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2025.2.2

「メキシコへのまなざし」(埼玉県立近代美術館)開幕レポート。いかに日本人アーティストはメキシコ美術の「精神」に呼応したのか

埼玉・浦和の埼玉県立近代美術館でメキシコ美術が日本の美術に与えた影響を様々な角度から検証する展覧会「メキシコへのまなざし」が開幕した。会期は5月11日まで。

文・撮影=安原真広

展示風景より、左から岡本太郎《赤》(1961)、《建設》(1956)川崎市岡本太郎美術館蔵
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 埼玉・浦和の埼玉県立近代美術館で、戦後日本がメキシコ美術に向けたまなざしを様々な角度から検証する展覧会「メキシコへのまなざし」が開幕した。会期は5月11日まで。担当は同館学芸員の吉岡知子。

 本展は全3章構成。冒頭の第1章「メキシコ美術がやってきた!」では、日本においてメキシコ美術が高い注目を浴びるようになった、1950年代を振り返る。

会場エントランス

 日本でメキシコ美術が注目されるようになった最大の契機は、1954年の日墨文化協定調印を記念し、翌年開催された「メキシコ美術展」だ。本展は美術家たちに衝撃を与えたことで有名だろう。本章では同展で紹介された、メキシコ壁画運動の代表的な画家として知られるディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ=シケイロスや、次世代のルフィーノ・タマヨの作品を中心に紹介している。

 メキシコ美術を語るうえで欠かせない壁画運動の源流は、1910年から起こったメキシコ革命にある。革命以前のヨーロッパ文化を偏重する潮流を否定して「メキシコ的なるもの」を求めた政府は、国の歴史やアイデンティティを民衆に共有するため、公共建築の壁面を画家に提供し壁画の制作を依頼した。これは、識字率の高くなかったメキシコにおいて、広く革命の思想を伝えるための重要な役割を果たし、同国の美術において大きな存在となっていく。

第1章「メキシコ美術がやってきた!」展示風景より

 この壁画運動における代表的な存在がディエゴ・リベラだ。ヨーロッパに学び、キュビスムやルネサンス期の壁画に造詣の深かったリベラは、帰国後に壁画運動に参加。大規模な壁画に取り組み西欧から注目されるようになる。

 リベラのほか、スペインのアステカ帝国征服を題材にした作品を多く残したホセ・クレメンテ・オロスコ、帝国最後の皇帝・カウテモックを題材にしたダビッド・アルファロ=シケイロス、ヨーロッパの美術を吸収しながら絵画を追求したルフィーノ・タマヨなど、本章では「メキシコ美術展」で数多くの点数が紹介された作家の作品が並ぶ。また、1936年に帰国するまでメキシコを拠点に活動し、日本へのメキシコ美術紹介の嚆矢となった北川民次も、本性においては重要な存在といえるだろう。

第1章「メキシコ美術がやってきた!」展示風景より

 第2章「美術家たちのメキシコ ―5人の足跡から」では、メキシコに魅了された美術家のなかから、岡本太郎、福沢一郎、芥川(間所)紗織、利根山光人、河原温の5人に焦点を当て、それぞれかどのようなかたちで自身の表現に反映させていったのかを紹介する。

 岡本太郎は1930年代、留学中のパリでシュルレアリストなどを通じてメキシコの芸術運動に衝撃を受けており、「メキシコ美術展」には実行委員として携わった。とくに大衆のための芸術というメキシコ壁画運動は岡本の思想とも共鳴し、強い影響を与えている。旧東京都庁舎に7点(11面)の陶板壁画を制作、さらにメキシコのホテルのために現在は渋谷駅にある《明日の神話》などは、まさに岡本とメキシコとの呼応によって生まれたといえる。

展示風景より、奥左から岡本太郎の作品群

 岡本は1963年にメキシコを初来訪。また、70年の大阪万博のテーマ展示プロデューサーに内定した後にも訪れた。岡本は、現地で細やかなリサーチを行っており、メキシコは岡本の作品のなかに強く流れる血脈になった。

展示風景より、左から岡本太郎《赤》(1961)、《建設》(1956)川崎市岡本太郎美術館蔵

 福沢一郎は53年から54年にかけて中南米を来訪し、いち早くメキシコ文化を紹介している。「メキシコ美術展」開催に際しては日墨間の仲介役を務め、『美術手帖』54年8月号では35ページにわたり「特集・メキシコ」を発表した。

展示風景より、福沢一郎《顔》(1953)

 福沢の絵画にはその色彩やモチーフにおいて明瞭にメキシコ美術からの影響が見てとれるほか、公共の場における大型の壁画も作成している。

展示風景より、左から福沢一郎《埋葬》(1957)、

 岡本、福沢が「メキシコ美術展」以前からメキシコ美術からの影響を受けていたのに対し、芥川、利根山、河原は同展から直接的な刺激を受けたといえるだろう。

 海外訪問の経験を経て、日本の伝統文化に根ざした現代美術のあり方を模索していた芥川は、「メキシコ美術展」において展示されていたルフィーノ・タマヨの色彩に強く惹かれる。

展示風景より、芥川(間所)紗織の作品群

 その色彩の源泉にメキシコの民芸品があることを見出した芥川は、民衆のための芸術としての壁画運動へも共感し、日本において古代と現代を接続するような作品を制作するようになっていく。会場では当時の日本人の実存とともに、『古事記』を始めとする古代からのアイデンティティを探るような作品を見ることができる。

展示風景より、芥川(間所)紗織の作品群

 労働者など戦後の社会状況で生きる人々の営みに寄り添おうとした利根山光人は、ヨーロッパからの美術の無批判な受容に否定的だった当時、利根山は、「メキシコ美術展」に強い刺激を受けた。59年にメキシコに渡り、メキシコの人々の営みにより肉薄し、その精神に共感しながら作品を制作することになる。

展示風景より、利根山光人の作品群

 やがて利根山はメキシコ国立近代美術館で個展を開催。さらに日本でのダビッド・アルファロ=シケイロスの個展開催にも尽力した。以後、日墨を行き来しつつ、メキシコへの深い愛情をもって遺跡や民芸品を尋ねながら作品に反映させていった、まさにメキシコをその創作の中心に据えた作家といえるだろう。

 いっぽう、戦後の現代美術を代表する日本人作家のひとりである河原温は、メキシコ美術に影響を受けながらも、独自の距離感をもって対峙した。河原は「メキシコ美術展」に一定の評価を下しながらも、そこにある浅薄なエキゾチシズムについては批判的だった。

展示風景より、河原温《20 ABR. 68》(1968)と資料

 しかし河原は59年に父親の赴任先であるメキシコに渡り、62年まで美術学校の学生として滞在。当時の活動の詳細はわかっていないことが多いが、わずかな資料からは、言語やコミュニケーションにまつわる実験を試み、コンセプチュアルな展開につながる下を準備していたことがわかる。さらに、68年にはメキシコを再訪問。「日付絵画」のシリーズ「Today」においては、メキシコでの経験から移動や多言語の要素が加わるなど、その活動にはメキシコからの影響が存在していたことがうかがえる。

 第3章「埼玉とメキシコ美術」では、埼玉県ならびに埼玉県立近代美術館がメキシコとどのような関係を取り結んできたのかを紹介している。

 埼玉県立近代美術館は開館当初からメキシコ美術を収集していたが、その理由に埼玉県とメキシコ州が1979年に姉妹提携を締結していること、そして初代館長の美術評論家・本間正義(1916〜2001)がメキシコへの造詣が深く、数々のメキシコ美術展を国内で開催してきたことが挙げられる。

展示風景より、左がルイス・ニシザワ《憂愁》(1997)

 ここではルフィーノ・タマヨや日系二世のルイス・ニシザワなどを紹介するとともに、埼玉においてメキシコ美術がどのように紹介されてきたのかを展示する。

第3章「埼玉とメキシコ美術」展示風景より

 1954年の「メキシコ美術展」が当時の日本の美術界に大きな影響を与えたことはよく知られているが、本展ではその受容が作家によっていかに異なり、どのような距離をもってメキシコと対峙したのかがわかりやすくひも解かれる。館のアイデンティティを再確認するとともに、現代の美術までつながっているメキシコからの道のりが見えてくる展覧会となっている。