多田美波を知るための5つのキーワード

東京・清澄白河の東京都現代美術館で、戦後日本において抽象彫刻家・造形作家として活動した多田美波(1924〜2014)の大規模回顧展「多田美波—光、凛と ゆれる」(8月29日〜12月6日)が開催されている。彫刻、照明設計、建築空間における造形、プロダクト・デザインなど幅広い分野で活躍した多田は、生涯で200点を超える彫刻と、500点以上に及ぶ建築関連作品を手がけた。本稿では、多田美波の作品世界を知るための5つのキーワードを挙げ、東京国立近代美術館研究員の佐原しおりに解説してもらった。 ※9月20日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=佐原しおり

《Phase-Space 6943》(1969)アクリル、アルミニウム蒸着メッキ、鉄、モーター 神奈川県立近代美術館 撮影:編集部
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KEYWORD 1:画家としての多田美波
──絵画作品に光を当てる

 彫刻、照明設計、建築空間における造形、プロダクト・デザインなど幅広い分野で活躍した多田美波の肩書きを、一語で表すことは難しい。「小さい時から人が今まで全然やってない、私にしかできないことをやってみたいっていうのが私の信条」(*1)と多田自身が語るように、その仕事は「彫刻家」あるいは「デザイナー」といった一般的な括りには収まり切らない。東京都現代美術館での個展「多田美波―光、凛と ゆれる」は、多田のこうした領域横断性を捉えた展覧会である。

左から、《変電所》(1958)キャンバスに油彩 80.1×99.7cm 東京国立近代美術館、《変電所L》(1957)板に油彩 183.5×91.5cm、《(題不詳)》(制作年不詳)キャンバスに油彩 90.3×99.5cm 撮影:編集部

 1924年、多田美波は鉱山技師の父と、女子美術専門学校(現・女子美術大学)出身の母のもとに生まれた。技師であった父は、当時日本の植民地下にあった京城(現・ソウル)に赴任しており、多田は幼少期から終戦までの大半の期間を大陸で過ごしている。41年には母と同じ女子美術専門学校に進学し、50年代から変電所や鉄塔のモチーフを繰り返し描いた。

 じつは多田の生前の個展や作品集では、当時の絵画作品は公表されてこなかった。概ね60年前後の立体作品が、多田の作家活動のスタート地点とされてきたのである。初期の絵画実践を紹介する展覧会冒頭のコーナーは、一般的にイメージされる「多田美波」以前の姿を明らかにしている。

《炭鉱》1957 板に油彩 85.5×183.0cm 東京国立近代美術館

 出品作の《炭鉱》(1957、東京国立近代美術館蔵)は、多田が日本炭鉱労働組合の炭労会館のために制作したレリーフの下絵である。多田は次のような言葉を残している。

私はこの作品を、本当に精魂込めて作りました。これを作るために、炭鉱にもぐり、出来るだけそこで働く人の気持ちを感じたいとおもいました。(*2)

 本作の動機を踏まえたうえで、同時代の日本の絵画表現に目を移してみると、労働や闘争の現場を描出して社会に問題提起したルポルタージュ絵画運動との共通点を見出すことも可能だろう。例えば尾藤豊の《変電所》(1954、板橋区立美術館蔵)にも、高度経済成長期を支えた労働者への賛美をみることができる。

 他方で、鉄塔の構造によって生まれる視覚的なリズムや、直線や円の構成によって示される坑道の奥行きからは、工業的な機能美に魅了される多田のまなざしが浮かび上がる。多田美波という作家の核は、すでにできあがっていたのである。

KEYWORD 2:新しい工業的素材との出会い
──素材と格闘し、自分のものにする

 1950〜60年代にかけて制作された絵画や彫刻は、多田がキャリアの初期から高いテクニックを身に着けていたことを物語っている。しかし、美術教育の過程で習得したアカデミックな技術は、自由な表現を求める多田にとって足かせとなり始めていた。従来の技法や素材の制約から解き放たれるかのように、多田は同時代の工業的な素材に活路を見出していく。ここでは初期の彫刻作品における素材のあり方に注目したい。

 最初は鉄とプラスチックを併用した構成的な作品や、ブロンズによる抽象彫刻を発表していたが、途中からアルミニウムという素材を「発見」する。戦時下には軍需産業を支える素材として開発生産が進んだアルミニウムは、高度経済成長期の日本では、住宅におけるアルミサッシの普及などによって身近な素材となっていた。

《周波数373055MC》(1963)アルミニウム 200×300×50cm 撮影:編集部

  多田は1963年に国立近代美術館で開催された「彫刻の新世代」展の出品作家に選ばれ、アルミニウムによる「周波数」のシリーズを発表している。当時同館に勤務していた三木多聞は作品搬入の様子を次のように振り返る。

作品を借用集荷するのに当時は無蓋のトラックを使っていたが、交差点で一時停止していると、並んで走っていたトラックの運転手が、「何か事故があったんですか」と声をかける一幕もあった。事故の破片とでも思ったのだろう。(*3)

 先端的な美術作品がゴミと間違えられるというジョークは、もはや半世紀以上の歴史をもっているが、三木のこのエピソードはたんなる笑い話ではなく、多田の探求の本質を突いたもののように思われる。

 多田はつねに新しい素材と向き合う作家であり、その試行錯誤はしばしば「格闘」と例えられた。多田にとって素材は造形のために使役される受動的な対象ではなく、その特性と加工方法を探求する未知の相手であったのだ。時には失敗のなかから素材の特性を見出すこともあったという(*4)。

 多田が叩いて加工した《周波数373055MC》の形態は、アルミ板という素材の成り行きに委ねられており、非常に軽く、加工性が高いアルミニウムの特性が露になっている。だからこそ、トラックの運転手はこれらを作品ではなく、機能を失って素材と化した金属片として認識したのだろう。あらかじめ作品のフォルムを規定せずに、素材との対話のなかから表現を立ち上げるあり方は、その後の多田の仕事にも引き継がれていく。

KEYWORD 3:「個」の造形を追い求めて
──プロフェッショナルたちとの妥協なき交渉

 アクリル樹脂、ガラス、ステンレス、チタン、陶板など、作品に用いられる素材は多岐にわたる。多田は早い段階からメーカーや工場に出向いて、素材の特性や加工技術に関する専門知識を得ると同時に、各所での信頼関係を築いていった。野外彫刻や照明、建築空間のなかの造形の制作にあたっては、目的や納期、予算など様々な制約が付きまとう。

《オートシンクローネ》(1973/2026)アクリル(一部) サイズ可変 撮影:編集部

 さらに、理想のフォルムを実現するためには素材の入手だけではなく、切断、加工、組み立て、運搬、設置を行う各分野のプロフェッショナルを巻き込む必要があった。公的機関からの依頼も多かった多田にとって、これらの仕事は個人の作家活動という域を超えた「プロジェクト」の連続だった。1962年、38歳のときに多田美波研究所を設立し、スタッフやアルバイトらとともに数々の作品を生み出していく。

 アクリルの表面にアルミニウムをメッキ加工した鏡面や、ステンレスの湾曲、なめらかで無駄のないフォルムは、静謐ながらも、完全無欠な存在感を放っている。その美しさとは裏腹に、これらを実現するために、多田が分野や立場を越えた人々と重ねてきた様々な交渉は、いわゆる「協働」といった友愛的な理念に必ずしも収まるものではなく、むしろ戦いの連続であったのではないだろうか。

《光造形》(1968)ガラス、金属 皇居・新宮殿 撮影:野堀成美

 プロジェクト型の仕事における意思決定や判断について問われた多田は、「どうしても個人の意思というのは貫きたいほうですから、そのためには、やはり協同して制作してくれる人を選ぶことがまず仕事の中の大事な要素になってくるんです」「私の個の制作意図に反するというときは三回でも四回でもつくり直すとかいう場合もあります」(*5)と語っている。

 皇居の新宮殿や帝国ホテルのような空間から、高層ビル、個人宅まで、幅広い施主を相手に仕事をしてきた多田が、膨大な関係者を交えながらも造形の一貫性を保つためには、このような作家本人の強い意志が必要だったのだろう。

*1──多田美波、若桑みどり「女流画家の系譜 永遠の相のもとに」『創文』 1984年10月、11頁。
*2──多田美波、正木基「建築・美術・炭鉱-炭労会館の作品『炭鉱』」『‘文化'資源としての〈炭鉱〉展:〈ヤマ〉の美術・写真・グラフィック・映画』図録、目黒区立美術館、2009、238頁。
*3──三木多聞「多田美波さんの彫刻」『多田美波』平凡社、1990、170頁。 
*4──多田美波、山口勝弘「対談 現代と芸術〈3〉素材」『モードエモード』1970年1月、126頁。
*5──多田美波、三善晃「三善晃対談シリーズ⑤ 現代の芸術視座 空間に対峙する光の造形」『音楽芸術』1988年5月、69〜70頁。

KEYWORD 4:「女性」であるということ
──美術分野におけるジェンダーギャップ

 近年、性差別やジェンダーギャップの是正に向けた世界的な動きが活発化するなかで、日本の美術分野においても、男性偏向の美術史の見直しや、女性の作家の再評価が進んでいる。多田の世代の女性にとっては社会でキャリアを築くよりも、家庭に入ることが一般的であった。30代から大規模な作品を実現し、名だたる賞の数々を受賞した多田には様々な評価が寄せられた(*6)。

 多田の作品や制作態度は、しばしば「女性とは思えない」という視点から評価された。詩人で評論家の大岡信による「多田美波が『女流』という限定語をつけて語る必要のまったくない数少ない芸術家の一人である」(*7)という言葉が逆説的に示すように、当時の社会における女性の立場は今日以上に弱く、女性の作家へのまなざしは差別的であった。多田自身、男性たちに「(多田美波に)あんな作品作れるはずない。男がついて作っている」(*8)と噂された思い出を振り返っている。

光造形《瑞雲》(1973)クリスタルガラス、ボールチェーン リーガロイヤルホテル大阪 ヴィニェット コレクション 撮影:作本邦治

 多田がともに仕事をした建築家や技術者、美術評論家のほとんどが男性であった。以前、筆者は多田美波研究所にうかがった際、多田が現場で苦労をしたり、不平等な評価のあり方に悩んだりすることもあったのではないかと質問したことがある。70年代より同研究所に入り、長年多田を支えてきた所長の岩本八千代氏は、晩年まで膨大なプロジェクトを抱えていた多田は自分のことに夢中で、そんなことを気にする暇もなかったのではないかと、微笑みながら答えられた(*9)。

 あらゆる試練を乗り越えて新しい道を切り拓いてきた多田の実践は、他の追随を許さない広がりをもつものである。巨大な野外彫刻の曲面をミリ単位で決めていく態度は、多田の理想の厳密さを物語っているが、いっぽうで、初期のシリーズ「周波数」のタイトルからはチャーミングで大胆な人柄がのぞく。タイトルの冒頭につく「3730」は、じつは「373(ミナミ)」「0(タダ)」を意味している。女でも男でもなく、軽やかに領域を跨いで活躍する「多田美波」という存在が当初から予見されていたかのようである。

KEYWORD 5:わたしたちの「多田美波」
──作品保存に向けた取り組み

 野外彫刻や公共空間のなかの造形に取り組んできた多田の真髄は、人々が行き交う街のなかにある。多田の活動の全貌を展示室のなかで見せることは非常に難しいのだが、本展においては建築空間における代表的な造形のパーツの展示や、《チェーンデリア》(1963)、《瑞雲》(1973)などの光の造形の再構成によって、その魅力が紹介されている。全国各地の作品のスライドショーや、《スペース》(2009)の屋外展示も、展覧会の見どころのひとつである。

光造形《瑞雲》(1973/2026)クリスタルガラス、ボールチェーン リーガロイヤルホテル大阪ヴィニェットコレクション設置作品の再制作 撮影:編集部

 素材への飽くなき探求心によって生み出された作品は、いまでも数多く現存している。たまたま通りかかったビルや、地元の公共施設、あるいは、ふと訪れた旅先のどこかで多田の造形に出会うことができるだろう。

 展覧会の後半の「作品をケアし、残すこと」というパネルで言及されているように、作品が設置されている施設の老朽化や、素材の劣化などによって、残念ながら一部の作品はすでに失われている。作品を長期的に保存していくためには、定期的なコンディション・チェックやメンテナンスを行うことが望ましいのだが、それらを管理する団体には専門的なスタッフや、メンテナンスのための予算が伴わないケースもあり、今後の課題は多い。多田美波の魅力を伝える本展によって、各地に存在する多田の作品に関心をもつ人がひとりでも増えることを願っている。

*6──由本みどり「多田美波の進化-美術史的観点から」『多田美波-光、凛と ゆれる』図録、torch press、2026、151頁。
*7──大岡信「多田美波の創作原理」『多田美波』平凡社、1990、164頁。
*8──註1に同じ、10頁(括弧内筆者)。
*9──筆者の聞き取りによる(2024年2月16日)。