EXHIBITIONS
ベルナール・ビュッフェ展
ギャルリーためなが 大阪店で「ベルナール・ビュッフェ展」が開催されている。
EXPO2025 大阪・関西万博開催とともに、関西にゆかりの深い20世紀の巨匠ベルナール・ビュッフェ(1928〜1999)の展覧会を開催。
ベルナール・ビュッフェは1928年フランス・パリ生まれ。第二次世界大戦後のフランス画壇に現れ、1948年、19歳の時に画家の登竜門であったクリティック賞(批評家賞)を受賞。鋭い線描と独特のグレーの色彩で当時の世相を反映するような作品を描いた。20世紀、全世界が抽象絵画全盛であった時代に具象絵画の地位を確立。1952年からは毎年テーマを決めて新作を発表し続け、1999年、パーキンソン病が進むなかで最後の作品テーマ「死」を完成させたのち、自ら人生に幕を下ろした。1971年にはフランス政府より国家勲章であるレジオン・ド・ヌール勲章シュバリエの称号を、1993年にはレジオン・ド・ヌール勲章オフィシィエの称号を授与。
ビュッフェは親日家として知られており、妻アナベルとともに幾度も来日している。1973年には静岡県駿河平にベルナール・ビュフェ美術館が開館し、1988年には歌舞伎座100年記念として描いた歌舞伎シリーズの大作《暫》を大阪松竹座の正面エントランスに、東京の歌舞伎座には《景清》を納めている。1990年には、大阪梅田にある阪急三番街のシンボルマークとロゴも制作した。
同廊の創業者・爲永清司は、1950年代後半のパリでビュッフェと出会い、豊かな才能に注目。東洋でビュッフェの作品を紹介する唯一の画廊とし、1969年に東洋における独占販売権を結び、初個展から現在にいたるまで50回を超える展覧会を東京店、大阪店、パリ店で開催。また、1973年には静岡のビュッフェ美術館の設立にも協力し、日本国内における"ビュッフェ芸術"の地位の確立に尽力。そして、近年では2010年の目黒区美術館の「ベルナール・ビュッフェ展」、2016年にパリ市立近代美術館、モンマルトル美術館の2館で開催された「ビュッフェ大回顧展」に同廊所蔵作品を出品し、多くの観客に向けてビュッフェ芸術の魅力を紹介している。
卓越した造形力と力強い黒い線が特徴のビュッフェ作品。本展では、初期から晩年までの30作品を一堂に展観し、画風の変遷をたどる。
EXPO2025 大阪・関西万博開催とともに、関西にゆかりの深い20世紀の巨匠ベルナール・ビュッフェ(1928〜1999)の展覧会を開催。
ベルナール・ビュッフェは1928年フランス・パリ生まれ。第二次世界大戦後のフランス画壇に現れ、1948年、19歳の時に画家の登竜門であったクリティック賞(批評家賞)を受賞。鋭い線描と独特のグレーの色彩で当時の世相を反映するような作品を描いた。20世紀、全世界が抽象絵画全盛であった時代に具象絵画の地位を確立。1952年からは毎年テーマを決めて新作を発表し続け、1999年、パーキンソン病が進むなかで最後の作品テーマ「死」を完成させたのち、自ら人生に幕を下ろした。1971年にはフランス政府より国家勲章であるレジオン・ド・ヌール勲章シュバリエの称号を、1993年にはレジオン・ド・ヌール勲章オフィシィエの称号を授与。
ビュッフェは親日家として知られており、妻アナベルとともに幾度も来日している。1973年には静岡県駿河平にベルナール・ビュフェ美術館が開館し、1988年には歌舞伎座100年記念として描いた歌舞伎シリーズの大作《暫》を大阪松竹座の正面エントランスに、東京の歌舞伎座には《景清》を納めている。1990年には、大阪梅田にある阪急三番街のシンボルマークとロゴも制作した。
同廊の創業者・爲永清司は、1950年代後半のパリでビュッフェと出会い、豊かな才能に注目。東洋でビュッフェの作品を紹介する唯一の画廊とし、1969年に東洋における独占販売権を結び、初個展から現在にいたるまで50回を超える展覧会を東京店、大阪店、パリ店で開催。また、1973年には静岡のビュッフェ美術館の設立にも協力し、日本国内における"ビュッフェ芸術"の地位の確立に尽力。そして、近年では2010年の目黒区美術館の「ベルナール・ビュッフェ展」、2016年にパリ市立近代美術館、モンマルトル美術館の2館で開催された「ビュッフェ大回顧展」に同廊所蔵作品を出品し、多くの観客に向けてビュッフェ芸術の魅力を紹介している。
卓越した造形力と力強い黒い線が特徴のビュッフェ作品。本展では、初期から晩年までの30作品を一堂に展観し、画風の変遷をたどる。