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2026.6.3

「松本陽子 宵の明星を見た日」(府中市美術館)開幕レポート。65年の画業を辿る

東京・府中の府中市美術館で、画家・松本陽子の美術館における初の大規模個展「松本陽子 宵の明星を見た日」が開幕した。会期は7月12日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=大橋ひな子(編集部)

「荒野の光 1987-1995」の展示風景
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 東京・府中の府中市美術館で、画家・松本陽子の美術館における初の大規模個展「松本陽子 宵の明星を見た日」が開幕した。会期は7月12日まで。担当は同館学芸員の神山亮子。なお同館での開催終了後は、いわき市立美術館(9月12日〜11月1日)、神奈川県立近代美術館 葉山(11月28日〜2027年2月28日)にも巡回する予定だ。

 松本陽子は1936年東京都生まれ。60年に東京藝術大学美術学部絵画科を卒業し、67年から約1年間アメリカに滞在。帰国後、アクリル絵具と綿のローキャンバス(下地塗りの施されていないキャンバス)による独自の表現手法で、ピンクを主調とした絵画群を制作。2000年代には油彩画に本格的に取り組み、緑や黒、青などを用いた絵画を描き出してきた。

 本展は、1950年代末の初期作品から、90年代のアクリル絵具による作品、そして2000年代以降の油彩画まで、作家本人とともにリストアップした35点とドローイング15点で構成。全5章を通じて、松本の65年におよぶ画業を辿る内容となっている。

青き明星 2012-2026

 章立ては作品群ごとに分けられているものの、必ずしも時系列に沿った構成ではない。最初に展開されるのは、「青き明星 2012-2026」と題された、最新作を含む近作を紹介するセクションだ。

「青き明星 2012-2026」の展示風景

 帰国後はアクリル画を中心に制作していた松本だが、2000年代に入ると本格的に油彩画へと回帰するようになる。緑や白といった色調を用いた作品を手がけ、また、その画面上に徐々に現れはじめた青色をメインに据えた作品《宵の明星を見た日》(2023)を、2024年にロンドンのWhite Cube Mason’s Yardで開催された展覧会で初発表し、高い評価を得た。この作品タイトルが、本展の展覧会名に起用されている。

松本陽子《植物に視つめられる私》(2026)キャンバスに油彩、木炭、パステル 181.2×227.5cm 個人蔵

 会場では、青色を基調とした最新作《植物に視つめられる私》(2026)も紹介。2021年以降、松本にとって一層強い関心対象となった「植物」がタイトルに入った本作は、印象的な青色の合間に白、黒、淡い青、ピンクが立ち上るように描かれている。画面左上部ではそれらの色彩が横へと伝うように描かれており、有機的な植物のダイナミックな動きを想起させる。

荒野の光 1987-1995

 もっとも広い展示室では、「荒野の光 1987-1995」と題し、松本の代名詞とも言えるピンクを基調としたアクリル絵画作品群が展開されている。東京藝術大学在籍中は油彩画を学んでいた松本だが、油絵具特有の光沢や重量感は、自身が望む「透明で明るい作品」の表現を阻む要因だったという。そんな折、滞米中に出会ったアクリル絵具を用いた制作をスタートさせる。

「荒野の光 1987-1995」の展示風景

 その手法は、絵具を大量の水で溶いて薄塗りし、アクリル媒材であるグロスポリマーメディウムを多用しながら、絵具を拭き取っていくというもの。アクリル絵具は乾燥が早いため、翌日に制作を持ち越すことはできず、すべて1日のうちに完成させる必要があった。

 抽象的でありながら、その質感は空や雲、蒸気といったモチーフを思わせる。しかし、松本は具体的な対象を描いているわけではなく、事前に明確な構想があるわけでもない。真っ白なキャンバスに向き合った瞬間、考えるよりも先に動く手に任せて制作を進める。そのプロセスは、いわば「絵の側から指示を受ける」ような感覚だという。朝に制作を開始して大体夕方には終えるという、1日限りの短い時間のなかで作品が描かれていく。

松本陽子《黒い岩Ⅴ》(1991)キャンバスにアクリル絵具 200×250cm 個人蔵

 会場では、作品のスケールに圧倒される。最大長辺250センチにおよぶ大作群が並ぶ様子は圧巻だ。91年には国立国際美術館での個展「近作展」にて、これらの作品を含む新作12点が披露され、大きな話題を呼んだ。

緑をめぐる思考 2005-2019

 「緑をめぐる思考 2005-2019」では、2000年代に改めて取り組みはじめた油彩画、なかでも緑色を基調とした作品群が紹介される。90年代後半から「自立した緑の絵画を描きたい」と言っていた松本は、2005年に油彩による緑の作品を制作する。理想の緑を表現するためにはアクリルではなく油彩である必要があったこと、そして、アクリル画を長時間屈みながら制作することが身体的に厳しくなってきたことが重なり、満を持して油彩画へのシフトが行われた。

「緑をめぐる思考 2005-2019」の展示風景
松本陽子《私的光景》(2005)キャンバスに油彩、木炭、パステル 200×250.3cm 神奈川県立近代美術館

 2005年に神奈川県立近代美術館 鎌倉で開催された二人展「今日の作家X 西村盛雄・松本陽子」のために、《私的光景》(2005)をはじめとする4点をわずか1ヶ月で描き上げた。展示会場では照明が少し落とされており、キャンバスに描かれた緑色が丁寧に鑑賞者の目の前に浮かび上がるような工夫が凝らされている。

旅のはじまり 1959-1985

 「旅のはじまり 1959-1985」では、卒業制作を含む松本の初期作品が紹介されている。松本が入学した1956年当時、東京藝術大学では具象的かつ重厚な絵肌(マチエール)が主流であった。しかし、アンリ・マティスの明るい作風に憧れていた松本はその風潮に疑問を抱き、のちに日本橋高島屋で目にした「世界・今日の美術展」(1956)をきっかけに抽象画の制作を開始する。大学4年生のときに出会った指導教官・小磯良平(1903〜88)の後押しもあり、松本は独自の表現探究をさらに深化させていった。

「旅のはじまり 1959-1985」の展示風景
松本陽子《自然のなかの形象I》(1974)キャンバスにアクリル絵具 146×146cm 個人蔵

 本章では、アメリカからの帰国後、アクリル絵具と綿のローキャンバスによる新たな表現手法を試みた最初期の作品も紹介されている。

気韻生動 2003-2010

 「気韻生動 2003-2010」は、他章で紹介しきれなかった「白」や「黒」をメインに用いた2000年代の作品をダイジェストで振り返る構成だ。例えば、大画面を線の絡まりが埋め尽くすように描かれた《生命体について》(2010)は、水を多用するアクリル画が寒さによって制作できない冬期によく手がけられたという。また、《宇宙エーテル体I》(2003)は、通常1日で描き切るアクリル画のキャンバスが冷夏で乾かず、結果的に2日がかりで完成させた作品だ。そうした偶然の重なりから生まれた、新たな表現を垣間見ることができる。 

「気韻生動 2003-2010」の展示風景
松本陽子のドローイング、スケッチブック

 会場の最後には、松本によるドローイングやスケッチブック、さらにインタビュー映像も上映されており、その制作背景を多角的に知ることができる。

会場で話す松本陽子

 関係者向けの内覧会が行われた5月22日は、松本の90歳の誕生日であった。作品を前に、これまでの制作の軌跡や作品に込めた想いを語る松本は、最後に「命ある限り創作活動を続ける」と言葉を結んだ。本展は、創作への熱意を燃やし続けるひとりの画家の、65年にわたる画業の軌跡を辿るとともに、これからの新たな展開をも予感させる貴重な機会となっている。