櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:追悼、本田照男

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第85回は本田照男さんへの追悼文をお送りする。

文=櫛野展正

本田照男さん
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 本連載で追悼記事を書くのは何人目になるだろう。2021年より、人生の後年になって制作を始めた高齢者の独創的な芸術表現を「超老芸術(ちょうろうげいじゅつ)」と名付け、これまで多くの表現者を発掘・紹介してきた。必然的に取材対象が高齢者である以上、別れは避けられないが、22年(第53回)で紹介した静岡県沼津市の本田照男さんが、25年4月15日に逝去された。

 本田さんは22年の連載で紹介後、NHK Eテレの「no art, no life」で取り上げられるなど全国的に知られるようになった。静岡県内の美術館やギャラリーで毎月のように展覧会を開催し、23年からは沼津市庄司美術館主催の「ぬまづスクールミュージアム」で、小学校での展覧会やワークショップに協力。子供たちに絵の楽しさを伝え、地域社会とも積極的に関わっていた。

 1946年生まれの本田さんは、波乱に満ちた人生を歩んできた。父親の出自による就職差別、50代後半の離婚、66歳での弟の急逝、01年の狂牛病騒動や12年の医薬業界の規制強化による客離れを背景に、13年には営んでいた「焼肉ペテコ 本田苑」を閉店した。幾多の喪失を経験したが、60歳の夜、バッハの《マタイ受難曲》を聴きながら自動筆記で描いた絵が知人に称賛されたことをきっかけに、絵画制作を中心とした生活を送るようになった。

制作中の本田さん

 閉店した焼肉店の店内で、本田さんは画材や作品に囲まれ、国民年金とわずかな家賃収入で質素に暮らしながら、絵を描くことで心の平穏を保っていた。展覧会に出展すれば、額装などの準備で赤字になることもあった。それでも焼肉店時代の生活リズムで昼頃に起き、仮眠を挟みながら一日中描き続け、年に1〜2回、ピカソやベートーヴェンとの「対話」を感じる瞬間が生きる喜びだったと語っていた。そんな本田さんは、孤独と向き合う心情をこう述べていた。

「出自の関係で、これまで相手の顔色をうかがってきた人間ですから、描くことで自分を素の状態に戻すことができるんです。絵を描くことは孤独との闘いでありまして、絵のことについてぶつかりますといまの生活やこれから先どんなふうにして死んでいくのが良いのかなと考えまして、確認する毎日なんです。時々、孤独感に襲われて目の前の川に飛び込んで死んじまいたいと思うこともありますけれども、小さな絵を描くことで喜びが湧き上がってまいりまして、何かの形で自分が生きてきた証を残しておきたいなと思っています。波乱の人生でありましたので、波乱の人生がこういう絵を生んだとするならば、波乱の人生であったからこそ、豊かな感性をいただいたのかなと思いました。日々感謝であります」。

 この「感謝であります」という本田さんの口癖は、僕にはスウェーデンの社会学者ラーシュ・トーンスタムが提唱する「老年的超越」を体現しているように思えた。つまり、本田さんは自己や命が過去から未来への大きな流れの一部であるという宇宙的意識を感じることで、不幸な感情が薄れ、感謝の気持ちが高まっていったのではないか。

本田さんの作品

 マーカーペン、ボールペン、油絵具、チョークなど多様な画材を用い、画用紙、キャンバス、さらには靴にまで描いた作品は、その多くが鮮やかな色彩で、故郷である西伊豆の山河などを表現していた。離婚した妻の死を知ったクリスマスの夜、妻の肖像画の上に丸・三角・四角を組み合わせた鮮やかな抽象画を描くなど、本田さんは苦難を直接的に描かず、西伊豆の原風景を鮮やかに表現することで楽しい記憶を呼び起こし、セルフケアを通じて自己救済を行っていた。まさに「描かずにはいられない」という情熱で、波乱に満ちた人生を肯定し、生きる証を刻んだ人だった。

制作中の本田さん

 印象深いのは、亡くなる直前まで本田さんと続けていたアーツカウンシルしずおかのモデルプログラム「高齢者施設における超老芸術作品を通じた対話型鑑賞と絵画制作ワークショップ」だ。超老芸術を展覧会やメディアで紹介するだけでなく、実際に活用するため、静岡県内の3つの高齢者施設で、今年1月から2月にかけて本田さんの作品を使った対話型鑑賞と絵画制作ワークショップを実施した。本田さんは事前に施設への下見を繰り返し、当日は誰よりも早く会場に到着して高齢者と談笑するなど、皆さんの輪に自然に入り込んでいた。

 対話型鑑賞では、本田さんの絵画を目にした高齢者が若い頃の富士山登山の記憶を語るなど、眠っていた長期記憶を呼び起こす効果があった。本田さんによるワークショップでは、「どんな絵を描いたらいいか」と戸惑う高齢者に対し、「丸・三角・四角を繰り返せば誰でも絵が描ける」と繰り返し伝えていた。同じ机で本田さんが丸・三角・四角を描く姿が、参加者にとって大きな創作の助けになったようだ。普段コミュニケーションが難しい高齢者が熱心に描く姿に、施設スタッフも驚きの声を上げていた。一般的な介護現場では、高齢者の自尊心を保つためスタッフが作品の完成をサポートすることが多いが、このワークショップでは高齢者が自由に描く機会を提供できた。

「高齢者施設における超老芸術作品を通じた対話型鑑賞と絵画制作ワークショップ」での本田さん

 さらに、本田さんは絵を描くだけでなく、「どの向きがあなたの心にしっくりきますか」と高齢者一人ひとりに絵の向きを問いかけ、完成後には自分のサインを残すよう促していた。

 「僕たちが幸せに天国へ行ったあとも、絵は残るんです。この絵を飾っていたら、家族がきっと思い出してくれます。できたら、次も描いてください。そして次の日も。どんどん自分の作品が溜まってきたら、毎日気持ちが明るくなるはずです」。

 本田さんは、僕が想像していたよりもずっと真摯にアートのことを考えていた。一緒に絵を描く高齢者を単なるワークショップの参加者として扱うことなく、ひとりの表現者として尊重し、作品を残すことの意義を伝えていた。それは、絵を描く行為が人生を豊かにする営みだと身をもって知っていたからだろう。

 その波乱の人生の物語性や、強迫的とも言える情熱で作品制作に没頭する姿、膨大な作品数など、本田さんこそが「超老芸術」を体現する存在だった。しかし、それはある種のステレオタイプ化した考えであり、僕らが理想像を当てはめているだけかもしれない。本田さんは確かに孤独な時間を多く過ごしたかもしれないが、展覧会場での彼の姿を見れば、決して孤立していなかったことがわかる。いつも人が集まり、ときには「先生」と呼ばれ、どんな小さなグループ展でも声をかけられれば参加していた。自宅兼アトリエにも絶えず人が出入りし、前日朝に洗面所で倒れた際も第一発見者は親しい知人だったという。本田さんがどれだけ愛されていたかがわかる。彼は、孤独な芸術家というイメージとは裏腹に、コミュニティの中で愛され、必要とされる存在だった。

本田さんの作品

 本田さんの活動は、「超老芸術」の可能性を大きく広げた。高齢者が創作を通じて自己を表現することは、たんなる趣味や時間の潰し方を超え、人生の意味を再発見し、社会とのつながりを再構築する力を持っている。本田さんがワークショップで高齢者に教えたのは、絵の技術だけではなかった。彼は、参加者に「自分の人生の物語を大切にすること」を伝えていた。創作は単なる表現行為ではなく、人生を肯定する力になり得るのだ。

 今年3月より公開された阪元裕吾監督の新作映画「ネムルバカ」では、劇中の主要場面で作品提供にも協力していただいた。「映画館へ観に行ってくださいね」というのが、僕が本田さんと交わした最後の言葉だった。公開を心待ちにしていた本田さんは、ちゃんと劇場まで足を運んでくれたと、亡くなった後に耳にした。「感謝であります、ありがとうございました」と彼の絵を眺めていると、いまにも彼の言葉が聞こえてくるようだ。