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2026.10.1

地域レビュー(東海):入澤聖明評「田島秀彦 バグとダイアモンド」「小川健一 うみのこえ」(ケンジタキギャラリー名古屋)/「植松ゆりか お盆の針仕事―蚕の里帰り―」(みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では入澤聖明(愛知県陶磁美術館)が、東海エリアで7月から8月までに開催された展覧会から「田島秀彦 バグとダイアモンド」「小川健一 うみのこえ」(ケンジタキギャラリー名古屋)と「植松ゆりか お盆の針仕事―蚕の里帰り―」(みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム)を取り上げる。

文=入澤聖明

「植松ゆりか お盆の針仕事―蚕の里帰り―」の展示風景 撮影:城戸保 写真提供:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム
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見ることのズレ/触れることの想像

「田島秀彦 バグとダイアモンド」「小川健一 うみのこえ」(ケンジタキギャラリー名古屋)

 ケンジタキギャラリー名古屋では、「田島秀彦 バグとダイアモンド」展と「小川健一 うみのこえ」展が同時開催されていた。ともに愛知県立芸術大学で学び、1990年代以降、東海地域を拠点として活動してきた作家である。両展示をあわせて見ると、絵画と身体との関係に対する異なるアプローチが印象に残った。

「田島秀彦 バグとダイアモンド」の展示風景 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー
田島秀彦《Bug – Dots(インベーダー)》(2026)木製パネルにアクリル絵具、アクリル額 60.6×60.6cm 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー

 田島秀彦(1973〜)はこれまで、玩具や光の点滅、装飾的な図像、産業用タイルのパターンなどを取り込みながら、私たちが日常的に接している視覚環境にズレを生じさせる作品を手がけてきた。本展においてもまず目を引くのは、幾何学的な構成と色彩による視覚的な干渉である。

 「Bug - Dots」の連作は、中心部に濃い色を置き、外周に向かって淡くなるグラデーションの円形の単位が、無数に集合して画面を覆っている。一つひとつのドットを見れば、構造はきわめて単純である。しかし、視線を画面全体へ移すと、色のまとまりがより大きな形や輪郭をつくり出すように見え、次の瞬間には再び無数の点の集合体へと解体される。各ドットの周囲に生じている淡い色調の広がりも相まって、焦点が合っているにもかかわらず、画面全体がぼやける感覚が生じる。

田島秀彦《Bug – Perspective(渋谷センター街)》(2025)木製パネルにアクリル絵具、アルミフレーム 60.6×90.6cm 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー

 いっぽう、「Bug - Perspective」をはじめとする連作では、円弧や直線、ダイアモンドなどのファセットを思わせる幾何学的な分割が画面を細かく覆い、その内部が異なる色面によって塗り分けられている。一見すると抽象的な幾何学的パターンであるが、画面を見続ける、あるいは画面との距離を変えることで、ぼんやりと別のイメージや文字の断片が徐々に立ち上がってくる。それは歓楽街の景観や、作品によってはポルノグラフィックなイメージであったりする。しかし、それらはすぐには像として認識されない。何が描かれているのかを理解するためには、こちらから意識的に画面を読み取らなければならない。

 ここで興味深いのは、作品を「見る」という行為そのものが意識化されることである。正面に立つ、少し近づく、距離を取る。あるいは画面の一点に焦点を合わせ、そこから別の部分へと視点を移す。像を読み取ろうとすればするほど、鑑賞者は自らの視点や身体の位置を調整する必要が生じるのである。少なくとも筆者には、「見る」という行為にいつも以上の身体的負荷がかかっているように感じた。

 この知覚体験は、現在の視覚環境と重ね合わせて考えることができるのではないだろうか。スマートフォンをはじめとするデジタル端末を通して、私たちは日々、大量のイメージを短時間で処理することに慣れている。田島の絵画は、そのような視覚処理を容易にはさせない。立ち止まり、距離を変えて何度も見直すことを要求するからである。

 そこで改めて意味を帯びるのが、展示タイトルの「バグ」という言葉である。一般的にバグとはPCやプログラムに生じる不具合を意味する。そのような意味では、田島の絵画も一見すると、本来見えるはずのイメージが、幾何学的な構造によって正常には表示されていないように感じられる。しかし作品と長く向き合うことで、この関係性は反転する。つまり、イメージを即座に判別しようとするこちら側の視覚の習慣が、作品の前でうまく機能しなくなっているのではないか。ゆえに田島の作品に「バグ」が仕込まれているというよりも、それと向き合うことで、鑑賞者の身体に生じているズレが露呈するという、逆説的な感覚を覚える展示であった。

「小川健一 うみのこえ」の展示風景。壁面右から《みるくゆ》《よびごえ》(ともに2026)、左の台上には陶の作品が並ぶ 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー
「小川健一 うみのこえ」の展示風景。左から《みずもち》《みずぐるま》《よあけ》《つくしんぼう(小)》《やまびこ》(すべて2026) 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー

 これに対し、小川健一(1969〜)の「うみのこえ」を見ながら意識したのは、作品の表面から喚起される触覚的な感覚である。

 小川はこれまで、シリコンを厚く塗布した画面を拭い、その痕跡で描く「シリコン・ペインティング」をはじめ、カレー粉を用いた立体造形、あるいは陶など、様々なマテリアルを使用してきた。それらに共通するのは、「触感」をどのように捉え、視覚的な経験に落とし込むかという関心である。

 今回の展示においても、画面に施したシリコンを拭い取りながら、柔らかなフォルムで穏やかな人物や風景、あるいは愛らしさを伴うキャラクターが描かれている。また、画面からはみ出したシリコンは、キャンバスの側面に残されており、そこでは描かれたイメージとともに、塗る、拭うという制作時の身体の動きや、シリコンそのものの厚みや粘性といった物質感までも想像させる。

小川による陶の作品群 撮影:Tetsuo Ito 写真提供:ケンジタキギャラリー

 あわせて展示された陶の小作品も、同様に「触感」への意識を促す。人物や家、枕を思わせる小さな陶作品には、焼締めの粗い肌から艶やかな釉面まで、多様な表情が見られる。

 ここで興味深いのは、実際には触れることのできない展示作品が、かえって「触感」を強く意識させることである。絵画は通常、展示空間では視覚を通して鑑賞される。しかし、小川の画面づくりでは、シリコンを拭った跡や側面に残された物質も含めて見ることで、その表面を擦る感覚や、素材の柔らかさまで想像することとなる。他方でやきもの、とりわけ器は、その重さや質感を触れて感じるという経験と深く結びついてきた。しかし、それが美術作品として展示されれば、ほとんどの場合、鑑賞者は触れることから切り離される。小川の陶作品は、その距離を逆手に取るかのように、視覚から複数の「触感」を呼び起こすのである。

 つまり小川の作品における「触感」とは、マテリアルそのものの物質的性質だけにあるのではなく、見ることを通して、触れていないものの感覚を鑑賞者の身体に生じさせる試みとも捉えられる。

 同じギャラリーで2つの展示を見ると、その違いはより鮮明となる。田島が見るという行為の安定性を揺さぶるのに対し、小川は、見る行為のなかに、そこにない接触の感覚が呼び起こす。いずれも絵画を起点としながら、異なる方向からのアプローチが印象的な組み合わせであった。

蚕へのまなざしと祈りのかたち

現代美術レジデンスプログラム「植松ゆりか お盆の針仕事―蚕の里帰り―」(みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム)

 みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアムで開催された植松ゆりか(1989〜)の「お盆の針仕事–蚕の里帰り–」展は、当地域に残る養蚕の歴史をリサーチし、その記憶を見つめ直す展覧会である。

 これまで植松は、ぬいぐるみを切り開き、パーツの縫い目や内部を露わにする、あるいは本来の柔らかさをもつぬいぐるみとは異なるコンクリートを入れ込み、平面へと押し込めた「Soft toys」シリーズなどを制作してきた。その制作行為に一貫するのは、愛らしさに覆い隠された危うさや暴力性への言及である。

野外の森に展示された《stray geep》(2026) 撮影:城戸保 写真提供:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム

 近年、植松は養蚕と製糸をめぐる歴史へ関心を広げている。その契機となった長野県岡谷での滞在制作では、蚕の生態や製糸業、そこで働いた女性たちの歴史などをリサーチしながら制作を行った。その関心が、同じく近代以降に養蚕が重要な生業となった美濃加茂での展示につながったのである。

 みのかも文化の森には、明治40年頃の養蚕農家を復原した生活体験館「まゆの家」もあり、今回の展示は企画展示室と「まゆの家」、そしてそのあいだに位置する野外の森の3ヶ所で展開されていた。野外には《stray geep》が置かれ、生と死をめぐる2つの室内展示のあいだに、作家自身の葛藤と再生をめぐるイメージが差し込まれている。

企画展示室の展示、右の壁面には植松による「Soft toys」シリーズが並ぶ。天井から下がるのは《ほふる園》(部分、2024) 撮影:城戸保 写真提供:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム
絵本『スーのゆりかご』を軸にしたインスタレーション作品。展示ケース手前の羽根の作品や、内側のテキスト、《My dream house》《Their paradise》(ともに2025)など 撮影:城戸保 写真提供:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム

 企画展示室では「Soft toys」などの旧作に加えて、岡谷での滞在制作から生まれた絵本『スーのゆりかご』のテキストや、美濃加茂の繭を用いて制作された新作などが並ぶ。この絵本において印象的なのは、主人公である蚕の幼虫と、蜘蛛とのやり取りである。ともに糸を生み出しながら、その糸は、物語のなかで異なる役割を与えられている。蚕の糸は自らを包み、蜘蛛の糸は捕食のために他者を拘束するものである。同じ「糸」という物質に、包むことと捉えることという異なる働きが重ねられている点に、植松の関心の一端がうかがえる。

 こうした蚕をめぐるリサーチは、植松にとって歴史的事実を再構成するためだけのものではない。蚕の生死に向き合うなかで彼女が抱いた悲しみや葛藤を、「祈り」や「桃源郷」といった世界観へと転化し、そこに自身の感情を重ね合わせる姿勢(*1)も感じ取れる。

 そして人と蚕の関係性もまた、両義性を孕んでいる。人は蚕を家の中へ迎え入れ、餌を与え、温度調整し、病気や外敵から守りながら大切に育ててきた。しかし、その保護は、高品質な絹糸を安定して得るために、蚕の生態を人間の生産活動へと組み込むことでもあった。

生活体験館「まゆの家」での展示風景 撮影:城戸保 写真提供:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム
「蚕の里帰り」のインスタレーションを構成する作品群。床面に《おいのりの為のお線香》(2026)と、壁面は《おそなえ》(2026) 撮影:城戸保 Courtesy of the Artist

 その関係がより直接的に感じられるのが、「まゆの家」で展開された「蚕の里帰り」のインスタレーションである。明治期の養蚕農家を復原した居間や床の間、炉には、大八車・火鉢・鯉など、養蚕に関係するモチーフや、蚕の糞を用いた線香が配置されている。大八車は繭を製糸場へ出荷する際に用いられ、火鉢は蚕の育成環境を一定の温度帯で保つために使用された。また、繭から糸をとった後に残る蛹は、食用の鯉の餌として利用されたという。

 こうした歴史的背景を紐解いていくと、人と蚕を中心として様々なものが結びついていたことがわかる。タイトルにある「里帰り」にもあるように、この展示を通して、かつてこの家で人間とともに暮らし、絹をつくり、そして姿を消していった無数の蚕の記憶を呼び戻すようにも感じられた。

 植松は、蚕の生死と運命について共感を誘いつつも、それを人間による一方的な搾取として告発するのではなく、人の暮らしと容易には切り分けられない結びつきを提示している。かといって、地域から失われた産業を懐古的に再現しているわけでもない。かつて人の暮らしを支えていた蚕との関係性を呼び起こしながら、その歴史を現在へと引き寄せると同時に、そこに向き合うなかで植松が抱いた悲しみや葛藤を、祈りをともなう植松自身の作品世界へと編み直す試みなのである。

*1──会場パネル「インスタレーション『こだまする』について 植松ゆりか」より。