2025.7.7

ジャン=リュック・ゴダールの「思考」を歩く。最後の長編『イメージの本』から広がる“生きた上映”

映画監督ジャン=リュック・ゴダールの最後の長編作品『イメージの本』(2018)を再構築した展覧会「感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について」が、東京・新宿の王城ビルで開催されている。会期は8月31日まで。

文・撮影=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より
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 映画監督ジャン=リュック・ゴダールの最後の長編映画『イメージの本』(2018)に着想を得た展覧会「感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について」が、7月4日に東京・新宿の王城ビルで開幕した。会期は8月31日まで。

 本展は、アートの生活提案を行うCCCアートラボ(カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社)と王城ビル(パラダイス商事株式会社)が企画したもの。ゴダール作品が持つ詩的・哲学的な側面を再解釈し、映画の枠を超えた新たな鑑賞体験を提示している。

展示風景より

 『イメージの本』は、歴史、戦争、宗教、芸術といった主題を軸に、過去の映画、音楽、文学、美術作品からの引用を織り交ぜて構成された映像詩である。全体は2部構成で、とくに第1部は5章に分かれ、それぞれが独立したテーマと形式をもつ。2018年のカンヌ国際映画祭では、映画祭史上初の「スペシャル・パルムドール」が本作に授与された。

 本展のアーティスト兼キュレーターを務めるのは、ゴダールの晩年の創作を支えたスイスの映画作家ファブリス・アラーニョ。『ゴダール・ソシアリスム』(2010)や『イメージの本』において撮影・音響・編集を担った人物である。展覧会は2020年にスイス・ニヨンで初めて開催され、その後ベルリンではゴダール本人との共同制作のもとで再構成され、日本では今回が初の開催となる。

展示風景より

 会場の王城ビルは、1964年の東京オリンピック開催年に建設された歴史ある建築であり、かつて純喫茶やキャバレー、カラオケなど多様な業態を経てきた。また、アンダーグラウンド演劇や前衛芸術、フリージャズなど多彩な表現活動の舞台ともなってきた。こうしたレトロかつ多層的な空間は、ゴダールの映像世界と共鳴し、化学反応を生み出す場として選ばれている。

王城ビルの外観 写真提供=CCCアートラボ

 展示は王城ビルの複数フロアを用いた映像インスタレーションとして構成され、映画『イメージの本』の構成をベースにしながらも、その映像を断片化。複数のモニターやスクリーンを通じて、即興性や現在性を伴う「生きた上映(Living Projection)」が実現されている。

 展覧会を企画したCCCアートラボの門司孝之(事業戦略部長)は、「ゴダールが遺した普遍的な思想や感情を、映画という枠を超えてアートとして提示したかった」と語る。また、映像をループではなく、アルゴリズムによってつねに再構成することが本展の特徴のひとつで、「来場するたびに異なる体験を提供する“生きた展示”を目指した」と門司は話す。

展示風景より

 展示は以下の5章で構成されている。

第1章「リメイク」(2階手前)

 映画における「リメイク」という概念を主題としたインスタレーション。何層にも重ねられた布のあいだを来場者が通り抜ける構造となっており、映像と物理的空間が交差する体験を通じて、既存の映像が新たな意味を獲得していく様子を象徴している。

第2章「サン・ペテルスブルグの夜話」(2階奥)

 戦争をテーマにした章。床に並べられた4台のブラウン管テレビが墓標のように配置され、戦争に関する映像が静かに流される。壁面にも映像が投影され、空間全体がひとつのインスタレーションとして機能している。

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第3章「線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」(3階)

 映画と列車というメディアの関係性に焦点を当てた章。列車を初めて見た少女が興奮するシーンなど、旅や移動、映画的時間を象徴するイメージが映し出される。自然光が多く差し込むこの空間にはソファが設置されており、来場者は滞在しながらじっくりと映像に向き合うことができる。

第4章「法の精神」(4階)

 モンテスキューの著作『法の精神』に着想を得た章。6〜7台のプロジェクターから投影された映像が布に映し出され、その布が風に揺れることで、法や社会の不安定さ、揺らぎを視覚的に表現している。

展示風景より

最終章「中央地帯」+「幸福のアラビア」(4階奥)

 「幸福なアラビア」をモチーフに構成された幻想的な空間。展示の終盤には、ダンスシーンやエンドロールに相当する映像が流れ、ジャン・ギャバンやダニエル・ダリューの出演する映画の一場面などが、別れや死、そしてゴダールへのオマージュとして挿入されている。

 本展のキュレーションを手がけたファブリス・アラーニョは、20年にわたりジャン=リュック・ゴダールとともに映像制作を行ってきたスイスの映画作家である。制作に4年が費やされた『イメージの本』において、その全行程にゴダールとともに携わった。

 「映画の上映時間はわずか90分ですが、その背後には何千時間にも及ぶ思考のプロセスがあります」とアラーニョは語る。「この展示では、その“映画の内側にいる”という感覚を、観客が追体験できるよう構成しました。まるでゴダールの頭の中を旅するように、ひとつのイメージからまた次のイメージへと進んでいく──その過程そのものが展示なのです」。

展示風景より

 本展は、そうした制作プロセスをそのまま空間化する試みでもある。映像がただ順番に流れるのではなく、観客自身が思考の中を歩き、映像とともに自らの感情を編み直していく。その体験こそが、「生きた上映」としての本展の本質だとアラーニョは強調する。

 彼はさらに、「理解しようとしすぎなくてもいい」と来場者に語りかける。「子供のように、ただ見て、ただ感じること。それがゴダールの作品と向き合うためのもっとも自然な姿勢です。展示全体が、観客の内側にある感情を喚起する“装置”として設計されています」。

展示風景より

 会場内には、『イメージの本』で引用された映画や文学作品、絵画などに関連する書籍が約30冊設置され、自由に閲覧することができる。日本語訳のあるものは邦訳版を、その他は原語版を展示し、映像と書物、身体と記憶が交差する読書体験もあわせて提供されている。

展示風景より

 また、会場では、かつて王城ビルで営業していた純喫茶「喫茶王城」が期間限定で復活しており、展示との連動企画として渋谷PARCO内の「OIL by 美術手帖」ギャラリーでは、アラーニョが撮影したゴダールのプライベートな姿を捉えた写真展も同時開催されている。

展示風景より
展示風景より

 ゴダールの映画を一度も観たことがなくても、この展覧会は楽しめるのだろうか──その問いに対し、本展を企画したCCCアートラボの門司孝之はこう語る。

 「映画というのは、一度観ただけではわからないことも多いものです。むしろ、展示を通して何かに興味を持ち、そこから映画に触れていく。そうした往復によって理解が深まっていくと思います。直感的に入ってきたイメージが、時間を経て自分のなかでつながっていく。そんな体験が生まれることを願っています」。

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