櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:ありふれた素材の底力

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第87回は新聞広告やサランラップの芯などで造形物を生み出す三輪章さんに迫る。

文=櫛野展正

三輪章さん
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 誰もが知るランドマークと、見る者の心を和ませる遊具たち。それらの細部は、日々の新聞紙の広告と生活の痕跡を宿すサランラップの芯で構成されていた。この一見ささやかな作品群には、人間の根源的な創造の喜びと、ありふれたものに美を見出す特別な眼差しが宿っている。

 今回出会ったのは、84歳の高齢男性が手塩にかけて制作した、驚くほど精巧な2つの模型だった。日本の現代建築を象徴する東京スカイツリーと、どこか懐かしい観覧車が、その全貌を現した。

 作品の材料は、一般的な模型材とは一線を画している。スカイツリーの緻密な格子構造から観覧車の鮮やかなゴンドラ、そしてその中心軸に至るまで、主要な部分は、日々の暮らしで手にする広告を細かく裁断し、棒状に丸めるという丹念な手作業で形づくられている。使い終わったサランラップの芯も巧みに加工・組み合わせ、その軽量な円筒形を活かし、観覧車のゴンドラやスカイツリーの骨格の一部にも用いられていた。この観覧車は手動でゴンドラが回転する仕掛けまで組み込まれ、その精巧さに僕は思わず息を呑んだ。

三輪さんが手がける観覧車のゴンドラ部分

 強度と安定性を保つ台座や心棒には木材を使用。異素材の組み合わせが作品に深みとリアリティを加えている。細部にわたる観察眼と途方もない集中力が生んだ、まさに丹精込めた仕事の賜物だと言える。

 作者の三輪章(みわ・あきら)さんは、静岡県静岡市で暮らしている。1941年、石川県羽咋郡柏崎村(現在の宝達志水町)に6人兄弟の次男として生を受けた。教師である両親のもと、幼い頃からモノづくりに熱中したという。

 「小学校くらいの時に、大工だった祖父からは、いろんな仕事を手伝わされたんだよ。屋根葺きや瓦拭きなど実際にやりながら覚えて、とにかくおもしろかったね。でも2〜3日で終わっちゃうからね。どんどんモノづくりにのめり込んでいったわけ。やりたいやりたくないとかではなく、家のことを手伝わなければならない時代だったんだよね」。

 小学校時代から部活動の傍ら、田植えや収穫といった家業も手伝ってきた。中学校では陸上長距離にも打ち込んだ。七尾市内の工業高等学校で建築の世界に魅了された三輪さんは、「建築分野だと、好きなモノづくりに関わることができる」と感じ、卒業後は学校の紹介で東京都台東区にあった工務店に就職。ところが、人間関係のトラブルから1年で退職に至ってしまう。

 その後は、友だちから「鉄の船が浮いているぞ、静岡にそんなところあるから行くか」と誘われて、静岡の造船会社に転職。2年ほど船体や船の各部に使われる様々な金属製の構造物や容器、部品制作に携わった。その腕を認められ、別の造船所からのスカウトを機に転身。24歳で結婚後、「おんなじことをずっとやるんだから、おもしろくねぇじゃん」と同市内の重機械の保守・点検を手がける企業へと転職し、コンテナクレーンの修理工事など重機械メンテナンスに携わるようになった。「結局、建築に携わったのは1年ちょっとで、あとはずっと造船業だったね。自分のやる気さえあれば、なんでもできたわけ」と当時を振り返る。これは彼にとって興味深い仕事だったようで、以来40年もの間、定年まで勤め上げ、専務にまで昇り詰めた。

 60歳で定年退職したあとは、ヘルパーとして15年間勤務した。これは、40代でパーキンソン病を発症した妻の介護に備えるためだった。妻の闘病を30年間支え続けた三輪さんにとって、介護は生活の一部だった。

 室内に飾られていた木目込人形の制作は、三輪さんが30代の頃、手芸好きだった妻がきっかけで始めたものだ。「女房がやっていたんだから、こんなものもつくれてなくてどうする」という思いから、木目込人形の通信教育で資格を取得し、一時期は講師を務めることも考えるほど、その魅力にのめり込んでいった。

 ヘルパーを始めた頃から、三輪さんはモノづくりを再開しており、特に広告やサランラップの芯といった身近な材料を使った新たな種類の制作をこの時期に始めた。

 三輪さんのモノづくりは、たんなる趣味に留まっていない。認知症予防につながるという考えから、手先を動かすことに着目。しかし、やがて「人と触れ合うこと」こそが認知症予防には不可欠だと悟った。

 それからは、作品を通して多くの人との交流が生まれた。これまでに200点以上の作品を完成させ、その一部は市内の社会福祉会館や病院といった施設に寄贈してきた。牛乳パックや広告、サランラップの芯などを活用し、オリジナルの作品を次々と生み出している。1階の倉庫には、これまで手がけてきた牛乳パックとチラシでつくった無数のペン立てが並ぶ。「同じことをやっていると飽きてくるから、モノづくりの気晴らしにモノづくりをやっている」と笑う。とくに、高さ55cm、横幅45cmの観覧車「ドリームスカイ」は、静岡市内の商業施設であるドリームプラザにあるものを参考に、3ヶ月かけてその原型を制作した力作だ。この「ドリームスカイ」は、これまでに同じものを10個以上制作し、社会福祉会館や病院などに寄贈してきた。長く飾っておくと色が変化してしまうため、定期的に部品をつくり直して交換するなど、作品への愛情は尽きることがない。

量産しているゴンドラ部分
材料を図面の上に配置する

 最近は腰の痛みで歩くのがつらいと感じることもあるという。それでも、「何にもやらないと人間はダメになっちゃう」という信念のもと、朝と昼の食事は自分で支度をするなど、手先を動かす日々の動作を大切にしている。

 今後の夢や目標について尋ねると、「とくにはない」と三輪さんは答える。しかし、つくった作品が古くなれば交換してあげる、というスタンスで、つねにモノづくりに挑戦し続ける姿勢は変わっていない。

 「手先が器用じゃなきゃできなかった」と語る三輪さんの作品は、たんなる工作の域を超えている。「自分でつくったことに意味がある」という職人気質なモノづくりは、これまでの人生経験と暮らしの中の知恵が凝縮されたものだと言える。三輪さんによれば、これまで一度も公募展などには出展したことがないという。誰かに見せびらかすのではなく、ただ自分と向き合い、長い時間をかけて制作を続けてきた。

 帰り際、玄関先の壁には亡き妻のタペストリーが飾られているのを見つけた。三輪さんは「定期的に入れ替えているんだよ」と教えてくれた。よく見れば、牛乳パックのペン立てなどの周りに使われているのも、妻が手芸で使っていた布を転用したものだ。嗚呼、妻から刺激を受けて始めた三輪さんの制作には、未だ奥さんの魂が宿っているようだ。