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2025.5.30

「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」(千葉市美術館)開幕レポート。潤沢なコレクションで見る浮世絵の通史

千葉市美術館で企画展「開館30周年記念 江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」が開幕した。会期は7月21日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、左が喜多川歌麿《朝顔を持つ美人図》(1789-1801、寛政中期)
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 千葉市美術館で、蔦屋重三郎と浮世絵の歴史を特集する企画展「開館30周年記念 江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」が開幕した。会期は7月21日まで。

 蔦屋は江戸・吉原に生まれ、浮世絵を語るうえで欠かせない存在として知られる。安永(1772〜81)から寛政(1789〜1801)にかけて活躍し、とくに天明から寛政にかけての色彩の繊細な浮世絵が生み出された「浮世絵の黄金期」にも深く関わった。放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」のモデルとしても注目が集まっているほか、東京国立博物館でも特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」(〜6月15日)が開催中だ。

展示風景より、勝川春英《三代目市川高麗蔵・三代目半田半五郎、初代中山富三郎》(1793、寛政5年頃)

 浮世絵と千葉市美術館には深い縁がある。同館設立の契機となったのは、幕末の浮世絵師・渓斎英泉(1791〜1848)の錦絵を集めた今中コレクションを、1985年に千葉市が入手したことだ。以降、浮世絵は千葉市美術館の収集において重要な位置を占め、国内でも有数の浮世絵コレクションをもつに至っている

展示風景より、右が懐月堂安度《立美人図》(1704~16、宝永~正徳期)

 展覧会は全5章とプロローグ、エピローグとによって構成されている。プロローグ「『浮世をえがいた絵』のはじまり」では、浮世絵とは何かを、蔦屋が生まれる前の時代を振り返りつつ、「役者絵」「浮世絵と物語」「浮絵」「美人画の発展へ」「カラー摺版画=錦絵の登場  鈴木春信の美人画」といったトピックを通じて考える。

展示風景より、右が菱川師宣《酒呑童子 褒章》(1673~81、延宝末期頃)

 そもそも、浮世絵とはなにか。古来より日本では、いずれ行くべき場所である浄土に対して、現世は辛く苦しい「憂世」ととらえられてきた。しかし、近世になり、現世はつかの間の「浮世」であり、だからこそこの刹那を楽しく生きようという考えが生まれるようになった。こうした世界観をもとに、富裕層向けにつくられていた風俗画は、浮世である現在を写すもの、「浮世絵」として次第に庶民に親しまれるようになっていった。

展示風景より、右が奥村政信《禿三幅対》(1744〜51、延事〜寛延期)

 プロローグ冒頭には、江戸初期において浮世絵の始祖といわれる菱川師宣による《衝立のかげ》(1673〜81、延命後期)が展示されている。衝立の影で情愛の若い男が女を抱き寄せ、目を合わせている場面が一枚に摺られた本作は、初期浮世絵のあり方を端的に伝えるものといえる。

展示風景より、菱川師宣《衝立のかげ》(1673〜81、延命後期)

 やがて、浮世絵は「多色摺(=カラー)」の技術を得て「錦絵」となっていく。プロローグでは、この「錦絵」を創始したことで知られている、鈴木春信の流麗な作品も見ることができる。

展示風景より、鈴木春信《坐鋪八景台子夜雨》(1766、明和3年頃)

 第1章「蔦屋重三郎という人物」では、蔦屋が主要な仕事のひとつとした、吉原を訪れる客のためのガイドブック『吉原細見』を出版し、やがて独占権を得ていった時期を紹介。二代歌川広重の《新吉原中之町》(1857、安政4年)の華やかな様子から察せられるように、以降の吉原は、江戸を通して文化風俗の発信地となっていった。

展示風景より、二代歌川広重《新吉原中之町》(1857、安政4年)

 第2章「蔦屋を育んだ吉原と遊女のイメージ」は、吉原に生きた蔦屋が創出していった、江戸吉原や遊女の姿をイメージした浮世絵を展示。なかでも、鈴木春信による、吉原の遊女総勢166名を名入りで描いた美しい版本『絵本青楼美人合』は、色鮮やかな版本で遊女たちを紹介しようとした、蔦屋の創意工夫をいまに伝える一冊だ。

展示風景より、右が鈴木春信『絵本青楼美人合』(1770、明和7年)

 本章ではほかにも歌川国貞(1786〜1865)、喜多川歌麿(?〜1806)、渓斎英泉らによる、吉原の遊女たちや妓楼の様子を描いた、華やかな浮世絵を見ることができる。

展示風景より、左が歌川国貞《花魁図》(1830~44、天保期)
展示風景より、喜多川歌麿《積物前の遊女》(1795、寛政7年)

 第3章「吉原の本屋から『版元蔦屋』誕生へ  安永から天明期の浮世絵」では、蔦重が版元として駆け出しの頃であった安永期(1772〜81)から、本格的に版元として活動していく天明期(1781〜89)までを展観する。

展示風景より、左が北尾重政『絵本世都之時』(1775、安永4年)

 とくに天明期から覚政期は、のちに「浮世絵の黄金期」といわれるように、浮世絵の技術と表現が大きく発展しはじめた時代だった。本章では儀田湖龍斎(1735〜?)、北尾重政(1739〜1820)、勝川春章(1743〜92)、鳥居清長(1752〜1815)、窪俊満(1757〜1820)、勝川春潮(生没年不詳)といった、様々な絵師たちの技巧をこらした作品を見ることができる。

展示風景より、右が鳥居清長《三代自市川八百蔵の古手屋八郎兵衛と中村里好の丹波屋おつま》(1785、天明5年)
展示風景より、儀田湖龍斎《汐汲図》(1712~81、安永後期)

 第4章「蔦屋の偉業   歌麿、写楽、長喜のプロデュース」では、蔦屋によってプロデュースされた北尾政演(1761〜1816)、喜多川歌麿、東洲斎写楽(生没年不詳)、栄松斎長喜(生役年不詳)らを中心に紹介。

展示風景より、勝川春潮《日本堤遊歩》(1781~89、天明後期)

 1783年(天明3年)、蔦屋は日本橋油通町に耕書堂を出店すると、版売として精力的に活動をしていく。狂歌師たちに狂歌を詠む場所を提供していた蔦屋は、歌麿を盛り立てて、狂歌絵本の制作に力を入れていった。なかでも、虫や草花を描いた『画本虫撰』の繊細な昆虫や植物の描写は目を見張るものがあり、海外でも高い評価を受けることになる。

展示風景より、宿屋飯盛/喜多川歌麿『画本虫撰』(1788、天明8年)

 また、歌麿の代名詞となっている大首絵(首から上を大きく描いた浮世絵)の美人画は、寛政期に入って盛んに描かれ、一斉を風靡した。また、その強烈な表情で浮世絵を象徴するアイコンにもなっている、東洲斎写楽の《市川鰕蔵の竹村定之進》や《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》(ともに1794、寛政6年)も本章で見ることが可能だ。

展示風景より、右が喜多川歌麿《江戸高名美人 木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑ》(1792-93寛政4-5年)
展示風景より、東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》(1794、寛政6年)

 第5章「蔦屋が活躍した時代   浮世絵の豊穣期」では、天明未期から寛政期(1789〜1801)に至るころの、肉筆画を含めた浮世絵の発展を取り上げる。歌麿による希少な肉筆画をはじめ、同館に新収蔵された鳥文斎栄之(1756〜1829)《若那初裳 大ひしや三花 きくし きくの》(1794、寛政6年頃)なども見ることができる。

展示風景より、左が喜多川歌麿《朝顔を持つ美人図》(1789-1801、寛政中期)
展示風景より、左が鳥文斎栄之(1756〜1829)《若那初裳 大ひしや三花 きくし きくの》(1794、寛政6年頃)

 ほかにも勝川春章(1743〜92)、勝川春潮(生没年不詳)、歌川豊国(1769〜1825)らによるワイド画面の壮大な浮世絵や美人画など、多彩な浮世絵が本章では展示される。

展示風景より、歌川豊国《上野寛永寺境内》(寛政中期、1789〜1801)

 エピローグ「蔦屋の没後  "Ukiyo-e"への変貌」では、寛政9年(1797、寛政6年)に蔦屋が世を去って以降の、葛飾北斎(1760〜1849)や歌川広重(1797〜1858)の傑作が並ぶ。これらの浮世絵が国外へも伝わり、広く影響を与えた歴史については誰もが知るところだろう。

展示風景より、葛飾北斎《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》(1831、天保2年頃)
展示風景より、歌川広重《名所江戸百景 亀戸天神境内》(1856、安政3年)

 千葉市美術館の潤沢な浮世絵コレクションを、注目の集まる蔦屋重三郎をキーワードにまとめあげた本展。浮世絵の歴史と総体を実作を見ながらとらえられる、重要な展覧会となっている。