実業家の真壁義昌に展覧会場の相談を持ちかけると、「どうせ開くなら、もっとたくさんの人に出品してもらっては…」と提案され、同年10月に「第1回芦屋川国際ビエンナーレ」が開催されることになった。現代の先鋭的な表現が発表され、作家と市民との交流が生まれる場となるようにという思いが込められ、外国人作家5名を含む13名による作品約20点が出品された。

展示風景より、「第1回芦屋川国際ビエンナーレ 会場風景」(すべて松谷武判アーカイブス)
展示風景より、「第2回芦屋川国際ビエンナーレ」に出品された菅野聖子《母音頌(1)》(1974)

 そしてもうひとつ、1973年から1975年にかけて毎年春に「ルナ・フェスティバル」と題する芸術祭が開催された。1970年4月に開館した「芦屋市民センター(ルナ・ホール)」を会場に、同館の設計を担当した建築家の山崎泰孝──芦屋市民美術博物館の設計者でもある──が、美術や音楽、演劇などの総合的な現代芸術の創出と、芸術家と観客のコミュニケーションの充実を提唱したことが契機となった総合芸術祭だ。

 注目すべきは、「第3回ルナ・フェスティバル〈いま、芸術は…〉」のラインナップだ。プレ・イベントでは、元永定正が乗用車に色とりどりのペンキを流す公開制作や、タージ・マハル旅行団の演奏を実施。20日間にわたる芸術祭は、維新派の玉木町煙など舞踊家による「ボディ・ワーク」、河口龍夫や小清水漸らが作品展示を行う「オブジェ・ワーク」、湯浅譲二や塩見充枝子ら作曲家による「サウンド・ワーク」、今井祝雄や植松奎二らの映像やインスタレーションを展示する「ライト・ワーク」など多彩なプログラムで構成され、錚々たる作家たちが名を連ねていることがわかる。

 当時のパフォーマンスなどを録音した音源が残されており、今回の展示のためにリマスターし、複数台のスピーカーを床に設置し、会場の空気を再現するサウンド・インスタレーションが行われている講堂にも足を運んでほしい。

展示風景より、「第3回ルナ・フェスティバル〈いま、芸術は…〉」プレ・フェスティバル関係資料(写真、模写物、記録音源)
展示風景より、「第3回ルナ・フェスティバル〈いま、芸術は…〉」のポスターやチラシなどのデザインを手がけたのは、1970年の大阪万博のシンボルマークをデザインした大高猛
講堂展示風景より、パフォーマンスなどの記録写真のスライドショーも併せて楽しめる

 「第2部:『具体』が芦屋へもたらした、新たな息吹」を締めくくるのは、1978年から1994年まで17回にわたって開催された「ジャパンエンバ美術コンクール」の紹介だ。国籍や年齢、ジャンルなどに制限を設けず「国鉄5トンコンテナに積み込める」大きさであることを条件とし、出品無料でありながら大賞受賞者には賞金300万円が贈られたこの賞。大阪大学教授の木村重信と元「具体」会員の吉田稔郎が、毛皮の総合商社であるジャパンエンバ株式会社社長で美術に深い関心をもっていた植野藤次郎に話をもちかけ、現代美術の振興の必要性を説いたことで実現した。第1回の入賞作品展「エンバ賞美術展」が芦屋市民センターで開催され、1991年の開館年から芦屋市立美術博物館賞(作品を買い上げ)が設けられるなど、芦屋の地と深い関わりをもつ賞であった。

展示風景より、エンパ賞美術展出品作品。右から松田豊《STAGE-41》(1989)、村上公也《TURN BUCKLE 900-R》(1990)、山下哲郎《陶板のためのWOOD CUT H5-52》(1993)

 所蔵作品のみで「具体」の初期から後期までをたどることができ、また、解散後にも元「具体」メンバーが地域の文化活動に携わった芦屋市の同館だからこそ、これだけの濃度のある「具体」展が可能となったのだろう。芦屋公園で行われた野外展が市民たちを熱狂させ、「具体」の活動を追いかけた人々によって、1972年以降の芦屋の文化的な動きが起こったことが全体を通して伝わってくる。