櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:流動体のように

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第84回はC孛(しーぼつ)さんに迫る。

文=櫛野展正

C孛(しーぼつ)
前へ
次へ

 2014年に「ヤンキー人類学」という企画展を開催したとき、参照していたのが、斎藤環さんの書籍『世界が土曜の夜の夢なら——ヤンキーと精神分析』(角川書店)だった。本書は、日本人の根底に流れる「ヤンキーの美学」や「バリバリに目立つバッド・テイスト」の精神性を徹底分析したもので、内容もさることながら、その不思議な書影のイラストがずっと頭に残っていた。そこから10年以上経って、偶然にも装丁に使われたイラストの作者と出会うことができた。

 市販の家計簿の上に、シャープペンや色鉛筆やクレヨンなどで描かれた無数のドローイング。画中の不思議な人物像は、人型のキャラクターがメカニックな部品やパーツとキメラ的に合体しているのだが、いずれも不定形に歪んでいる。支持体となった家計簿の規則的なレイアウトの上にそれらが描かれている様は、大きさは異なるが、都市の壁面に描かれたグラフティのようでもあった。キャラクターの背後には、激しい筆致で書かれた言葉の羅列などが見えたが、初見でその意味を解読することは困難を極めた。

 「『世界が土曜の夜の夢なら』の装丁で使われた頃は、本名をもじって『概ねたか』という名を使っていました。学生時代から、いまのルーツにつながるような抽象的な絵を描いていましたね。芸術へ興味があったわけではなく、『デジタルモンスター』や『爆丸バトルブローラーズ』、そして『ハイパーヨーヨー』など、レトロゲームやホビーの影響が大きいですね。だから、いまでもゲームをするような感覚で絵を描いています」。

 そう語るのは、作者のConstellation Botsuこと、「C孛(しーぼつ)」だ。彼は、1987年に鳥取県鳥取市でひとりっ子として生まれた。両親は夫婦で喫茶店を営んでいたが、あるときから父親が自宅で占い店を経営するようになり、母親はその手伝いをしていたという。

 「小さい頃は、大人しくて人見知りの激しい子供でした。親父がお客さんの書いた願い事が溜まってくると、3ヶ月に一度くらい、日蓮宗総本山のある静岡県富士宮市の寺院へ奉納に行っていたんです。運転ができない親父の代わりに、母親が運転して、そこにいつも同乗していました。だから、幼少期の思い出といえば、東名高速道路のパーキングエリアなどの景色なんですよね」。

 中学に上がると、ニキビの増えてきた顔や多汗症をクラスメイトからあざ笑われるようになった。「人の目を気にしすぎて、廊下を歩いているときも俯いていたし、給食の時間も自分の口を見られるのが嫌で、汁物も飲めなくなっちゃいました」と懐かしむ。

 そんな彼が絵を描き始めたのは、幼少期の頃からだ。父親が毎日のように大学ノートを買ってきては、絵を描くよう勧めてくれた。高校卒業後は、印刷会社に勤務したが、8ヶ月ほど働いてみたものの、希望した仕事ではなかったため2007年1月に退職。そこから、10年に及ぶ長い引きこもり生活が始まった。

 同年10月には、身体を悪くした母親が他界した。残された父親は交通事故の後遺症が悪化し、やがて寝たきり状態となり、1年半ほど、C孛が父親の介護を請け負うことになった。その父親も2012年に亡くなり、孤独を感じ、ノイローゼ状態に陥ったという。「空のコーラのペットボトルが散乱した部屋の中で、ずっと絵を描いていました。電気も点けず真っ暗な室内で描いて、点灯したときに『こんな絵ができたんだ』と自分で驚くこともありました」と当時を振り返る。生活保護を受給しながら暮らす日々のなかで、一筋の光が射してきたのは、父の告別式で占い店の常連客が参列したときのことだ。

 「自分が絵を描いていることなどを説明したら、お世話になった父親へ恩返ししたいということで、その人がパソコンやプリンター、そして『音楽もやりなよ』と音楽をやるためのDTMセットなどを購入してくれました。家のリフォームまでしてくれて、とにかく御世話になりました」。

 デジタルデバイスを入手し、インターネットの大海を知ったことで、世界は一気に広がった。

 2013年からは、アメリカ・オークランドの老舗アンビエントレーベルConstellation Tatsu(通称しー辰)の名前をもじって、Constellation Botsu(しー没)と名乗り、ドローイングと並行して、独学でノイズミュージックの制作も始めた。同年11月に、音楽配信・販売プラットフォームで発表したデジタルアルバムが日本や海外の音楽ブログで話題となり、国内外のレーベルからカセットやCDをリリースするようになった。

 「初めて人前でライブをしたのは、2014年12月の東京でした。そのときすでに、ティッシュペーパーを使っていましたね」。

 2018年10月、旧歌舞伎町ブックセンタービルで開催されたChim↑Pom(当時)による「にんげんレストラン」内のイベントで、僕はC孛のパフォーマンスを目にしている。彼は箱の中から取り出した­ティッシュペーパーを食べていた。

 「もともとは、家で引きこもっていた頃の癖なんです。当時は、ストレスが溜まるとティッシュをガム感覚で食べていました。初めてのライブのとき、あまりにも緊張するから落ち着かせるためにティッシュを食べたんです。そこからは、ライブのパフォーマンスとして使い始めましたね」。

 強迫性障害と躁鬱の症状があり、精神障害者手帳3級を保持していることを打ち明けてくれた。何度もドアノブを回したり、冷蔵庫のドアを開閉したりと、執拗なまでの確認行為が1人でいるときにはよく出てしまうのだという。水道のバルブをきつく締めすぎて、同居人を困らせてしまうことも多いのだとか。

 「無心で描いています。紙の上をペンがスケートしていくような心地よさを感じていますね。だから、絵を描いているときは、不思議と強迫的な感情は湧き上がってこないんですよね」。

 C孛によれば、暗い気分のときに描くことはないのだという。これまで、様々な病を抱えた人たちを取材してきたが、多くの人たちが調子の悪いときに、いわば「頓服代わり」に創作を行っていた。その点で、C孛は異なっている。ズボンから垂れ下がる紐と紐の間隔など、様々な「間(あいだ)」が気になってしまうという彼にとって、世の中が随分と生きにくいことは容易く推測される。目に見えるものすべてが彼にとっては情報過多であり、ともすれば注意を向けざるを得ない対象となってしまうのだろう。そうした場合において、絵を描くことは自身の感情をニュートラルな状態に戻す儀式なのではないかと僕は想像する。

 「例えば、描いてきた作品が燃えて消失してもなんとも思わないんですが、このメモだけは手放せないんです」と見せてくれたのは、これまで何十年も密かに描き続けてきたメモの束だった。親戚の集まりでも、誰かが喋ったことを一言も聞き逃すまいとメモし続けていたという彼は、頭の中に浮かんだ文章を絶えず書き続けているのだという。末尾が「目で見てる」「耳で見てる」「息で見てる」などの文体で終わる奇妙なメモの束に、僕はただ圧倒されてしまった。

 「絵の中に描いていたのも、ここに書いたメモの一部です。どんどんメモ帳に大切な言葉が溜まっていったときに、アウトプット先が見当たらなくなってしまったんです。だから、即興で短歌を詠むこともやっていたし、最近ではアウトプットの一環として、お笑いの舞台にも立っています」。

 そう考えると、C孛にとって、絵画や音楽、パフォーマンス、短歌、お笑いなどのあらゆる表現行為は、脳内にとめどなく入り込んでくる情報の渦を外界へ吐き出すための手段であり、創作するということは自身を正気に保っておくための術なのだろう。ノイズミュージックに傾倒するようになってからは、キャラクターの登場しない、より抽象化した絵画を描くようになるなど、その表現は柔軟に変化を続けている。音楽ライブでは両親の位牌とともにパフォーマンスを行うこともあり、C孛自身が、あの世とこの世を浮遊しているかのようだ。

 彼にとって、先行き不透明なこの世界をサヴァイブしていくことは、多くの困難さを伴うだろうが、ときにはキメラ的にその形態を変化させ、紙の上を滑るペンのように、即興的にすり抜けていく予感を僕は感じている。そして流動体のように、彼の表現も変わり続けていくのだろう。