第94回:藤本伸樹「さらば対立軸、おいで融和の環」

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第94回は、63歳から創作を始め、不自由さをユーモアと工夫で乗り越え表現を続ける藤本伸樹の活動を考察する。

文=櫛野展正

藤本伸樹さん 撮影:筆者
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さらば対立軸、おいで融和の環

強い独立心と自分流のこだわり

 画面からあふれ出す極彩色のエネルギーと、うねるような生命の躍動感。一目見た瞬間、理屈抜きで圧倒されてしまった。驚くのは、これらがすべて、街の文具店の店先に並んでいるような市販のボールペンとラインマーカーだけで描かれているということだ。

 絵具のように色を混ぜ合わせることができない不自由さを逆手に取り、無数のドットを打ち込み、細密な線を執拗に重ね合わせることで、独自の鮮烈なグラデーションを生み出している。それは色を塗るというよりも、光の粒子が画面の上でパチパチと明滅しているかのようにも思える。

藤本伸樹《ビャクシンの木立》(2026)

 例えば、力強く身をよじる樹木の向こうに富士山がそびえる絵を見れば、幹の表面は生き物の細胞のようにうごめく色彩で満たされている。あるいは、異なる生き物たちがそれぞれの泡のような輪郭のなかで心地よさそうに共生する世界。ここには、自然界のあらゆるエネルギーを地続きのものとして捉える、まっすぐで生命力に満ちた眼差しがある。

 いわゆる美術教育の枠からはみ出したアウトサイダー・アートには、どこか内省的で閉じた空気感を持つものも少なくない。しかし、これらの作品から伝わってくるのは、まったく異なるオープンな解放感だ。理屈っぽいモダンアートの気難しさは一切なく、ただ「描くことが楽しくて仕方がない」という、剥き出しの自由と圧倒的に明るいエネルギーが、見る側の心に伝わってくる。

 作者は、静岡県富士市で暮らす藤本伸樹(ふじもと・のぶき)さんだ。藤本さんは1958年に2人姉弟の長男として山口県宇部市で生まれた。

 「父親が設計技師、母親が公務員という家庭に育ちました。いまでいう限界集落のような場所だったので同年代の子供がおらず、自然のなかでひとり遊びをして過ごしていましたね」。

 地方特有の閉塞感を感じていた藤本さんは、高校卒業後に上京し、日本大学文理学部で社会学を学んだ。卒業後は、学生時代にアルバイト先で出会ったモータースポーツのプロモーションを手がけるイベント会社へと就職。華やかな世界の裏側で激務をこなしながら都内で5年ほど勤務したが、経営基盤の弱かったその会社は倒産に追い込まれてしまう。不条理なかたちで最初のキャリアを断たれた藤本さんは、「もう少し自分のできることで、堅実なことを」と考え、製造メーカーのセールス(営業職)の道へと転じた。

 30歳手前から50歳までのあいだ、藤本さんは同業他社への転職を繰り返し、東京、京都、浜松、横浜と各地を渡り歩く生活を送った。振り返ってみると、この頃から強い独立心や自分流のこだわりが、ビジネスの現場でも頭をもたげていたという。旧態依然としたやり方のなかで、理不尽な指示にも文句を言わずに働くような環境は、藤本さんの肌にはどうしても合わなかった。

自分自身の過去を徹底的に見つめ直す

 そんな藤本さんが、もっとも自らの手腕を発揮できたのが、37歳から約13年間勤務した外資系メーカーだった。千葉、浜松、そして大阪を拠点に、日本国内のセールス担当として頭角を現した藤本さんは、持ち前のマネジメント能力を活かして、事業部長のポジションにまで上り詰める。自己流の裁量が許されるこの会社は、藤本さんの気質に合致していた。

 しかし、激しいビジネスの最前線で事業部長として辣腕を振るっていた藤本さんに、突然の転機が訪れる。自らが情熱を注ぎ、国内で立ち上げた新規事業が、ドイツ本国の開発サイドからの意向によって一瞬にして潰されてしまったのだ。外資系特有のグローバルな論理の前に、日本での居場所を失った藤本さんは、13年勤めた思い出深い会社を辞めざるを得なくなった。

 退職後はそれまでの経験を活かし、埼玉や横浜で組織マネジメントのコンサルティング会社に身を置き、3年ほど勤務した。しかし、クライアントの利益のために行うグレーな業務内容や、本質を置き去りにした数字の奪い合いに心が限界を迎えてしまう。パニック障害の前兆が藤本さんを襲った。ある日、客先を目前にして足がすくんで一歩も動けなくなってしまったという。

 心身ともに追い詰められた藤本さんは、自らを根本から立て直すため、「集中内観」への参加を決意する。集中内観とは、研修所の半畳ほどの屏風に囲まれた閉鎖的な空間で、1週間外部との接触を完全に断ち、自分自身の過去を徹底的に見つめ直す、心理療法的なプログラムだ。「身近な人に対して、していただいたこと、してお返ししたこと、ご迷惑をかけたこと」という3つの視点から、幼少期に遡って内省を深める。栃木での研修中、藤本さんは屏風のなかで自分を支えてくれた両親の存在や、自身の無意識な思い込みに気づき、研修所を出たときには周囲の色が違って見えるほどの大きな変化を経験した。この体験が、その後の困難を乗り越える精神的な基盤になったと語る。

 集中内観を経て、当時の配偶者の実家がある兵庫県へと移り、タクシーやハイヤーのドライバーとして約8年間、58歳頃までハンドルを握り続けた。しかし、会社の対応変化による大幅な減収から経済的に困窮し、58歳のときに協議離婚に至る。その後の再就職活動では再び組織マネジメントの職を求めたが、年齢の壁もあり、ことごとく面接に落ちる日々が続く。そんなドン底の折、富士市で軽貨物運送(赤帽)の元締めをしていた学生時代の友人の存在を頼りに、58歳で単身富士市への移住を決意。一刻も早い配車確定が求められる仕事の性質から、高速インターやバイパスに近い場所に拠点を構え、軽トラック一台で東北から九州まで全国を走る過酷な配送業務に64歳まで従事することとなる。

表現者としての転機

 そして2021年、63歳の時に訪れたコロナ禍が、表現者としての大きな転機となった。感染拡大に伴って赤帽の仕事が停滞し、アパートで作業着を着たまま数日も電話を待ち続ける「待機時間」が発生したのだ。

 じつは藤本さんは、義務教育の美術ではいろいろと嫌な目に遭ったことから、中学卒業以来、専門教育はもとより仕事、趣味ともに一切制作活動をしてこなかった。「むしろ嫌いだったと言ってよい」と振り返るほど、アートとは無縁の半世紀を過ごしてきた。しかし、コロナ禍による空白の時間に気分が退嬰(たいえい)的になるのが嫌で、「仕方ないから絵でも描くか」と考え、2021年11月から創作を開始した。

 手元にあったケント紙、ボールペン、マーカーを手に取り、遊び事として一枚描いたところ、それがなぜか自分が思う以上の出来栄えだったという。これが半世紀ぶりの創作活動の再開であり、独自の技法が確立された瞬間だった。

 ちょうど同じ頃、富士宮市のギャラリーで個展を開いていた、同じく「超老芸術」のつくり手である本田照男さんとの出会いもあった。本田さんに才能を見出され、絵を描くことを強く勧められたこともあり、藤本さんは自らの衝動に確信を持ち、さらに深く制作へと没頭していくことになる。

藤本伸樹《PLANT-LifeCreator》(2023)
藤本伸樹《浄化、そして融和へ》(2023)

 現在でも油絵具やアクリル絵具の使い方は知らないという。画材の使い方を習熟するよりも、新しい着想に挑戦するほうがエキサイティングで面白いと感じているからだ。ボールペンやラインマーカーでは上手く混ぜて中間色をつくることができないため、必然的に点と線の干渉で色のニュアンスをつくることになる。「不自由を工夫で対処することがオリジナリティにつながる」という、独自の手法の発見だった。

 藤本さんの制作スタイルは、自らテーマをひねり出すのではなく、日々の出来事や会話、ネットの情報からふとテーマが訪れるのを待つ受動的なものだ。作者としてのエゴを消すため、自身の姓と「Freedom(自由)」の両意を込めた「アート工房F」という名称を使用している。

 2021年末からSNSで作品の発信を始めると、それを見た人々との縁がつながり、静岡県内をはじめ、八ヶ岳、岡山、宮崎など各地で作品が評価されるようになった。これまでの運転業務の経験を活かして、現在は軽自動車一台に作品を積み込み、自らの手で全国へと運ぶ日々だ。

「融和の環」

 還暦を過ぎて始まった創作活動は、いまでは作品を販売するまでに至り、その規模も次第に拡大しているが、藤本さんは「販売のために刻苦勉励をしたことはない」と言い切る。自らが面白いと思うことを重ねてきただけであり、かつてのパニック障害や経済的困窮、離婚といったすべての苦難も、現在は「必要な学びだった」と穏やかに受け入れている。

 現在の目標は、アートで経済的自由を確立しながら、活動範囲を広げていくことだという。しかし、年金生活だけでは活動の維持が難しいため、融資などを頼りに、原画や複製画が売れた際に入金していくという綱渡りの生活を続けながら、日々制作に励んでいる。

藤本伸樹さん

 藤本さんは自身の寄稿文のなかで、シニア世代に向けた「知の再武装」として、「さらば対立軸、おいで融和の環」というメッセージを提唱している。ビジネスの現場で、誰かを蹴落とすための対立軸や権威主義に疲弊しきった藤本さんだからこそ、人と人、人と自然が境界なく溶け合い、全肯定される世界が画面の上に立ち現れる。理論や権威ではなく、近づいてみたくなる大人が明るい姿勢で発信すること。それこそが、立場の違う人々を親和させるハードルを下げると訴える。

 既存の枠に迎合することなく、不自由さをユーモアと独立心の工夫で乗り越えていく藤本さんの「融和の環」は、僕たちが社会に向ける視線をも、少しずつ変えていくのかもしれない。