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2026.2.22

「福田尚代 あわいのほとり」(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館)開幕レポート。境界をほどき、新たな生の誕生を目の当たりにする

神奈川・鎌倉にある神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で、美術家・福田尚代の初期から現在に至る主要な作品を紹介する個展「福田尚代 あわいのほとり」がスタートした。会期は5月17日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=三澤麦(編集部)

「福田尚代 あわいのほとり」展示風景より、《漂着物/波打ち際》(2002-26)
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 神奈川・鎌倉にある神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で、美術家・福田尚代(1967〜)の初期から現在に至る主要な作品を紹介する個展「福田尚代 あわいのほとり」がスタートした。会期は5月17日まで。担当は同館学芸員の朝木由香。

 福田は、幼少期に抱いた「言葉は小さな粒である」という独自の思索を、言葉と美術によって探求してきた美術家だ。本展では、1990年代の初期作から新作までのおよそ20組の作品が、同館特有の展示空間を生かして構成されている。

「福田尚代 あわいのほとり」展示風景

 福田は本展の開催が決まった後、この鎌倉の地へ何度か足を運んだ。海や波打ち際、岬といった景観を視覚的に受容した福田は、やがて海の夢を見るようになったという。

 「波打ち際が、まるでリボンのように切り取られていて……」。夢のなかで見たそのイメージは、展示室のガラスケースを見た瞬間に会場のイメージへとリンクしたと福田は語る。今回、新作として発表されたインスタレーション《漂着物/波打ち際》(2002-26)は、鎌倉の地との出会いから生まれたものだ。消しゴムを彫り込んで一つずつ制作された粒子のようなピースは、作品名の通り、水の力で砕かれた石や貝殻が混ざりあう砂浜のようであり、同時に、生命の営みを俯瞰しているようにも感じられる。

《漂着物/波打ち際》(2002-26)。偶然か必然か素材の配置には規則性を見出すことができ、そこに物語性が生まれている
《漂着物/波打ち際》(2002-26、部分)

 この《漂着物/波打ち際》と対をなすように配置されているのが、福田が愛読する文庫本のページを折り込んで制作された《翼あるもの/岬》(2003-25)だ。折り重なるページから立ち現れる言葉は、物語からの解体であると同時に、隣りあう本と呼応して新たな物語を紡ぎ出しているようにも見える。

 展示室では、この「波打ち際」と「岬」のあいだを縫うように複数の作品が点在している。それぞれの作品から解き放たれた粒子が、この“あわい”で混ざり合っているかのようであった。

《翼あるもの/岬》(2003-25)。ページが折り込まれ広がった文庫本は、まるで翼を広げた鳥のようにも見える

 ここで、展示室入口に投影されていた、本展のために書き下ろされた回文の詩に思いを馳せる。正面の壁には、本展のために書き下ろされた回文の詩が投影されている。連ねられた言葉はひとつの詩を成しながらも、一文字一文字が粒子のように漂う。この揺らぎと、回文という終着点のない往還は、先述のインスタレーション、ひいては福田の創作に対する姿勢そのものを表している。

壁面に投影された《あわいのほとり》(2025-26)。両面に詩が印刷された手前の紙は、表面のすべてがひらがなで綴られており、その表記が言葉のまとまりをほどくことで、揺らぎをより一層感じさせている

 初期作品も展示されている。東京藝術大学の院生時代に制作された《不忍、蜘蛛の糸》(1992)は、横幅430センチメートルに及ぶ大型作品だ。遠くから見ると帯状の淡い色彩が混ざり合っているように見えるが、凝視すれば小さな文字で無数の「蓮」という字が書き込まれていることに気づく。福田が抱き続けてきた「言葉は小さな粒である」という感覚が、初期から表出していることがよくわかる作品だ。

《不忍、蜘蛛の糸》(1992)の展示の様子
《不忍、蜘蛛の糸》(1992、部分)

 さらに注目したいのは、少女マンガの登場人物をコラージュし、再構成したシリーズだ。輝く瞳、髪、細く長い指といった記号が解体され、粒子となり、そして新たな形へと生まれ変わっている。イメージが解体されているのにもかかわらず、少女マンガ特有の“らしさ”が息づいていることに、純粋な驚きを覚える。

《ひと粒の泡のなか》(2023)。経年による紙の褪色が独特の色合いと陰影を生み出している。紙の美しい張り合わせも目を引く

 「あわいのほとり」という展覧会名は、福田が続けてきた境界を解きほぐすような活動をよく表している。「ものを小さくしていく行為は手段であり、粒子になったそれらは、時間を超え、より遠くまで行ける感覚があります」と福田は語る。

 福田によって解体される前の消しゴムや言葉といった「もの」には、意味や用途といった役割があった。その役割から解放することで生まれた粒子の数々が、会場で新たな生をかたちづくっていく。作品の前に立つ我々は、世界が新しく生まれ変わる瞬間に立ち会っているのかもしれない。