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2025.5.25

「家庭」を超えた先にある女性たちの「創造的表現」。碓井ゆい評「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」

東京ステーションギャラリーで開催された、造形作家・宮脇綾子による個展「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(2025年1月25日~3月16日)を、アーティスト・碓井ゆいがレビューする。創作アプリケの表現手法を用いて制作されてきた宮脇の作品の特徴、そしてその活動を通じて見えてくる「手芸」と「美術」、ジェンダー的構図はどのようなものか。

文=碓井ゆい 写真提供=東京ステーションギャラリー(©Hayato Wakabayashi)

「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景
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「家庭」を超えた先にある女性たちの「創造的表現」

「手芸を美術に格上げする構図」から脱却できるか

 近年の女性アーティストの再評価の流れのなかで、歴史的に女性が担ってきたとされる、縫う行為や布を用いた作品を取り上げる展覧会が増えていると感じる。そのような潮流を踏まえたうえでの今回の展覧会なのだろうか。

 日本の敗戦直後から1995年に90歳で亡くなるまで、アプリケ作家として多くの作品を発表した宮脇綾子。国内だけでなく海外でも数多くの展覧会が開催されてきたが、今展がこれまでと異なるとして注目されている点は、彼女の作品を美術史の言葉を用いて読み解くという試みだという。なせなら、アプリケはこれまで、美術ではなく手芸として扱われてきたからだ。さらに前述の潮流から考えて、「手芸が美術より格下だからこそ美術作品として格上げしてあげよう」という過去にも散見されてきた構図から脱却した、美術史の言葉を用いることでしかなしえない新鮮な作品理解の場になっているとのではないかと期待して足を運んだ。

「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)フォトスポット

 宮脇作品を特徴づけるもののひとつとして、モチーフに対する観察眼が挙げられる。これは今展でもダ・ヴィンチやレンブラントが引き合いに出されて紹介されている。だからこそいわゆる手芸とは異なる「布絵」としか言いようのない、絵画のような創作行為なのだと。確かに彼女のアプリケ作品を見れば、展示されているスケッチブックの何倍もの量、日常的にクロッキーをしていたのであろうということは、容易に想像ができる。

 《たこ》(1965)は「タコっておもしろいかっこうをしているな」と思い制作したという。そう言われると、陸に揚げられてきまり悪そうなポーズのタコに見えてくる。インドのブロックプリントと思しき布の丸いパターンをいくつも切りぬいてアプリケした吸盤の表現も秀逸だ。《ねぎ》(1964)の伸びやかさからは、鋏が布をスイスイと切り進んでいく光景が目に浮かぶ。《吊った唐辛子》(1963)は、様々な形状の唐辛子が5種類ほどの布で描き分けられている。乾燥してかさかさしたものはタオルのような生地で、ベルベットを使ったものはこっくりとした艶のあるものだったのだろうか。唐辛子を束ねる藁はそのまま本物が使われており、その大胆さも心地よい。

「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景
「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景

 また、彼女の作品の最大の特徴であろう、布の選び方の巧みさについても、様々な概念を用いて分析している。些細な切れ端の布も捨てずに作品に活かしたという彼女の行為は、大量消費社会への批評性から、ヌーヴォー・レアリスムやアルテ・ポーヴェラに通ずるものがあると指摘されていたり、布の模様を活かすことは「見立て」、また逆に、模様や文脈をあえて関係のないモチーフに用いる行為はシュルレアリスムの「デペイズマン」との類似性が言及されていたりと、その特徴が美術史に紐づけられている。

 使い終わったコーヒーフィルターの染みをうまく活かした《鰈の干もの》(1986)、使い古した石油ストーブの芯を利用した《めざし》(1975)、巴紋を効果的に用いた《芽キャベツ》(1977)や印半纏の印で皮を表現した《筍》(1978)などは、「やっているうちに、モデルや布切れが教えてくれるのですよ」という彼女の言葉を体現しているかのようだ。大漁旗のような布を用いた《赤い蟹》(1981)は、素材からもモチーフからも海を連想するが、同様の布でつくられた《れんこん》(1982)からは、前者を裏切るような遊び心が感じられる。

「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景
「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景より、一番左は《芽キャベツ》(1977)、一番右は《筍》(1978)。モチーフ本来の色彩にとらわれず、布の質感や柄を生かした“らしさ”の表現が、宮脇作品の妙ともいえる

 このように美術史の言葉は展覧会の随所に解説文として掲示されており、それは確かに新しい角度からの理解を観客に提供することの一助となっていたかもしれない。しかしそれは、予想していたよりも控えめな印象を受けた。例えば、宮脇のつくり出すデフォルメされたフォルムがモチーフの本質的なかたちをとらえているとして、マティスの切り絵が引き合いに出されていたが、ここでも文章のみで図版などは掲示されていない。観客のすべてがマティスを知っているのだろうかという疑問もさることながら、やはりそれを視覚的に示したほうが、美術との類似性は明らかに分かりやすいだろう。だとすると、美術史の言葉を文字のみでしか示さなかったのは、作品を最大限に見やすくしようという配慮なのかもしれない。しかしその結果、従来の紹介の仕方と大きく変わらない印象を受けたうえ、冒頭で挙げた「手芸が美術として格上げされているように見える」という構造は、なかなかしぶといものであると再認識させられる機会になった。

「手芸」と「工芸」の格差はどこにあるのか

 山崎明子の著書『近代日本の「手芸」とジェンダー』(世織書房、2005)によれば、日常性や実用性を備えた「手仕事」という意味において「工芸」と「手芸」は明確な区別をすることができず、その差を決定づけるものはつくり手のジェンダーなのだという。

 そして、明治期に成立した「絵画」「彫刻」「日本画」といった「美術」制度と概念のなかで、「工芸」は産業的な性格を消し、日本的なるものを演出していくための伝統性を付与され、「美術」の枠組みへ吸収されていった。では、「手芸」はどうだろう。以下を引用する。

 これらの諸研究を踏まえて、改めて「手芸」という語を見るならば、「美術」に近づく「工芸」とも、「工業」に寄与する「工芸」とも異なる場に位置づけられることがわかる。端的にいうならば、「工芸」を吸収していく「美術」制度からも切り離され、そして工芸的要素を必要とした産業からも切り離され、二重の意味で社会の制度から疎外されていくのが「手芸」であった。この二重の疎外の意味を解く鍵となるのが、近代国家におけるジェンダー編成であり、女性と「手芸」を強固に結びつけるジェンダー象徴体系である。(*1)

 婚姻や家族の規制や性別役割分担による生産/再生産システム、セクシュアリティについての価値管理など、国家の諸制度はジェンダー概念に基づいており、そのなかで編制された近代日本の芸術概念もジェンダー規範を内包していた。そしてそれに基づいて「手芸」が「美術」の枠組みの外部に置かれたということがよくわかる。

 このような構造を踏まえてみると、美術史の言葉を用いて手芸を論じることが、あたかも名誉男性をつくり出すような作用をしてしまうことは当然なのかもしれない。宮脇作品の特徴として称えられていることは、文字通りの特徴であると同時に、「多くの女性が手掛ける凡百の手芸のアプリケ」との違いでもあることが言外に示されていると感じるのは私だけではないはずだ。

 宮脇も、自身のアプリケ作品を「ずっと前からあった」アプリケとは異なる「創作アプリケ」と称していた。彼女の言う「ずっと前からあった」アプリケとは、手芸本の様式化された図案を写し取って子供の服や手提げに縫い付けていくといったものであり、それはどちらかといえば家事のカテゴリに属する行為として位置づけられていた。再度、山崎の本より引用する。

明治期の日本においては、あらゆる「手芸」は、「無償の愛」によって家庭を維持し、家族を癒し、そして自らをも癒す行為として奨励されてきた。家庭内において制作されたモノは、家庭内において消費され、市場価値を持たないものとされた。市場価値のないものをひたすらに生産しつづける行為は、基本的に無償である育児や家事に専念することをもって婦徳とする家父長制社会の女性規範の一つである。(*2)
「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景

*1──山崎明子『近代日本の「手芸」とジェンダー』世織書房、2005、9頁。
*2──山崎明子『近代日本の「手芸」とジェンダー』世織書房、2005、278頁。

「家庭」を超えた先にある女性たちの「創造的表現」

 近代の日本において「手芸」は女性の美的な生活管理の一環という位置づけであり、すべての女性がその担い手になることをめざす教育がなされていたという。宮脇がこのような戦前の手芸文化のなかで少女期を過ごしたことは、彼女がアプリケを表現手法として選んだことに大きな影響を与えているに違いない。そしてそのような規範的な環境にありながらも、手芸技術に自分自身が持っているより大きな可能性を見つけ出したのだろう。その契機となったのは、戦争だった。

 「戦争が終わったということは、私にとって空襲からの解放でした。防空壕へ出たり入ったりしなくなった、その時間で何か“仕事”をしなくては……。そう思いましてね」
 確かに先生は“仕事”という言葉をいくらか声高にはっきり念を入れて話されました。「どんなお仕事に就かれたのでしょうか」
「あら、アプリケというか、つまり裂地(きれじ)で何か作ろうと思ったんですよ」
 私は息をのみました。昭和六十一年の初冬、名古屋のお宅へお伺いした日の驚きは、先生の“仕事”という言葉の使われ方でした。(*3)

 すべての国民が同じ方向を、同じものを見ることを強制されていた戦争の経験は、自分が見たものを自分の手で表現できるという喜びを強烈に意識させたに違いない。そして彼女がアプリケによる創作活動を「仕事」と語ったことは、戦前からの「手芸」の位置づけられ方への批評ともとらえられるのではないだろうか。宮脇は自身が手芸家と呼ばれることを好んでいなかったというが、それは手芸と認めてしまえば、女性の創造性を過小評価する家父長制に屈服してしまうことになると感じていたのかもしれない。

 彼女が主宰を務めた「アプリケ綾の会」では、何よりもまず家庭を大切にして創作活動をするよう、会員に語りかけていたという。それは明確に家庭との線引きがなされ、家庭の外へと向かう自己の表現行為だったということだろう。だからこそ、彼女の作品は、近代と戦後を通じて同様に手芸をしてきた女性たちへのエンパワメントとして機能し、多くの人たちの心を掴んだのではないか。そのことは手芸が美術として扱われることよりも意義あることであると私は思うし、手芸でなければ成しえなかったことでもあると思う。

 「もはや手芸の枠を超えた芸術だ」と称賛するときの、その「枠」は、いかにしてつくられたのか。手芸を美術史の言葉を用いて分析するという試み自体が間違っているとは決して思わないが、その際には手芸がいかにそこから疎外されてきたかをも含んだ歴史と、そこに働いていたジェンダーの視点を持って慎重に読み解いてゆくことが必要なのではないだろうか。それは、それほどまでに、私たちの社会や美術という概念を支配するジェンダー規範が根強いということの裏返しでもあり、決して手芸側の問題なのではなく「美術」の問題なのである。

「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景より、手前は《床山さんの櫛》(制作年不明)
「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」(東京ステーションギャラリー、2025)の展示風景より、手前は《縞魚型文様集》(1967-83)、奥は《木綿縞乾柿型集》(1967-89)

*3──森南海子「宮脇綾子先生の“ 仕事” 」『アプリケ芸術50年 宮脇綾子遺作展』朝日新聞社、1997、10頁。