2025.10.3

特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ー不倒の油画道ー」(泉屋博古館)開幕レポート。日本洋画に写実をもたらしたひとりの画家の足跡をたどる

京都にある泉屋博古館で、特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ―不倒の油画道―」が開幕した。会期は、前期が9月27日~11月3日、後期は11月5日~12月14日。

文・撮影=大橋ひな子(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より
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 京都にある泉屋博古館で、特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ー不倒の油画道―」が開幕した。会期は、前期が9月27日~11月3日、後期は11月5日~12月14日。企画は、泉屋博古館東京・館長の野地耕一郎。

 鹿子木孟郎は岡山市生まれ。天彩学舎や不同舎で洋画の基礎を学んだのち、1900年に米国経由で渡仏する。パリでは19世紀フランス・アカデミスムの伝統を継ぐ歴史画家ジャン=ポール・ローランスに師事し、フランス古典派の写実技法を習得した。帰国後は、関西美術院や太平洋画会、文部省美術展覧会(文展)などで中心的な役割を果たし、日本洋画の発展に尽力。またパリへの留学を支援した住友家との関係も深く、ローランス作品の購入を仲介するなど、パトロンとも親しい関係を築いていた。

 鹿子木がパリからの帰国後、画塾を運営した京都の土地で、鹿子木の回顧展が開かれるのは35年ぶり。生誕150年を記念した本展は、文展や太平洋画会の展覧会出品作をはじめ、師ジャン=ポール・ローランスの作品、あるいは今回の調査で発見された新出作品を含む約80点を通じて、鹿子木の画業をたどるものとなる。

 本展は全4章で構成されている。第1章「『不倒』の油画道への旅が始まった。」では、鹿子木の画業の初期を紐解く内容となる。鹿子木は、出身地である岡山で、14歳のときに洋画家・松原三五郎の天彩学舎に入門し、洋画の基礎を学んだ。その後18歳で上京し、小山正太郎の「不同舎」でさらに技術を磨く。このとき鉛筆による「たった一本の線」で素描することを徹底的に学び、多くの鉛筆画を残している。鹿子木は、不同舎で学んだことにちなんで、後に自ら雅号を「不倒」とした。

 会場には、14歳のときに制作した《野菜図》や鉛筆で描いた素描が展覧されている。若い頃から基礎技術を徹底して学んでいた姿勢が、これらの作品からも伝わってくる。

展示風景より、鹿子木孟郎《野菜図》(1888)府中市美術館【前期展示】9月27日〜11月3日
展示風景より

 鹿子木は、静物画や風景画に加えて、この頃から油彩肖像画にも挑戦しはじめる。会場にはいくつかの肖像画が紹介されるが、なかでも《老女》という作品は、不同舎に属した鹿子木ならではのモチーフが描かれる。当時不同舎に属した作家に対して、黒田清輝をはじめとするグループも活躍していた。不同舎を「旧派」というなら、黒田らを「新派」と呼ぶように、様々な観点で対比される2つだったが、モチーフ選びにおいて「旧派」は、老若男女、とくに下層階級と呼ばれた農民たちも多く描いた特徴がある。見たままを描く、という鹿子木のスタイルは、この不同舎での学びによるものが大きい。

展示風景より、鹿子木孟郎《老女》(1894)【前期展示】9月27日〜11月3日

 第2章「タケシロウ、太平洋を渡ってパリまで行く。」では、鹿子木の3度にわたる留学のうち、1900年に出発した1回目に焦点が当てられる。鹿子木はアカデミー・ジュリアンのジャン=ポール・ローランス教室に入学し、西洋絵画の基礎である人体デッサンから、油彩の裸体写生を学ぶ。ローランスによる歴史画の群像表現に深く感動したことをきっかけに、これ以降全身像の習得に力を注いでいる。会場にある《男裸体習作(背面)》や《女性裸体スケッチ(椅子)》からは、アカデミー・ジュリアンでの学習の様子がうかがえる。

展示風景より、左:鹿子木孟郎《男裸体習作(背面)》(1902)岡山県立美術館、右:鹿子木孟郎《女性裸体スケッチ(椅子)》【前期展示】9月27日〜11月3日

 そして帰国後は、京都に「鹿子木室町画塾」を開設し、次世代の育成にも力を入れはじめる。いっぽう、自身の作品も次々と発表し、画壇における地位も確立していった。《自画像》からはその時代の自信に満ちあふれた様子がうかがえる。

展示風景より、鹿子木孟郎《自画像》(1903)

 また本章では、師匠であるローランスの作品も展覧される。鹿子木は、布の皺の描き方といった細かいところまで隅々とローランス作品を研究し、自身の作品に生かしている。パリ留学時に支援をしてくれた住友家とは長い付き合いとなる鹿子木だが、本章で展覧されるローランスの《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》は、鹿子木が仲介し住友家の応接間に飾られていたものだ。

展示風景より、ジャン=ポール・ポーランス《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》(1877)【前期展示】9月27日〜11月3日

 第3章「再び三たびのヨーロッパ。写実のその先へ」では、2、3回目の留学経験にもとづく作品が紹介される。初回から継続してローランスに直接指導を受けた鹿子木は、さらにこの時期油画写生の技術を磨いていく。

 《加茂の競馬》という大型作品は、緑、赤、白の3色が目立つ作品だが、じつはこの色彩は、ローランスの作品によく登場する3色でもある。本作より色彩においてもローランス作品を踏襲していたことがわかる。また本作では、フランス・アカデミズムにおける伝統的な描き方である、部分ごとに描いたものを組み合わせながら画面を構成するといった方法が用いられている。

展示風景より、鹿子木孟郎《加茂の競馬》(1913)株式会社三井住友銀行

 本章で紹介される《ノルマンディーの浜》は、着衣人物の群像表現を課題としていた鹿子木が、ノルマンディー地方イポールの浜辺を舞台にした漁夫一家を描いたもの。本作は、1908年春のサロンで入選し、帰国後の同年秋の第2回文展にも出品された。近代日本洋画の金字塔ともいえる作品とされている。

展示風景より、鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》(1907)

 《車夫一服》は、リアルな顔の皺や手足の筋肉などが描かれ、まるでそこに車夫がいるかのように感じさせる作品。鹿子木はアカデミー・ジュリアン時代に美術解剖学を学んでおり、人体における肉のつき方などを、実際に解剖された人体を観察しながら隅々まで研究していた。その成果が見事に現れた作品だと言えよう。

展示風景より、鹿子木孟郎《車夫一服(原題:「休息」)》(1906)

 最後の第4章「象徴主義の光を受けて一不倒の画家、構想の成熟。」では、鹿子木の晩年の作品が展開される。徹底された技術のもと、写実的な作品を描いていた鹿子木だが、晩年は精神性を帯びた表現に変化していく。

 例えば、《木の幹》は写実的でありながらも、青空とのコントラストを含め、1本の幹の存在感を感じさせる描かれ方であり、対象の本質をとらえるような表現を試みている。

展示風景より、鹿子木孟郎《木の幹》

 また本展のキービジュアルとなった《婦人像》も、モチーフとなる婦人の背景となる室内の様子も描かれることで、たんなる肖像画を超えて、婦人の内面や当時の生活様式を思わせる作品となっている。

展示風景より、鹿子木孟郎《婦人像》

 自ら雅号「不倒」を名乗った鹿子木は、その画業を通して、徹底された修練のもと身につけた写実に忠実であった。しかしそれにとどまらず、晩年にはその基礎のもとに精神性を感じさせる表現を展開し、近代洋画家としてのぶれない軸と表現の幅をみせた。本展では、そんな鹿子木の作品が、前期と後期の展示入替を含め約80点見られる貴重な機会となる。ぜひ会期中は複数回足を運び、その作品世界を堪能してほしい。