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2025.11.20

山下裕二に聞く。日本美術を「ひらく」ということ──若冲展から25年、そしてこれから

2000年、京都国立博物館で開催された「特別展覧会 没後200年 若冲展」が9万人を動員した。それは日本美術が「専門家の世界」から「誰もが楽しめる文化」へと変わる決定的な瞬間だった。あれから25年──展覧会の企画、著作、メディア出演を通して日本美術を社会に“ひらいて”きた美術史家・山下裕二に、教え子でキュレーターの小金沢智が、この四半世紀の変化とこれからを聞いた。

聞き手=小金沢智(キュレーター、東北芸術工科大学准教授) 

都内の仕事場にて 撮影=手塚なつめ
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若冲展が変えた“空気”

──2000年の「特別展覧会 没後200年 若冲展」から四半世紀が経ちました。企画・監修は、当時京都国立博物館研究員の狩野博幸先生です。あらためて、あの展覧会をどのように振り返りますか。

 2000年というのは、僕にとってまさに“爆発”の年でした。伊藤若冲展があり、『岡本太郎宣言』(平凡社)、『室町絵画の残像』(中央公論美術出版)、そして赤瀬川原平さんとの共著『日本美術応援団』(日経BP/2004年、ちくま文庫)と、3冊の本をほぼ同時に出している。42歳のときで、いま思えばアドレナリンが出っぱなし(笑)。僕自身はもともと室町絵画の専門家なので、若冲は本来の専門ではないのですが、その後の日本美術の状況を考えるときこの展覧会は象徴的なものでした。

「特別展覧会 没後200年 若冲展」の入り口 写真提供=京都国立博物館

──展覧会の動員は9万人。いまなら不思議なことではありませんが、当時としては破格の数字でした。

 予想を大きく上回る数字でしたね。しかも若い人が本当に多かった。カップルや学生が「これ、すごいね」と言いながら作品の前で話している。あの光景はいまでも目に焼き付いています。日本美術の見られ方が、あのとき確実に変わった。

──当時はブログなどのインターネット文化が広がりはじめた頃でもありますね。日本美術の評価史をめぐって著された『日本美術の二〇世紀』(晶文社、2003年)でも、そのことを指摘されていらっしゃいます。

 そうなんです。ブログや掲示板がようやく一般化し始めた時期です。展覧会を見た人たちが「若冲すごい」「こんな画家がいたのか」とネット上で語りはじめて、口コミがどんどん広がった。日本美術が“共有される文化”になった最初の瞬間だったと思います。

──これもいまでは想像しにくいですが、90年代の終わりまでは、日本美術は一般的にあまり注目されていなかったと聞きます。山下先生の先生でもある辻惟雄先生の『奇想の系譜』(美術出版社、1970年)は、伊藤若冲をはじめとする江戸時代の当時は異色の画家たちをまとめられた画期的な著作でしたが、2004年に文庫化(ちくま学芸文庫)されるまで、長く絶版の状況が続いていました。

 そうですね。90年代は西洋美術全盛期。美術館もモネ、ゴッホ、ピカソばかり。僕が日本美術の研究をしていると言うと、「地味ですね」なんて言われる(笑)。でも僕は、日本美術にはまだ見せ方の余地があると思っていた。専門家だけがわかるものじゃなく、一般の人が触れて楽しめる文化になるはずだと。

──昨年、山下先生が刊行された『日本美術をひらく 山下裕二論考集成』(小学館、2024年)では、「はじめに 二十一世紀の日本美術応援団」で、「私は『美術評論家』ではない。『評論』などしているつもりは毛頭ない。日本美術応援団団長として、この四半世紀の間、古美術も現代美術も、絵画も彫刻も工芸も、写真もマンガも、私が素晴らしいと思うものを、一般の人がいまだ知らない作品や作家を『応援』してきた」(pp.7-8)と書かれています。「美術をひらく」という姿勢は、その頃から意識していましたか?

 明確にそうでした。大学の講義や論文はもちろん大切だけど、それだけじゃ広がらない。だから赤瀬川原平さんと「日本美術応援団」を始めた。応援団って、そもそも“内輪の盛り上がり”じゃなくて、“誰かに声をかける”ための存在でしょ? そういう意味を込めていました。閉じた世界をこじ開けたいという気持ちでね。

『日本美術をひらく 山下裕二論考集成』(小学館、2024) 撮影=手塚なつめ

日本美術を「ひらく」実践

──ご自身の転機はいつだったのでしょう。

 30代後半ですね。それまでは完全に論文中心の人間でした。でもある日、ふと「俺の書いているものは、誰も読んでいない」と思って(笑)。それで、もっと直接的に伝えたいと考え始めた。岡本太郎の本を読んで、「瞬間瞬間に爆発して生きろ」という言葉に雷を打たれたんです。太郎さんは美術を“行動”だと考えていた。赤瀬川原平さんと出会ったのも1996年の頃。僕も“行動する美術史家”になろうと思いました。

転機は岡本太郎だった 撮影=手塚なつめ

──メディアとの出会いもその延長線上にあったのでしょうか? 赤瀬川さんとの出会いは、今はなき美術雑誌の『日経アート』(1999年休刊)だったとお聞きしました。

 そう。日本美術応援団が結成されたのは『日経アート』誌上のことで、その連載をまとめた単行本『日本美術応援団』の表紙で学ランを着たんですよ。あの写真を見た『カーサブルータス』の編集者が「この人面白い」と声をかけてくれて、そこから雑誌の仕事が一気に増えた。当時は『ブルータス』『和樂』『サライ』などが次々に日本美術特集を組んでくれて、まさに“メディアが美術を動かす時代”でした。

『日本美術応援団』(筑摩書房、2004) 写真提供=筑摩書房

──学問の場からメディアの場へ。抵抗はありませんでしたか?

 全然(笑)。学会にいても変化は起きない。むしろ外に出て、いろんな人と関わることで見えるものがある。編集者と一緒に展覧会のタイトルを考えたり、コピーを練ったり。そういう仕事の中に、文化を動かす手応えがありました。

──国立美術館、国立博物館が2001年に独立行政法人化し、多くの美術館・博物館で収益化が求められるようになりました。つまり、多くの人に「ひらく」という姿勢が美術館・博物館に求められるようになったのが2000年代以降なのかと思います。そういった大きな時代の変化のなかで、象徴的な仕事のひとつに、「超絶技巧」展があります。

 あれは自分でも驚くほどの反響でした。明治工芸の再評価をしたかったけれど、「明治工芸展」と書いても誰も来てくれない(笑)。それで思い切って「超絶技巧」と名づけたら、メディアが一斉に取り上げてくれた。最初の三井記念美術館の展覧会(「超絶技巧!明治工芸の粋」展、2014年)は8万人。翌年には地方巡回も決まった。キャッチコピーの力を痛感しました。

 作品の価値は変わらないのに、言葉を変えるだけで受け取られ方もまったく変わる。僕は、美術史家もコピーライターであるべきだと思っています。キャッチフレーズで人の興味を惹き、そこから深い世界に導く。それが「ひらく」ということでもある。

山下が監修を務めた特別展「超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA」(2023、三井記念美術館、東京)の展示風景より、吉田泰一郎《夜霧の犬》(2020)

──展示の細部にも、そうした姿勢が表れています。今年監修された大阪中之島美術館での「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」でも、キャプションが印象的でした。

 1行目が大切で、キャプションひとつでも観客と会話できるんです。例えば、長谷川巴龍の《洛中洛外図屏風》に「史上最もヘタな洛中洛外図屏風」とかね。ちょっと笑いを交えると、見る人が立ち止まる。現在、静嘉堂文庫美術館館長を務められている安村敏信さんが板橋区立美術館にいらっしゃった頃、そういった仕事をいち早くされていたんですね。彼は本当に、観客と同じ目線で美術を伝える人です。

長谷川巴龍 洛中洛外図屏風 江戸時代

──“観客と話す”展示。まさに美術をひらく実践ですね。

 そう。専門的な解説だけじゃなくて、「見てみよう」「考えてみよう」という呼びかけをすることが大事。そこから興味が広がっていく。

──2000年代から日本美術を扱う展覧会が一気に増えました。

 そうですね。若冲ブーム以降、「琳派」や「浮世絵」「仏像」など、テーマが次々と広がった。観客の層も変わりました。昔は年配の男性中心だったけど、いまは20代、30代の女性も多い。SNSで情報を共有しながら美術を楽しむ文化ができた。時代の空気が変わっていったんです。だけど、その波を感じ取って、いち早く“言葉”にできたのは幸運でした。

美術史家は“裏方”でいい

──活動のなかには、知られざる作家や見過ごされてきた分野を掘り起こす姿勢が一貫しています。

 僕は、美術史家は“裏方”でいいと思っています。発掘して、見せる場をつくる。その先で作品が自立してくれればいい。例えば村上隆や奈良美智のように、世界のアートシーンで活躍する作家がいるいっぽうで、素晴らしい仕事をしているのに評価されないまま消えていく人もいる。例えば石田徹也は生前無名でしたが、現在はガゴシアンで個展が開催されるなど、世界的に知られる作家になりました。「発見の回路」をもう一度つくることが、僕の仕事だと思っています。ギャップがあるだけ仕事になって、応援のしがいがあるんです。

──それは明治工芸の再評価にも通じますね。

 まさに同じ構造です。清水三年坂美術館館長だった村田理如さんが、海外で散逸した明治工芸を買い戻していた。僕はそのコレクションを見せるための展覧会をプロデュースする。彼の情熱はすごかったですよ。作品を「逆輸入品」ではなく「文化遺産」として見せたいと本気で考えていた。彼が亡くなってしまったのは残念だけど、あの熱量は絶対に忘れません。

──先生の言葉を聞いていると、“学者”というより“プロデューサー”のようですね。

 そうかもしれない(笑)。僕は自分のことを「展示の編集者」だと思っていますから。展覧会は本づくりと同じで、構成・文脈・見せ場の流れが大事です。明治工芸展でも、まず“驚かせる作品”を入り口に置いて、次に“技術の解説”、最後に“作家の想い”。そういうドラマがある展示にしたかった。人は展示を通して“物語”を見たいんですよ。学問的に正しい順序じゃなくても、感情が動く構成をつくる。そうすると、観客が「自分の言葉」で作品を語れるようになる。僕はそれを一番大事にしています。提案するのが仕事なんです。

“自分は「展示の編集者」” 撮影=手塚なつめ

──そのいっぽうで、“見ることを教える”教育者でもあります。

 教えるというより、いっしょに見るんです。僕のゼミでは、美術館で立ちっぱなしで3時間見るなんて当たり前。画像で済ませる学生が多いけど、現物を見ると全然違いますから。光の反射や筆の呼吸、サイズ感──それを体感しないと何も始まらない。美術史は“現物の学問”です。資料を読むのはあとでいい。まず見て、感じる。感じたことを言葉にする。そこから学問が始まるのです。

──まさに“ひらく”教育。

 大学という場所は本来、閉じた世界なんですよ。でも僕は、寺子屋のつもりでやってきた。学部長もやらないし、会議にも出ない(笑)。学生一人ひとりの“見る力”を育てたいだけ。ゼミでは「好きな作品を選んで語れ」と言う。正解は求めない。大事なのは、見ることから逃げないことです。

 僕は広島県呉市生まれで、大学に入学するまで行ったことがある美術館は広島県立美術館くらい。でも、小学6年生のとき『週刊少年マガジン』の表紙を通して横尾忠則さんを知り、高校2年生のときつげ義春さんのマンガに出会い、なんの知識もなく、すごいと思った。赤瀬川さんのご自宅で僕が初めて出会ったとき、共通の話題として盛り上がったのもつげさんのマンガでした。わかる・わからないじゃない。すごいと思うかどうかなんです。

山下が所蔵する、横尾忠則の表紙構成による1970年の『週刊少年マガジン』 撮影=手塚なつめ

──先生の活動は、アカデミズム・メディア・教育と多層的です。ご自身では、何を軸にしていると感じますか。

 軸はシンプルです。「見せる」と「伝える」。この2つだけ。論文も展覧会も授業も、最終的には“見せ方”の問題に帰着する。どんなにいい作品でも、見せ方が悪いと届かない。逆に、見せ方次第で世界が変わる。僕は“キャッチコピーの人”と呼ばれることもあるけど、コピーは軽くないんです。言葉の端に思想がある。例えば「超絶技巧」はたんなる宣伝文句じゃない。あの言葉には、「職人技こそ芸術だ」という思想が込められている。近代以降の美術史が軽視してきた“技”へのリスペクト。それをタイトルで可視化したかったんです。

──たしかに、“技巧”という言葉には長く偏見がありました。

 そう。美術教育では「技は古い、コンセプトが新しい」という風潮が強かった。でも日本美術の本質は、技と精神が融合していること。だから僕は「超絶技巧」という言葉で、それをもう一度引き戻したかった。

──こうして話を聞いていると、先生の“ひらく”という思想は、展示や教育だけでなく、美術史そのものを再構成する試みのように思えます。

 そうかもしれません。僕は、日本美術史を「過去の記録」ではなく「現在進行形のドラマ」として見たい。例えば若冲の展覧会をやると、彼が生きた18世紀の京都と、21世紀の私たちがつながる瞬間がある。それが面白いんです。学問的な距離をとるよりも、「いまここで何を感じるか」を軸に語る。そこに“ひらかれた美術史”の可能性があると思います。

山下が監修を務めた開館20周年特別展「円山応挙―革新者から巨匠へ」(2025、三井記念美術館、東京)より、《遊虎図襖(東面)》(1787、部分)

“ひらく”ことは風を通すこと

──「日本美術の鉱脈展」では、若冲もかつては「知られざる鉱脈」のひとりだったとおっしゃって、山下先生がこれまで注目されてきた古美術から現在の作家までを取り上げています。もっとも古いものでは大学院生の頃までさかのぼって数十年分の論考をまとめられた『日本美術をひらく』も刊行されて、近年のお仕事は集大成のような趣があります。

 最近は“もう整理しなきゃ”という気持ちが出てきました(笑)。60代も半ばになって、そろそろ荷物を減らさないといけない。でも、「終活」と言っても、僕の場合はネガティブな意味じゃない。むしろ次の世代に何を残せるか、という前向きな整理なんです。

──大学はまもなく退任されるとか。

 はい。2026年度で大学教師の仕事は一区切りです。明治学院大学に勤めて30年以上。長かったですよ。でも僕は“組織人”ではないから(笑)。

──山下ゼミからは、多くの学芸員や研究者が巣立っています。

 ええ。いまの美術館の学芸員や研究者のなかには、僕の教え子も多い。みんな優秀で、自分の領域を切り開いている。僕は彼らに、「正解を探すな」と言い続けてきた。美術には正解なんてない。見る人の数だけ答えがあるんだから。

──それは先生ご自身の姿勢とも重なりますね。

 そう。僕は、絵を見るたびに“裏切られたい”んです。自分の予想を超えるものに出会いたい。だから、展覧会をつくるときも、授業をするときも、つねに“未知”を仕込むようにしている。自分が驚けない展示なんて、観客も驚かないですよ。

──25年前、若冲展が“日本美術を社会にひらいた”と言われました。改めて、その後の四半世紀で、風景はどう変わりましたか。

いやもう、劇的ですよ。若いころは、東京国立博物館の常設展に行っても、本当に誰もいなかった。守衛さんが鍵を閉める時間まで、僕ひとりで雪舟を見てたくらい(笑)。それがいまや、週末になると人でいっぱい。日本美術の展覧会が行列をつくる時代になるなんて、夢にも思わなかった。その一翼を担ってきた自負はあります。

左上から、山下裕二『日本美術をひらく 山下裕二論考集成』(小学館、2024)、山下裕二『日本美術の二〇世紀』(晶文社、2003)、『日本美術の鉱脈 未来の国宝を探せ!』図録(大阪中之島美術館ほか、2025)、『特別展覧会 没後200年 若冲』図録(京都国立博物館、2000) 撮影=手塚なつめ

──観客の層も変化しました。

 ブログやSNSで情報を共有し、自分の言葉で作品を語る人たちが増えたのは大きい。昔は「専門家が語り、一般の人が聞く」構図だったのが、いまは完全に逆転している。僕はそれを“民主化”だと思っています。専門家が上から目線で語る時代はもう終わり。これからは“みんなで語る美術史”。僕も、その風の中で生きていきたい。

──先生の言葉には“風”という比喩が出てきます。最後に、「日本美術をひらく」という言葉をどう捉えているのかお聞かせください。

 “ひらく”というのは、扉を開けることじゃなくて、風を通すことなんですよ。閉じた部屋に風を通すと、空気が入れ替わって、新しいものが生まれる。日本美術も同じ。専門家だけのものにしてはいけない。風を入れることで、思いもよらない出会いや発見が生まれる。

 もうひとつ言うなら、“伝えるバトンを手渡す”ことかもしれません。僕が開けた窓から入った風が、次の世代を動かす。そうなればもう十分。

──その風は確実に広がっていると思います。

 そう信じたいですね。未来像なんて描かなくていい。瞬間瞬間を爆発して生きるだけ。それが太郎さんの教えであり、僕のやり方でもある。日本美術はこれからも変わり続ける。閉じないこと、怖がらないこと。それが“ひらく”ということなんです。