2026.2.7

「向井山朋子 Act of Fire」(アーツ前橋)レポート。地下劇場を歩き、暗闇に眠る記憶を見つめる

アーツ前橋で「向井山朋子 Act of Fire」が開催されている。会期は3月22日まで。

文=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部) 写真提供=アーツ前橋(撮影=木暮伸也)

展示風景より、《KOKOKARA》(2025)
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 アーツ前橋で、ピアニスト・美術家として国際的に活躍する向井山朋子(1963〜)の個展「向井山朋子 Act of Fire」が開幕した。会期は3月22日まで。キュレーションを務めたのは同館チーフキュレーターの宮本武典。

 オランダ・アムステルダムを拠点とする向井山は、ピアノ、映像、パフォーマンス、インスタレーションといった既存のジャンルを越境する表現者だ。向井山にとって美術館での初の大規模個展となる本展。タイトルの「Act of Fire」には、作家の身体と記憶に根ざす喪失・抵抗・怒りを燃焼させる「儀礼」の意味が込められている。同時に、ジェンダーの不平等、深刻化する自然災害、終わりの見えない他国への侵略といった現代社会の諸問題を、「火」という根源的なメディアを通して照らし出すという意味も重ねている。

展示風景より、《wasted》(2009)
《wasted》(2009)の展示風景。経血の染み込んだ女性の衣服がすりガラスの奥に見え隠れしており、向井山のパーソナルな記憶を覗き込むようでもある

 会場では、6つギャラリーをひとつの地下劇場に見立てた回廊型のインスタレーションが展開されている。

 展示空間に足を踏み入れると、そこにあるのは「闇」だ。一階の展示スペースは誰もが立ち入れる無料エリアだが、訪れた者は暗闇が支配するこの空間に戸惑いを感じるだろう。しかし、耳を澄ませると地下からかすかにピアノの旋律が聞こえてくる。その音源を探すため、鑑賞者は誘われるように地下空間へ降りていく。

1階展示風景より。展示室の中央にある吹き抜けの下は暗くてよく見えない

 地下へ降りる階段の正面で待ち受けるのは、モニターに映し出された赤く巨大な月だ。不吉な前兆とも浄化のしるしとも取れるこの象徴的な月を背に、鑑賞者は回廊の奥へと進むことになる。

地下へと降りる階段。正面のモニターには赤い月が昇るイメージが映し出されている

 暗闇にゆらりと浮かぶのは、代表作のひとつである《wasted》(2009)。夫をガンで亡くした向井山が、大切な人の死に直面しながらも、なお毎月流れ出ていた経血を衣服に記録した作品だ。血の滲む衣服を前に一瞬たじろぐものの、それが生命の証でもある経血であると理解したとき、不思議と緊張が和らぐ感覚を覚える。先ほど目にした赤い月のイメージが、本作とも呼応しているようにも感じられる。

展示風景より、《wasted》(2009)
《wasted》(2009)の展示風景。およそ2ヶ月に及ぶ会期中、向井山は会場を不在にしているが、その存在感は確かにあの空間のなかに感じられる

 アーツ前橋のなかでも最大の面積を誇る展示室。そこへ向かうには長い廊下を歩くことになる。正面にぼんやりと浮かぶピアノの姿に向かって歩みを進める体験は、どこか現実離れした感覚を抱かせる。その先に待つのは、2025年7月に期間限定で無料配信された映像詩《KOKOKARA》だ。

展示風景より、《KOKOKARA》(2025)
展示風景より、《KOKOKARA》(2025)

 スクリーンの役割をする蚊帳の奥には自動ピアノが置かれており、館内に響いていた音の正体がここにあることがわかるだろう。映像には、燃えるピアノ、向井山の出身地である和歌山県新宮市の「御燈祭り」の松明、ガザ地区の戦火などが重なり合う。向井山はこの空間を「ボイラールーム」と呼んでおり、作家の内にある怒りや悲しみ、抵抗の感情が、炎とともに昇華される場所としている。

《KOKOKARA》(2025)が投影された蚊帳の裏側に配置されたピアノ。破壊されたピアノの様子はあまりにも暴力的であり、崩れ落ちた鍵盤はまるで骨のようにも思えた

 地下の回廊から地上階へ戻ると、暗闇に慣れた目で吹き抜けから底のような1階を見下ろすことができる。そこには、横たわった状態で音を奏でる2台のグランドピアノがあった。

展示風景より、《夜想曲/nocturne》(2011-)

 これらは2011年の東日本大震災で被災した宮城県石巻市のピアノであり、向井山と宮本は、このピアノを世界各地で展示するプロジェクトを続けてきた。震災から15年が経ち、当時の記憶や関心が薄れつつあるいま、暗闇で慣らした目でしか見えない場所にあるこのピアノは、現在の社会状況を象徴しているかのようだ。

展示風景より、《夜想曲/nocturne》(2011-)

 向井山が提示するインスタレーションは、鑑賞者の感覚に少なからぬ負担を強いるものばかりだ。しかし、鑑賞者自らが感覚を研ぎ澄まし、見ることや考えることを止めないことで、初めて見えてくるものがある。本展が提供する体験は、我々が現実社会と向き合う姿勢を問いかけるようでもあった。