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2026.8.29

企画展「ハンセン病療養所のなかの『外国人』」(国立ハンセン病資料館)レポート。海外ルーツの入所者たちの存在が示すものは何か

東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で、企画展「ハンセン病療養所のなかの『外国人』」が11月29日まで開催中。会場の様子をレポートする。

文・撮影=三澤麦(編集部)

展示風景。手前は多磨全生園の在日朝鮮人入所者による民族舞踊の集団「アリランの会」で使用されていた衣装や楽器など
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 東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館で、企画展「ハンセン病療養所のなかの『外国人』」(*1)が11月29日まで開催されている。担当は同館学芸員の木村哲也。

 ハンセン病とは、「らい菌」という細菌に感染することで引き起こされる感染症の一種だ。近代以降の国の誤った政策(*2)によって患者やその家族らが偏見・差別を受け、甚大な人権侵害を引き起こした問題が存在している。同館は、そうした状況に晒されてきた患者や元患者、その家族の名誉回復を図るため、ハンセン病問題に関する正しい知識を普及・啓発し、偏見や差別の解消を目指して活動を続けている。

 同館において、療養所のなかの「外国人」という存在に焦点を当てるのは初の試みだという。本展は、ハンセン病療養所という隔離の場に生きた海外ルーツの人々に注目し、過酷な生活のなかでどのように抗い、誇りをもって生きていたのかを見つめ直す内容となっている。

療養所のなかの在日朝鮮人たち

 展示は、とりわけ数の多かった在日朝鮮人(*3)の入所者に関する資料を中心に構成されている。日本のハンセン病療養所には、戦前の植民地支配を背景に多くの朝鮮人が入所していた。全国13ヶ所ある国立療養所のうち本土の10ヶ所に入所の記録が残されており、とくに戦後の長島愛生園や邑久光明園(ともに岡山県)では、総入所者の1割を超える時期もあったという。ハンセン病は栄養失調や劣悪な公衆衛生環境で発症しやすい性質を持つため、当時の在日朝鮮人たちが置かれていた厳しい生活水準もうかがい知ることができる。

 では、彼ら/彼女らは、いかにして療養所のなかで暮らしていたのか。本展では、「たたかう」「はたらく」「くらす」「うたう おどる」「よむ かく」という5つの切り口から、その暮らしや置かれていた立場に焦点を当てている。

「たたかう」のエリアでは、1959年に公布された国民年金法の対象外となった在日朝鮮人入所者たちの闘争の記録を紹介している
在日朝鮮人入所者の連帯を示す「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」の横断幕(2005)

 まず「たたかう」では、在日朝鮮人の入所者たちが隔離政策のみならず、戦後の外国人政策のもとで直面した差別的な処遇に対していかに声をあげてきたのかを紹介。続く「はたらく」では、療養所内でも日本人のやりたがらない重労働や苦痛を伴う仕事を在日朝鮮人の入所者らが引き受けていた記録を展示している。抑圧のなかで周囲に認められるため、自ら進んでそうした仕事を引き受けざるをえなかった状況は、隔離政策がもたらした傷の深さを物語る。

「はたらく」のエリアでは、各地の療養所で暮らしていた在日朝鮮人入所者たちがどのような仕事をしていたのかを、資料や個人のエピソードとともに展示している
多磨全生園で使用されていた土木の道具

 「くらす」「うたう おどる」「よむ かく」では、隔離された空間で在日朝鮮人の入所者たちが自らのアイデンティティをどのように保持していたかを提示する。なかでも「うたう おどる」で取り上げられている女性たちは、隔離政策や外国人政策に加え、「女が人前で踊るなんて」という性別による偏見の眼差しにも晒されており、複合的な抑圧を受ける状況にあったと木村は語る。

展示風景。手前は多磨全生にて実際の在日朝鮮人入所者が使用していた家財の一部。療養所においても自身のルーツを大切にしようとしていた姿勢がうかがえる

*1 ──本展では「外国人」という言葉を、現在の国籍のみを指すものとしてではなく、植民地期の朝鮮人・台湾人、国外出身で無国籍となった人、日本人とのダブルの出自をもつ人など、多様なルーツや歴史的背景をもつ人びとを含むものとして用いている。
*2──1907年に放浪するハンセン病患者の隔離を定めた「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が成立。31年には同法律が改正され、すべての患者を本人の意思に関わりなく隔離する「強制隔離」が始まる。この強制隔離は、「らい予防法」が廃止される96年まで続いた。
*3──本展では、朝鮮半島にルーツをもつ人びとを「韓国籍」「朝鮮籍」「日本籍」の区別なく「朝鮮人」と表記している。

多様なルーツを持つ入所者たち

 さらに本展では、ロシアやインドネシアにルーツを持つ入所者にもスポットを当てている。例えば、亡命ロシア人貴族の末裔として1928年に日本で生まれ、発症後に栗生楽泉園(群馬)へ入所したコンスタンチン・トロチェフ(1928~2006)の生涯を貴重な資料とともにたどっている。また、1965年にインドネシアから留学生として来日中に発症し、多磨全生園(東京)に入所した森元美恵子(1946~)は、園内で日本人男性と結婚したことで回復後も日本に留まることとなった。森元の「戦後の療養所には多様なルーツを持つ人々がいた」という証言が、本展を企画する重要な手がかりになったと木村は振り返る。

コンスタンチン・トロチェフにまつわる資料
森元美恵子にまつわる資料

 展示の最後を締めくくるのは、多磨全生園の1955〜57年の年報に記された、名もなき1人の台湾人の存在だ。数字以外に何も記録が残されていないこの人物を通して、1人の人間が歴史に記録されること、あるいは埋もれていくことの意味を問いかける。

 本展において極めて重要なのは、彼ら/彼女らが受けた過酷な被害の事実に触れつつも、そうした複雑に重なる抑圧のなかでいかに尊厳やルーツを守り抜こうとしたかという点だ。会場で提示された5つの切り口は、まさにその「生の営み」そのものを示している。

 世界各地で排外主義が強まる現代において、ハンセン病問題に刻まれた事象は決して過去の他人事ではない。ハンセン病問題への理解を深めると同時に、多様なバックグラウンドを持つ人々とどう共生していくべきか、多くの示唆を与えてくれる展示であった。