櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:「できること」を失った先に

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第89回は、癌治療により創作や生活の自由が奪われた齋藤七海さんの言葉が投げかける問いに迫る。

文=櫛野展正

齋藤七海さん
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 静岡県掛川市の掛川東病院は、地域医療の核として機能し、地域訪問診療9割を対応するなど在宅医療を支えている。宮地紘樹院長は、外科医から訪問診療医へ転身した経歴を持ち、地域医療の新たなかたちを提唱し、夜間の急な状態変化にも往診する体制を構築している。

 宮地院長が地域を巡る訪問診療のなかで出会った患者のひとりが、同市在住の齋藤七海(さいとう・ななみ)さん(81歳)だ。1944年(昭和19年)に3人きょうだいの2番目として生まれた齋藤さんの人生は、終戦直後の激動の時代背景のなかで故郷の土とともにかたちづくられていった。

 両親は東京で教員をしていたが、終戦直後、農地解放によって小作人に貸していた土地が没収されるため、故郷に戻り、茶業と米農家を始めた。子供の頃はいたずら好きなガキ大将だったという。友人たちとザリガニを捕って食べるのは当たり前で、時には度胸試しのようにカエルを煮て食べさせたというエピソードは、彼の少年時代のやんちゃぶりを物語っている。しかし、その有り余るエネルギーは、やがて陸上というかたちで才能を開花させることになる。

 地元の中学校に進学後、運動会で走っていた齋藤さんを見た先生から陸上部に誘われた。その才能はすぐに認められ、県の大会で上位入賞を果たすまでに成長した。そして地元の農業高校に進学後も、駅伝選手として活躍。高校2年生と3年生のときには、静岡県代表として全国高校駅伝競走大会に出場した。とくに高校2年のときには全国6位という好成績を残し、周囲からはオリンピック出場も期待されたという。

 しかし、齋藤さんの心にあったのは「家業である農業を継ぐのが当たり前」という思いだった。長男はすでに東京で学校の先生をしていたため、故郷に残るのは自分しかいなかった。周囲からの期待とは裏腹に、彼は高校卒業後、一度は浜松市内の衣料品会社に就職するものの5~6年で退職。退職金で畑をつくり、専業農家として、茶や米に加え、椎茸などを栽培する道を選んだ。

 齋藤さんは農業に打ち込む傍ら、地域活動にも積極的に参加した。当時の掛川市長が創設した農家代表者グループ「塾長会」の代表を5年間務め、地元農業の振興に貢献した。また、農業協同組合の理事を6年間務め、掛川市の茶農家を代表して全国の大会にも同席するなど、その活動は多岐にわたった。25歳のときには、牧之原の茶農家出身で、学生時代に陸上をしていた妻・悦子さんと結婚し、3人の子供と7人の孫を授かった。地域に根ざした活動と家族の存在は、彼の人生を豊かに彩るものだった。

 地域活動の代表職を退いた60代前半からは、趣味の創作活動に没頭するようになる。若い頃は仕事や子育てに追われ、創作に打ち込む時間がなかったという。ステンドグラスや蕎麦打ちなど、様々な創作を試すなかで、とくに熱中したのは木彫りだった。孫を喜ばせるために始めたアンパンマンの木彫りから発展し、おとぎ話を題材にした木彫り作品を10数点制作した。ホームセンターで安価な板を買い、彫刻刀で形を彫り、絵の具で彩色し、ニスで仕上げる。孫の喜ぶ顔を想像しながら、一つひとつの作品に心を込めた。

齋藤七海さん

 現在、齋藤さんは60代から患っている糖尿病に加え、5年前に発覚した食道癌の闘病生活を送っている。人間ドックの胃カメラで発見された癌はステージ1だったが、食道の裏への転移を恐れ、食道をすべて摘出し、胃を持ち上げてつなぎ合わせた。しかし、2年後に食道の横にあるリンパ節に再発。様々な抗癌剤を2年かけて試し、放射線治療も行った。

 癌の抗癌剤治療が始まった影響で、細かな作業が難しくなり、木彫り作品の制作もやめざるを得なくなった。以前は荷造りひもでカゴを編むような細かい作業もできていたが、それもいまでは難しい。そして、現在は口から物を食べることができず、外科手術で腹部から小腸に直接管を通す腸ろうを造設し、そこから1日12時間かけてラコールという栄養剤を補給する生活を送っている。

 齋藤さん本人が「もう治療はしない」と望むため、現在は検査もせず、緩和ケアに切り替えている。1週間に2回看護師が訪問し、痰の吸引などのケアを行っている。月2回は宮地院長が往診に来て、診察やアドバイスをしてくれる。しかし、病は齋藤さんの心身を深く蝕んでいる。少し動くだけで熱が出て、すぐに疲れてしまう。話しているだけでも疲労を感じるほどだ。布団の中では、頭の中で詰将棋をしたりするなどの空想に耽ることもあるが、それも長くは続かないという。

 「早く死にたいだけ」と漏らす齋藤さん。病気で飲んだり食べたりできないことが何より辛いのだという。CMでビールをうまそうに飲む姿など、食べ物ばかりが目に入ってしまうため、テレビを見るのはあまり好きではない。気分転換に妻とスーパーに行くこともあるが、そこでも食べるものばかりが目に入り、「何も楽しくない」と話す。また、妻が見ているテレビ番組の影響で俳句をつくり始め、娘が生成AIで添削してくれていたものの、それにも飽きてきたとのことだった。

 かつては全国を駆け抜け、地域を支え、創作にも情熱を燃やした齋藤さん。現在は、病と向き合い、静かに日々を送っている。彼の人生は、陸上選手としての輝かしい青春から、故郷の土を耕す農家、そして創作に打ち込んだ日々まで、様々な顔を持っていた。

 齋藤さんのように、かつて手先を器用に動かして創作活動に打ち込んでいたにもかかわらず、病によってそれが叶わなくなった人々に、文化芸術は何ができるのだろうか。高齢者に対する自立支援や重度化防止に関する取組は国をあげて推進されている。いっぽうで、予防に重点が置かれた取組からは、すでに要介護状態となり、顕著な改善が望みにくい高齢者が取り残されている可能性も否めない。そうした人たちに求められる支援とは、最期まで希望を持って生き続けられるためのものである。

 病によって創作や生活の自由が奪われるなかで、僕たちは、この「最期の希望」をいかに支えるか、そしてその人が生きてきた証、その存在そのものをどのように受け止め、いかにして社会で分かち合っていくべきなのか。齋藤さんの言葉は、重い問いを投げかけている。

──取材のあと、齋藤七海さんは2025年10月1日に永眠された。