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2026.8.12

[特別寄稿]長津結一郎:正解はないが「最適解」はある──アートと合理的配慮を考える

今年4月より各地で上演されたNODA・MAPによる舞台作品『華氏マイナス320°』は、障害や手話が主題のひとつに据えられたことで注目を集めるいっぽう、当事者の鑑賞環境や表象の在り方をめぐり大きな議論を呼んだ。自らの言語が舞台上で扱われながらも鑑賞へのアクセスが限られる不均衡は、現在の表現の現場が抱える課題と言えるだろう。芸術活動の現場において多様な観客とともに作品を共有するための「合理的配慮」とはどのようなものか。また、現場ごとの「最適解」をいかに導き出していくべきか。アートマネジメント、文化政策を専門とする研究者・長津結一郎による寄稿をお届けする。※8月13日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=長津結一郎

筆者がプロデュースに関わった九州大学大橋キャンパスでのコンサート「見える音楽?」の様子(2025年1月) 撮影:富永亜紀子

はじめに

 2026年5月23日、筆者は東京芸術劇場プレイハウスで、キャンセル待ちを乗り越えて当日券を入手し、『華氏マイナス320°』という演劇作品を見た。2時間強ある演目を見終わったあと、スタンディングオベーションが鳴り止まないカーテンコールのなか、拍手をするのもためらいながらじっと舞台を見つめる人々を観客席に見つけつつ、私は以前に自分自身が書いた原稿を思い出していた。

その人を舞台に上げている人は、いったい誰なのだろうか。何のためにその人は、舞台に上がり、
脚光を浴びているのだろうか。その光はいったい、誰が当てているのだろうか。観客は、何に対して拍手しているのだろうか。──「健常者」である「わたしたち」の消費対象として、舞台に上げられる「障害者」という像。(*1)

 2026年4月に東京芸術劇場で初演され、その後J:COM北九州芸術劇場、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場、そして大阪・新歌舞伎座を巡回したNODA・MAP第28回公演『華氏マイナス320°』は、障害、優生思想、生命の価値といった主題を扱った作品である。パンフレットによれば、作・演出の野田秀樹が「ホワイトハンドコーラスNIPPON」のパフォーマンスにふれ、「その手の動き」(*2)に感銘を受けたことを契機として、ろう者の俳優と手話を舞台上に迎えた。

 この作品をめぐっては、上演が始まった当初からSNSを中心に、ろう者・難聴者が作品を鑑賞するための環境について議論や批判が巻き起こり、ろう者・難聴者の文化的権利とアクセシビリティを求める公開要望書が提出されたことも大きな話題を集めた(*3)。またそれだけでなく、障害者やろう者の表象の在り方にまで議論は広がっていったように思う。手話が言語としてではなく演出的な素材として扱われていないか。障害のある人が、健常者が受容する物語を成立させるための象徴として用いられていないか。そして、こうした事象を検証するにも、当事者が作品を鑑賞するうえでの情報保障が行われた回が非常に限定的であったことには、不均衡があるのではないか──。

 このことを受けて、本稿では『華氏マイナス320°』の上演とその反響が投げかけたものについて整理したうえで、芸術活動の現場において合理的配慮とは何か、という問いをあらためて考えてみたい。

表象の課題とアクセスの課題

 『華氏マイナス320°』が示す課題は複数の論点にまたがっているが、筆者の考えでは、大きくは「表象の問題」と「アクセスの問題」に焦点化される。

 まずは「表象の問題」についてである。本作ではろう者の俳優であるMISAKIが出演するとともに、手話が重要な表現として舞台上に現れていた(*4)。ただしそこでは手話が独自の文法と文化をもつ言語としてではなく、演出上の振り付けの一部として用いられていたように見受けられた。言うまでもなく手話は言語であり、ダンスでもパフォーマンスでもないが、そのような演出により、日本手話を使う当事者ですら何を伝えようとしているのか読み取ることが難しい表現になっていたようだった(実際、私のまわりの複数のろう者から同様の感想を耳にした)。

 次に、「アクセスの問題」がある。舞台上では手話が重要な表現として使われていたにもかかわらず、ろう者・難聴者にとって、聴者が得られる情報と同等の情報を取得しながら鑑賞するための環境は限られていた。東京公演における字幕対応は全42公演中2公演にとどまり、他地域の公演でも字幕対応やアクセシビリティ情報が十分に示されていたとは言いがたい状況があった(他方でロンドン公演では当たり前のように英語字幕が投影されていた)。つまり、日本手話を第一言語として用いる人々にとってみれば、自らの言語や文化が舞台上で扱われているにもかかわらず、その言語で作品を鑑賞することは妨げられていたのである。表象される側が、その表象を観客として受け取り、判断し、批評する機会から遠ざけられるという矛盾がここにある。

 異文化を表象するうえでは、文化盗用(*5)とならないよう、相手やその背景にある文化への敬意が欠かせないことは自明であろう。しかし、表現の現場でこうしたことは、往々にしてないがしろにされてしまうことがある。

 そうならない関係を築くためのポイントのひとつに、「合理的配慮」の考え方がある。

*1──長津結一郎『舞台の上の障害者:境界から生まれる表現』九州大学出版会、2018年、i-ii、iv頁。
*2──「【7月2日~11日 ロンドン公演開催】野田秀樹 特別インタビュー」における野田秀樹の発言から(週刊ジャーニー No.1448、2026年6月11日掲載。ONLINE版での最終閲覧は2026年7月28日)。https://www.japanjournals.com/hottopics/special/21002-noda-hideki-interview-2026.html
*3──公開要望書「NODA・MAP第28回公演『華氏マイナス320°』におけるろう者・難聴者の文化権の保障、および日本舞台芸術界全体のアクセシビリティ基準確立を求めて」。一般社団法人日本ろう芸術協会、特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク、We Need Accessible Theatre!の連名で、野田秀樹、NODA・MAP、文化庁長官宛てに2026年5月15日付で発出された。全文は次のリンクから確認できる。https://dasjapan.com/statements2026
*4──手話監修は井崎哲也とコロンえりかであることが当日のパンフレットに記載されていた。この2人はホワイトハンドコーラスNIPPONを立ち上げたことで知られている。
*5──ある文化やアイデンティティの要素を、別の文化やアイデンティティのメンバーが搾取的に利用することを指す。

「理にかなった調整」としての合理的配慮

 2006年に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」(障害者権利条約。日本は2014年に批准)で定義された「合理的配慮」の日本語訳は以下のようなものである。

障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。(*6)

 「配慮」という語感から、合理的配慮は、障害のある人に対して何かを     「してあげる」こと、あるいは善意や思いやりに基づく「特別な対応」のように受け取られやすい。しかし原文を読めばわかるように、「合理的配慮」は親切やサービスの問題ではなく、障害のある人が、ほかの人と同じように社会参加できるよう、参加を妨げている「社会的障壁」を取り除くための具体的な変更や調整のことを言う。英語では reasonable accommodation と表記し、直訳すれば「合理的な便宜」や「理にかなった調整」といった意味になる。

 また、どちらかの都合だけで「合理的」かどうかを判断するのではないという点が大変重要である。障害のある人から出された要望をすべてそのまま実現しなければならない、ということではない。あくまで、障害のある人がどのような社会的障壁に困っているのか、何を実現したいのかを確認し、事業者側の条件や制約も共有したうえで、双方が対話しながら実現可能な方法を探る。そのプロセス全体が、合理的配慮の中心にある。

 障害者権利条約を批准するにあたって、2013年に日本国内で制定、16年に施行された法律が「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」、通称「障害者差別解消法」である。障害を理由とする不当な差別的取り扱いを禁止するとともに、合理的配慮を提供しないことも差別にあたりうるものとして位置づけている。この法律は2024年に改正され、民間事業者にも合理的配慮の提供が法的義務となった。

創造的なプロセスとしての「調整」

 合理的配慮を考える際には、まず障壁がどこにあるのかを見極める必要がある。障壁というと、段差や階段、エレベーターの有無などの物理的なものを思い浮かべやすい。しかしアートの現場では、情報やコミュニケーションの障壁も大きい。例えば美術館や博物館では、展示解説が小さな文字だけで示されていること、映像展示に字幕がないこと、触れられる資料が用意されていないことなどが障壁になりうる。コンサートホールでは、曲目解説やアナウンスが音声中心であること、演奏中の情報を視覚的・触覚的に補う手段がないことなどが問題となる。舞台芸術では、音声のセリフにアクセスできないこと、字幕や音声ガイドの有無が事前にわからないこと、申込方法がわかりにくいことなどが、鑑賞を妨げる障壁となる。このプロセスは、たんに要望を受け入れるか拒むかではなく、当事者と事業者が目的と条件を共有しながら具体的な方法を探るものである(*7)。また、当事者から要望された方法を実現するのが難しい場合でも、事業者はその理由を説明し、代替手段を検討する必要がある。障害のある人にだけ我慢を求めたり、「今回は特別なので仕方がない」「前例がない」「手間がかかる」「作品の邪魔になる」と片づけたりすることも、合理的配慮の考え方とは異なる。

 そのうえでもうひとつ、「過重な負担」でないかどうかがあわせて考慮される点も重要だ。実際にどのような合理的配慮を行うことができるかは、事業への影響、技術的・人的な実現可能性、費用、事業規模、財務状況などを踏まえ、個別具体的に判断されるべきである。

 また、合理的配慮のプロセスは個別対応だけでは完結しない。毎回、障害のある人からの申し出によって初めて検討される状態では、鑑賞や参加の機会は不安定なままになる。そこで重要になるのが、不特定多数の利用者を想定して、あらかじめ環境や情報提供の方法を整えておく「事前的改善措置」である。合理的配慮が個々の人が具体的な場面で直面している障壁に応じて行われる調整であるのに対し、事前的改善措置はそもそも障壁が生じにくいように条件を整える取り組みである。

 このように考えると、アートの現場における合理的配慮は、作品をどのような人に届けるのか、その人たちがどのように鑑賞できるのかを考えるうえで、制作の最初の段階から考えていくべき創造的なプロセスであり、作品が社会のなかで共有されるための条件を整え、結果的に芸術作品の在り方そのものにまで視野を広げるものである。

*6──外務省ウェブサイト「障害者の権利に関する条約」「第二条 定義」より抜粋。https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html
*7──具体的に美術館や劇場・音楽堂でのアクセシビリティの取り組みやポイントなどをまとめた書籍が近年複数出版されている。『障害と向き合う美術館 行けないが行けるに。みるからつくるに。』中西美穂・中川眞編著、今村遼佑・辻並麻由・服部正・福島尚子著、水曜社、2025年。南部充央『舞台情報設計 障害と表現をつなぐ空間デザイン』水曜社、2026年。

正解はないが「最適解」はある

 いっぽう、今回のNODA・MAP公演をめぐる一連の出来事を経て筆者自身、これまでアクセシビリティに関する実践経験がある複数の芸術家たちから、以下のような声を聞いた。

「障害や差別を題材にすると批判されるのであれば、これからは題材として扱うのが難しくなってしまうのではないか」「自分たちはもう、完全な情報保障ができないのであれば、字幕や音声ガイドなどに取り組まないほうが良いのではないか」

 今回の公開要望書は「野田秀樹氏が日本の舞台芸術界において占める位置と、その影響力の大きさ」から提出されているという点が特徴的であり、「ろう者・難聴者が『すべての公演回に』等しく参加できる舞台のあり方を、自らの作品で示していただけませんでしょうか」という言い回しからもうかがえるように、大きな影響力をもつ劇団がアクセシビリティ対応の先鞭をつけてほしい、という思いから書かれたものであろう。ただし実際の公演自体を見ていない多くの演劇関係者たちが、「自分たちもすべての公演回で情報保障を行わなければならないのではないか」とナイーブな反応を示したのもまた事実である。

 ただ、このような萎縮は、いずれも結果として、障害のある人を表現の場からも鑑賞の場からも遠ざけてしまう。もちろん、障害を扱えばそれだけで意義があるわけではないし、不十分なアクセシビリティを「やらないよりは良い」と無条件に評価することもできない。ただしそれでもなお重要なのは、批判を恐れて実践を避けることではなく、批判が生じる可能性を含めて、制作や運営の在り方を更新していくことである(*8)。

 もし仮に健常者の側が障害やその周辺に関わる素材やアクセスの課題に悩んだときは、当事者と協働することから始めるのが重要だ。ともに話をする場を設けたり、とりあえず少しやってみたり、それを振り返ってみたり、ということを繰り返すプロセスが重要であり、そのために時間をかけることをいとわない姿勢が重要だろう。なぜなら、どちらかの思い込みだけでは物事はまったく前に進まないからだ(*9)。

 また、早口のセリフやその抑揚、音の響き、絵画の色彩、会場の雰囲気などを、情報保障という手段を通じて提供したとしても、完全に再現することはできない。しかし、完全に同一の体験を提供できないことは、アクセスの手段を用意しない理由にはならない。必要なのは、作品の複雑さを単純化することではなく、作品にアクセスする入り口を複数つくることである。そのためには、先にも示したように、アクセシビリティを完成後に付け加えるのではなく、制作や事業設計の初期段階から組み込む必要がある。アクセシビリティは、作品を多くの人に楽しんでもらうための入り口づくりなのである。

 すべての作品や文化施設に通用する、共通するひとつの正解があるわけではない。合理的配慮の思想からもわかるように、作品の形式、会場の構造、予算、人員、技術、観客のニーズによって、可能な方法や求められるものは異なり、根本的には個別具体的に判断していくしかない。いわば、万人に通じる正解はないが、できることから一歩ずつ進めることで、その場に応じた「最適解」を追求し続けることが重要なのだ。

 また表象の面に関して言えば、芸術家には困難な主題を扱う自由があると同時に、作品や文化事業は批評から免除されえない。とくに社会的に弱い立場に置かれてきた人々を描く場合、誰の視点で描いているのか、誰の身体や言語を作品のために用いているのか、そこにどのような力関係があるのかが問われる。批評は、作品の内容や技巧を評価するためだけにあるのではない。作品が誰に向けて開かれているのか、誰を置き去りにしているのかを問い直し、次の制作に反映するための手がかりにもなる。

 他者のことをすべて理解することは、誰にもできない。だからこそいま問われているのは、誰をどのように描くかだけではない。誰の視点で描くのか。誰とつくるのか。誰が観客としてアクセスできるのか。誰がその表象を批評できるのか。そして、その声が次の活動にどう反映されるのかである。異なる人たちが異なったままでともにいられる文化の場をつくり続けるために、何が必要なのか。その都度、最適解を見つけ歩んでいきながら、アートの公共性の在り方を考えていくことがいま、問われているのである。

*8──この点では、ろう者と聴者が協働して作品制作を行った際のプロセスを記述した以下の実践を参照することが大変有益であると考えられる。長島確・東彩織『ろう者と聴者が遭遇する舞台作品をつくるときに読むハンドブック』公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、2026年。
*9──ただし、当事者や専門家との関わり方について、あるひとりに障害当事者全体の代表性を負わせることはできない。同じ障害があったとしても、感じ方や考え方が様々であることは当然重要となる。