2025.12.27

タイ初の国際現代美術館「Dib Bangkok」がバンコクに誕生。東南アジアにおける現代美術の新たな拠点に

バンコクに、タイ初となる国際現代美術館「Dib Bangkok」がオープンした。約40年前に構想され、ひとりのコレクターの夢として始まった計画は、世代を超えて公共的な文化機関へと姿を変え、いま世界と接続する新たな拠点として立ち上がる。

文=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace
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バンコクに誕生した新たな「国際現代美術館」

 バンコクに、タイ初となる国際現代美術館「Dib Bangkok(ディブ・バンコク)」が誕生した。

 同館の構想は、タイを代表する実業家であった故ペッチ・オサタヌグラによって、約40年前に描かれたものだ。その遺志を継ぎ、構想を現実のものへと結実させたのが、息子であり同館のファウンディング・チェアマンを務めるプラット(チャン)・オサタヌグラである。2023年に父を亡くした後、チャンは中核となるチームを招集し、美術館を私的な夢から公共的な文化機関へと転換。グローバルな視座を備えた現代美術コレクションの拡充とともに、東南アジアにおける新たな国際的プラットフォームの構築を進めてきた。

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 美術館名の「Dib」は、タイ語で「生(なま)」「素材のまま」「飾り気のない真正な状態」を意味する言葉である。その精神は、館のミッション、建築、そしてプログラム全体に貫かれている。チャンは本館の理念について、「タイと世界をつなぐ“橋”となり、新たな観客を育てていくこと」を戦略的な目標に掲げると語る。

 「現代美術は、映像のようにストリーミングで消費できるものではありません。実際にその場に足を運び、身体を通して体験することで、日常のリズムを揺さぶり、鑑賞者に問いを投げかける。その点に、現代美術の特別さがあるのだと思います」。

Dib Bangkok 正面ファサード Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 Dib Bangkokは、バンコク東部の伝統的な荷降ろしエリアに位置し、1980年代に建てられた倉庫建築を改修した施設である。設計を手がけたのは、WHY Architecture主宰の建築家クリパット・ヤントラサストと、タイを拠点とする建築設計事務所Architects 49(A49)。総面積約7000平米に及ぶ11の展示室をはじめ、1400平米の中庭、屋外彫刻庭園、特別イベント用のペントハウス空間などを備える。

 展示空間は3層構成となっており、仏教における「悟り」の概念を着想源に、上階へと進むにつれて体験が深化していく設計がなされている。地上階は建物の産業的な記憶を留めたコンクリートの質感が支配し、第2層では、タイ華人建築に由来する格子窓を活かした、親密で内省的な雰囲気が立ち上がる。最上階にはトップライトを備えたホワイトキューブ空間が広がり、北側には鋸屋根を用いた象徴的な構造が採用された。

中央は磁器モザイクタイルで覆われた円錐形の展示空間「チャペル」 Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 敷地内には、磁器モザイクタイルで覆われた円錐形の展示空間「チャペル」や、水盤に囲まれたアプローチ、独立したビストロと多目的スペースも配置されている。都市の喧騒と隣り合わせにありながら、館内に一歩足を踏み入れると、時間の流れが緩やかに変化する構成だ。

水盤に囲まれたアプローチ Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 チャンは、Dib Bangkokが提示したい体験について、次のように語る。「バンコクの街は、渋滞、トゥクトゥク、騒音、匂い、ナイトライフと、つねに刺激に満ちています。でもDibに入ると、多くの人が自然と『少しペースが落ちる』と感じるはずです。この美術館は、タイに、バンコクに、そして訪れる人々への“贈り物”だと思っています。立ち止まり、呼吸を整え、ゆっくりと考えることができる場所であってほしい」。

Dib Bangkok 中庭 Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

見えざるものの気配をたどる──開館記念展「(In)visible Presence」

 Dib Bangkokの開館記念展として開催されている「(In)visible Presence」(〜2026年8月3日)は、美術館の広大な敷地と複数の展示空間を横断しながら、同館のコレクションを中核に構成された展覧会である。建築と呼応するかたちで設計された本展は、「過去が未来を導く」という思想のもと、3層にわたる物語的な展示動線を描き出す。中心に据えられているのは、「私たちは、目には見えないが大切なものを、どのように記憶しているのか」という問いだ。

 初代館長を務める手塚美和子は、本展の出発点について次のように語る。「開館記念展では、私たちがいま立っているこの場所の『土台』を築いてきた人々に敬意を表したいと考えました。ペッチ氏をはじめ、ここにはいない多くのアーティストやアート関係者たち──私たちはいまも、彼らの存在を身近に感じています。その思いから、『(In)visible Presence(見えざる存在)』というタイトルを選びました」。

 目には見えずとも、確かに周囲に満ちている気配や記憶。その存在を感じ取ることが、本展の第一の動機となっている。第二の軸として据えられているのが、グローバルな現代美術の紹介である。現代美術のエコシステムが、なお発展途上にあるバンコクにおいて、国際的なコレクションを有する美術館として、「現代美術とは何か」「それが持ちうる可能性とは何か」を提示することは、重要な役割だと手塚は位置づける。

イ・ブル《Willing to be Vulnerable – Metalized Balloon》(2019)の展示風景 撮影=筆者
スボード・グプタ《Incubate》(2010)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Auntika Ounjittichai, 2025

 展示は、美術館の建築構成に沿って、階を上がるごとに体験の質を変化させていく。地上階では、イ・ブルやスボード・グプタによる大規模なインスタレーションなど、身体感覚に強く訴えかける作品群が来館者を迎える。天井がもっとも低い第2層では、アレックス・カッツの絵画作品や、アピチャッポン・ウィーラセタクンの映像、レベッカ・ホルンの彫刻などが並び、より親密で、記憶や内面性を喚起する空間が立ち上がる。

レベッカ・ホルン《The Lover's Bed》(1990)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Monruedee Jansuttipan, 2025

 そして最上階では、光に満ちた空間のなかで、アンゼルム・キーファーの大規模彫刻をはじめ、「タイ現代美術の父」と称されるモンティエン・ブンマーのインスタレーション群など、時間や存在を拡張的にとらえる作品が展開されている。

アンゼルム・キーファー《Der verlorene Buchstabe》(2019)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Auntika Ounjittichai, 2025
モンティエン・ブンマー《Zodiac Houses》(1998–99)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Monruedee Jansuttipan, 2025

 展示は館内にとどまらず、屋外空間へと拡張されている。中庭には、アリシア・クヴァーデによる《Pars pro Toto》(2020)が設置され、直径70〜250センチに及ぶ11個の石の球体が、惑星系と物質性をめぐる詩的な思索を空間にもたらす。また、ジェームズ・タレルによるタイ初の常設インスタレーション《Straight Up》(1998)は、「見る」という行為そのものへの意識を開き、鑑賞者を「光の礼拝堂」のような空間へと誘う。

アリシア・クヴァーデ《Pars pro Toto》(2020、部分)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Auntika Ounjittichai, 2025

 手塚は、こうした展示体験の根底にある考え方について、次のように補足する。「現代美術は、視覚やイメージだけで完結するものではありません。香りや触覚、音といった、多感覚的な体験を伴うものです。同時に、すでに知識のある鑑賞者だけでなく、初めて現代美術に触れる方々にも開かれた場でありたいと考えています」。

 「そのため、鑑賞者が作品と関わり、参加できる瞬間や、ただリラックスできる空間を館内に意図的に設けました。美術館にいることを一時忘れ、リビングルームやラウンジにいるような感覚で、心を開いてもらえたらと思っています。日常の延長線上にある、自然で心地よい体験──それこそが、Dib Bangkokが大切にしたい姿勢です」。

コレクションがつくる時間軸──未来へ手渡される創造の声

 Dib Bangkokの活動の核となるのが、グローバルな現代美術に特化した恒久コレクションである。1960年代から現在に至るまで、絵画、彫刻、写真、大型インスタレーション、ニューメディアなど多様な表現を網羅し、世界200名以上のアーティストによる1000点超の作品で構成されている。そこに共通するのは、人間存在の複雑さに深く踏み込み、認識を揺さぶり、対話を促す力を備えている点だ。

 ファウンディング・チェアマンのチャンは、このコレクションの成り立ちを「きわめて私的な旅」に根ざしたものだと語る。「父にとっても、私にとっても、アートは精神的な旅でした。日常の混沌から一歩距離を置き、自分自身を取り戻すための、ある種のセラピーのような存在だったのです」。

ソンブーン・ホルティエン《The Unheard Voice》(1995)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Monruedee Jansuttipan, 2025

 コレクションは長い時間をかけて形成されてきたが、近年も積極的な拡充が続いている。昨年だけでも50〜60点の作品が新たに加えられ、欠けていた視点や時代の断片が補完された。チャン自身、現代美術への理解は一朝一夕に得られたものではないと率直に認める。「スポーツや筋肉と同じで、ある程度“鍛え”なければ、本当の面白さは見えてこない。私自身でさえ時間がかかりました。だから一般の方が、現代美術を難しく感じるのは当然だと思います」。

 その実感こそが、「より多くの人とアートの喜びを共有するにはどうすればよいのか」という問いを彼にもたらした。チャンはこの関係性を「アートは海のようなものだ」という比喩で説明する。泳ぎ慣れた者もいれば、まだ水に入ることに不安を覚える者もいる。重要なのは、それぞれが自分に合った深さ、自分なりの関わり方を見つけることだという。Dib Bangkokが目指すのは、一般の観客が無理なく引き込まれつつ、同時に専門家にとっても新たな発見がある、その両立点──いわば「適切な水深」を提示することである。

アピチャッポン・ウィーラセタクン《Morakot (Emerald)》(2007)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Auntika Ounjittichai, 2025

 こうしたコレクションの運用と並行して、手塚は美術館のプログラム全体を貫くキュラトリアルの時間軸を構想している。「私が考えているキュラトリアル戦略は、長編小説を書くことに近い感覚です。開館記念展は、その冒頭章、あるいはプロローグにあたります。次の章では、前章の要素を引き継ぎながら、異なる方向へと展開していく。物語はそうやって連なっていくのです」。

 また手塚は、「Dibのコレクションは、人間性(ヒューマニズム)と精神性への信頼を基盤とし、時代や地域、文化の違いを越えてアーティスト同士が対話できる『開かれた場』として構想されている」と語る。展覧会プログラムによっては、アーティストが実際にこの場所に集い、作品を介して直接対話する機会も設けられる予定だという。

 「私たちの役割は、たんに作品を集めることではありません」とチャンは付け加える。「いま活動しているアーティストを支援し、作品を保存し、同時代の創造的な力が生み出す物語を伝えていくことです。これは、父のビジョンの上に、私たちの世代が新たに加えた使命です」。

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 バンコクには、2024〜25年にかけて開館したバンコク・クンストハレとカオヤイ・アート・フォレストをはじめ、バンコク芸術文化センター、ジム・トンプソン・アート・センター、SAC Gallery、Nova Contemporary、さらにはリクリット・ティーラワニットが共同設立したGallery VERなど、多様なアートスペース・ギャラリーが存在している。民間セクターの関与が加速するなかで、Dib Bangkokが担うべき役割について、手塚は「人々が集い、継続的な関係を築くための『ハブ』となり、一貫性と持続性を備えた場を提供することにある」と指摘する。

 「偉大な都市には、必ず偉大な美術館がある」とチャンは語る。タイの現代美術館としての使命について、彼は次のように位置づける。「もし現代美術館が存在しなければ、50年後、誰が記憶されるでしょうか。私たちの時代の創造的な声は、意識的に保存されなければ、簡単に失われてしまいます」。

 過去を記録し、現在の声を支え、未来へと手渡す。その長い時間軸のなかで、Dib Bangkokは、バンコク、そして東南アジアにおける現代美術の新たな基点として、確かな歩みを始めている。

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace