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2026.5.18

「内間安瑆・俊子展 色を織り、記憶を紡ぐ」(神奈川県立近代美術館 葉山)会場レポート。日米を舞台に深化を遂げた独自の美学

神奈川・葉山の神奈川県立近代美術館 葉山で、「内間安瑆(あんせい)・俊子展 色を織り、記憶を紡ぐ」が開催されている。会期は5月31日まで。会場をレポートする。

文・取材=大橋ひな子(編集部)

内間安瑆を紹介する第3章「色を織る一〈Forest Byobu森の屏風〉[1977-1982]」の展示風景
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 神奈川・葉山の神奈川県立近代美術館 葉山で、「内間安瑆(あんせい)・俊子展 色を織り、記憶を紡ぐ」が開催されている。会期は5月31日まで。担当は同館主任学芸員の西澤晴美。

内間安瑆と俊子

 内間安瑆(1921〜2000)は、沖縄からアメリカへ渡った両親のもとに誕生。少年時代を米・ロサンゼルスで過ごした後、1940年に来日し早稲田大学で建築を学ぶ。その後、恩地孝四郎の創作版画に感銘を受け木版画に取り組み、59年以降はニューヨークを拠点に制作を続けた。70年代後半には、浮世絵版画の技法にもとづく「色面織り」の技法を確立し、色鮮やかな「Forest Byobu(森の屏風)」シリーズにより評価を高め、82年に病に倒れるまで制作活動を展開した。

 内間俊子(1918〜2000)は中国・大連で幼少期を過ごし、1935年に神戸に移り住む。小磯良平に絵画を学んだ後、53年には瑛九らによる前衛的なグループ「デモクラート美術家協会」に参加。この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、抽象的な油彩画や木版画を制作するようになる。59年に夫・安瑆とともにアメリカに渡り、60年後半からはコラージュやボックス型のアッサンブラージュの制作を続けた。

俊子の第1章「デモクラート美術家協会の時代[1953-1956]」の展示風景

 本展は、版画やコラージュ作品を中心に、2人の独自性のある創作世界を振り返るもの。安瑆については2014年、沖縄県立博物館・美術館で回顧展が開催されたが、俊子については初期から晩年までの軌跡を辿る初めての機会となっている。また、戦後の激動の時代において、日米のアーティストや文化人のネットワーク形成に尽力した両者の功績を再評価し、イサム・ノグチや長谷川三郎、棟方志功など関連作家の作品もあわせて紹介することで、戦後美術の新たな一面に光を当てることを試みる機会となっている。

第1章:40〜50年代

 本展は、安瑆と俊子それぞれの作品を3章ずつに分け、時系列に沿って紹介する構成だ。同一の空間に両者の作品を展開することで、時代ごとに2人の制作活動がどのような変遷を遂げたのか、その歩みを比較しながら辿ることができる。

 安瑆を紹介する第1章「版画との出会い一日本時代[1940-1959]」では、40年に来日した後に手がけた油彩画から、木版画の制作へと移行していく過程が紹介されている。

安瑆の第1章「版画との出会い一日本時代[1940-1959]」の展示風景

 早稲田大学専門部建築科の在学中から熊岡洋画研究所に通って油彩画を学んでいた安瑆は、50年代から団体展に抽象的な油彩作品を出品する。53年には第17回自由美術家協会展に出品した《親密なる会話》(1953)で初入選。本作は貴重な安瑆の初期油彩画のひとつだ。戦後、抽象画が隆盛するなか、安瑆も抽象表現を研究していたことがわかる。

 その後、54年に創作版画コレクターのオリヴァー・スタットラーによる日本人版画家への取材に通訳として同行したことが後押しとなり、本格的に木版画の制作を開始。同年、青原俊子と結婚する。

内間安瑆《祭太鼓》(1957)84.7×59cm 紙に多色木版 個人蔵

 木版画制作をはじめた50年代後半は、恩地孝四郎の影響を感じさせる抽象的な作風で、マルチブロック・プリント(多版材版画)の手法を試みる。55年4月に第23回日本版画協会展に出品し会員に推挙され、12月には養清堂画廊で初個展を開催、さらに翌年にはシェル美術賞3等を受賞するなど、国内での評価も高まる。57年には、棟方志功を思わせる黒く直線的な版を用いた作品群が登場。会場で紹介されている《祭太鼓》(1957)もそのひとつだ。

内間安瑆《五輪:空》(1959)39.7×84.2cm 紙に多色木版 個人蔵

 同年には第1回東京国際版画ビエンナーレ展へ招待出品し、国際的にもその活動が紹介された。58年頃からはさらに作風が展開し、豊かな色彩が用いられるようになる。59年の第5回サンパウロ・ビエンナーレでは《五輪:空》(1959)を含めた計10点を出品した。

俊子の第1章「デモクラート美術家協会の時代[1953-1956]」の展示風景

 俊子の第1章「デモクラート美術家協会の時代[1953-1956]」では、俊子が50年代前半に参加した「デモクラート美術家協会」での活動が紹介されている。機関誌『デモクラート』の表紙やカットを担当しながら、デモクラート展に出品を重ねるなど、積極的に活動に参加していた。この時期の俊子の作品は、豊かな色彩によって有機的形態を描いた抽象的なものが多い。同時期に手がけていた、童話集などの子供向けの書籍の口絵・挿絵にもその特徴が表れている。

『瀧口修造の詩による版画集 スフィンクス』(1954)に寄せられた版画作品。手前は、内間俊子《魚の欲望》(1954)16.2×15.7cm 紙に多色木版 個人蔵

 54年には、評論家の久保貞次郎からの依頼により版画集『スフィンクス』の制作に携わる。この版画集は、北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人、俊子の6名が瀧口修造の詩に1点ずつ作品を寄せたもので、このときに制作した木版画《魚の欲望》(1954)が俊子にとって最初の版画作品となる。ほか5名の作品はモノクロだが、俊子の作品のみ多色木版となっている点に注目したい。

第2章:60〜70年代

 安瑆の第2章「版による空間表現の探究[1960-1976]」では、59年に帰米した後、アメリカ国内外での版画展を中心に出品を重ねていた60年代以降の作品が紹介されている。この頃、70年の第35回ヴェネチア・ビエンナーレに出品された作品のひとつである《Misty Morn》(1964)に見られるように、複数の版や落ち着いたトーンの色彩によって抽象的な作品を手がける。安瑆は長谷川等伯の影響を受けたことを自身で明らかにしており、間や余白を重視した日本的な美的感覚、墨の濃淡で遠近感を表現する水墨画の手法を取り入れようとしていたことが推察できる。

内間安瑆《Misty Morn》(1964)52.2×40.6cm 紙に多色木版 個人蔵
安瑆の第2章「版による空間表現の探究[1960-1976]」の展示風景

 その後作風はさらに展開し、74年に制作した《Space Poem (A)》(1974)をはじめとして、次第に作品は明るい色彩で構成されていく。会場には、この時代に版画作品を制作する前に描いていた鉛筆や水彩によるドローイングも紹介されており、安瑆が版画制作にあたって緻密に計画を練っていたことがうかがえる。

 俊子の第2章「木版画の時代[1956-1968]」では、56〜66年に活動を行っていた女流版画会での活動を中心に紹介している。会のメンバーは、𠮷田千鶴子、岩見禮花、小林ドンゲ、野中ユリら9名。59年にアメリカに渡ってからは、女流版画会の海外展の開催にも貢献した。

内間俊子《愛の讃歌》(1957)60.1×45.2cm 紙に多色木版 個人蔵

 俊子の初期の木版画作品のテーマは、生物と植物を掛けあわせたような有機的な形体から展開したものが多い。しかしその後、千鳥格子を変形させた模様を多く用いたり、風景や建物、また日用品などの描写を主体とする作風に変化していく。最後の木版画作品と言われる《ノクターン》(1967)には、レースが版の一部として用いられているが、翌年に制作された同タイトルの作品ではレースそのものをコラージュしている。木版画からコラージュへ移行する過程が垣間見える貴重な作品だ。

左:内間俊子《ノクターン》(1968)39.4×38cm コラージュ、紙に水彩 右:内間俊子《ノクターン》(1967)58.2×39.6cm 紙に多色木版 個人蔵 

第3章:80年代以降、関連作家の紹介

 安瑆の第3章「色を織る一〈Forest Byobu森の屏風〉[1977-1982]」では、77年以降、安瑆が制作に用いた「色面織り」という独自の手法によって制作された作品が展開されている。この手法は、色面のモザイクで全体を構成し、色の対比によって奥行きや量感、光のトーンを表現するものだ。本手法を用いた最初の作品が《Light Mirror, Water Mirror》(1977)。この後79年に、自然に囲まれたニューヨーク北部郊外のシュラブ・オークにアトリエを構え、それ以降木々の間に見える光や、季節や天気によって異なる色彩のイメージを表現する「Forest Byobu(森の屏風)」シリーズが展開されていく。

内間安瑆《Light Mirror, Water Mirror》(1977)46.3×70.7cm 紙に多色木版 ときの忘れもの 「色面織り」を用いた最初の作品
内間安瑆《Unfinished (Forest Fantasy)》(1982)52.8×89cm 紙に多色木版、手彩色 個人蔵

 この色面のなかに、82年頃から人体を登場させる試みをはじめる。しかしその最中、安瑆は脳卒中で倒れ、制作を断念することを余儀なくされた。会場には、制作が叶わなくなった試作段階の作品《Unfinished (Forest Fantasy)》(1982)も展示されている。

 俊子の第3章「記憶を紡ぐーコラージュとアッサンブラージュ[1968-2000]」では、木版画から離れたのちに手がけたコラージュ作品が紹介されている。俊子のコラージュはふたつに大別できる。ひとつは紙やボードの上にポストカードや写真などを切り貼りし、周囲にパステルで描画を施した平面作品。もうひとつは、アンティークの玩具やオブジェなどを組み合わせて箱の中に配置した立体のコラージュ(ボックス・アッサンブラージュ)だ。

内間俊子《Anju Baby 1960》(1968〜70)16.8×11.7cm 紙にコラージュ 個人蔵

 身近な素材を用いて制作されたこれらの作品群は、俊子が日常のなかで掴んだ感覚を表現するのに適した方法だったとも考えられる。《Anju Baby 1960》(1968〜70)は息子・安樹の写真を用いた作品だが、その周りに哺乳瓶のミニチュアや天使の切り抜きが配置され、子供への愛情が表現されていることが伝わってくる。ほかにも自作の短歌を表した《花冷えの宵》(1993)やストライプハウス美術館(現・ストライプハウスギャラリー)で開催された「内間安瑆・俊子二人展」の出品作である《幻想風景》(1993)など、多様な展開を見せるコラージュ作品が紹介されている。

俊子の第3章「記憶を紡ぐーコラージュとアッサンブラージュ[1968-2000]」の展示風景

 安瑆が脳卒中で倒れた後、俊子は家事と介護をこなすことになったが、それでも制作をやめることはなく、つねに新作を発表し続けた。《His Palette》(1994)と《His Baren》(1989)は、安瑆の看病期間に制作されており、それぞれの作品には安瑆が実際に使っていたパレットやバレンが素材として用いられている。

左:内間俊子《His Palette》(1994)42.5×53.5×9.5cm ミクストメディア 右:内間俊子《His Baren》(1989)36.4×28.5×7cm ミクストメディア 個人蔵

 本展では、「関連作家 一戦後日米の芸術家ネットワーク」と題されたセクションも設けられている。アメリカと日本を行き来したふたりは、日米のアーティストや文化人のネットワーク形成に様々な場面で尽力している。イサム・ノグチや長谷川三郎、棟方志功などもその関連作家の一部として挙げられるが、なかでも、猪熊弦一郎や、デモクラート美術家協会の泉茂や靉嘔、女流版画会の𠮷田千鶴子らとは家族ぐるみで交流を続けていたという。会場では、安瑆と俊子の旧蔵品を中心に、これら関連作家の作品が紹介され、当時の日米の美術交流の様子を垣間見ることができる。

 戦後、日米を拠点に独自の活動を展開した内間安瑆と俊子。本展は、これまで十分に紹介されてこなかった両者の活動を包括的に再考する機会となっている。夫婦という関係にありながら、各々が独自の表現領域を確立していったその創造の軌跡を目の当たりにすることができるだろう。