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2025.7.4

地域レビュー(東京):原田美緒評「小林エリカ Yの一生 The Life of Y – ひとりの少女」展、「平山匠 ここがいい」展

ウェブ版「美術手帖」にて新たに始動した地域レビューのシリーズ。本記事は、原田美緒(東京都現代美術館学芸員)が今年4月から6月にかけて東京で開催された展覧会のなかから、小林エリカと平山匠による2つの展覧会を取り上げる。芸術は、いかにして語られざるものに光を当てるのか──その問いを軸に、鋭いまなざしが注がれる。

文=原田美緒

平山匠「ここがいい」展の展示風景 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫
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語られざるもの──「戦争」と「ケア」を語る

「小林エリカ Yの一生 The Life of Y – ひとりの少女」展(Yutaka Kikutake Gallery

 戦後80年。いまの日本で「戦後」の「戦」が指しているのは、第二次世界大戦、あるいは太平洋戦争のことである。しかし、世界がこれほどまでに混迷を深めるなかで、「戦後」という言葉の意味は、これまで通りであり続けることができるのだろうか。もしかすると近い将来、私たちはこの言葉で、まったく別の「戦」を語ることになるかもしれない。そんな時代にあって、芸術に携わる者として、私はこの問いを立てたい。「私たちはこの状況にどう抗えばよいのだろうか」。

小林エリカ「Yの一生 The Life of Y – ひとりの少女」展の展示風景 © Erika Kobayashi Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery Photo by Osamu Sakamo

 小説、コミック、映像、インスタレーションと多岐にわたる表現活動を展開する小林エリカが、近年専ら取り組んでいるテーマは「戦争と女性」である。最新作である小説『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋社、2024)では、勤労奉仕に従事した女学生の姿を描いている。本展では、その女学生のひとり、雙葉高等女学校に通っていた実在の人物、「Y」に焦点を当てる(*1)。

 Yを含む雙葉高女の学生たちは、戦時中日本軍に賃借されていた東京宝塚劇場で風船爆弾をつくっていた。風船爆弾とは、和紙をコンニャク糊で貼り合わせてつくられる、焼夷弾を吊るした直径10メートルの水素気球である(*2)。いっぽう、宝塚歌劇といえば、女性のみで構成され、女性が「男役」を演じる劇団である。「どんな時代へも、海の向こうの外国へも」行け、「男になって思う存分恋をすることも、悪者と闘い冒険することも、科学者や王様になることもでき」、適齢期の女子に課せられた使命、つまり「結婚させられることを、いきおくれること」を、「心配する必要もない」(*3)と伝えてくれるこの舞台は、当時の女子たちに自由を夢見させたに違いない。しかし、その本拠地である劇場で、風船爆弾という兵器が女子の手によってつくられていた。風船爆弾づくりに携わった少女たちと、夢の舞台のあいだにある皮肉なねじれ──この矛盾こそが、小林の作品において主題化されている。

展示風景より © Erika Kobayashi Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery Photo by Osamu Sakamo

 展示には、Yによる実際の「手」のスケッチや「いろはうた」の模写と並び、GHQ占領下で米軍がホテルとして利用したという八重洲ビルヂングのモザイクタイルやレリーフ、窓なども登場する。八重洲ビルヂングは、Yの生まれた1928年に竣工された建物だ。その建物のタイルやレリーフは、半分ショッキングピンクに染め上げられている。このピンクは、展示に散見される小林自身が制作した「桜」のペインティング(これらのペインティングの下には年号が付されていて、Yの人生と符合していることを示す)と重なり合う色であると同時に、桜が個人の死を美化する象徴として用いられてきた歴史的意味をも想起させる。現代に生きる小林エリカが掬いあげた、Yが生きた時代の記憶の断片──桜、八重洲ビルヂング、宝塚歌劇、そして風船爆弾。これら一つひとつの「点」が、小林の創作を通じて「線」となり、ナラティブとして立ち上がる。

展示風景より © Erika Kobayashi Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery Photo by Osamu Sakamo

 その線は、きらびやかな舞台の裏にひそむ現実へとつながっている。市井の人々が知らぬ間に戦争に加担してしまう可能性、美しさのすぐ隣に潜む暴力。これらは、私たちが生きる現代社会にも通じている。SNSなどを通じて戦争を簡単に「見る」ことができ、高度資本主義社会のなかでは、消費行動ひとつで戦争に加担してしまう──あるいは「加担できてしまう」現実。戦争とはもはや遠い過去ではないのだ。

 そのなかで、小林にとって「現在形(〜する)」という時制は重要である。小説(*4)のなかで、「わたしは雙葉高等女学校を卒業する」「戦争が終わる」といった文が、過去を語りながらも現在形で記されているのは偶然ではない。それは、物語と現代との距離を縮め、読者に「これは過去の話ではない」と突きつける装置であり、小林の戦争に対するまなざしそのものでもある。

展示風景より © Erika Kobayashi Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery Photo by Osamu Sakamo

 展示の一角には、歌人・穂崎円による短歌が掲示されていた。

死の裏に殺意や動機があることのミステリーだけの金の安寧

 アメリカ本土では風船爆弾で、数名の死者が出たとされる。そのことに罪悪感を抱き、いまなお苦しんでいる元女学生もいる。けれど、Yはそれを「そういうのに罪悪感を持つのはわからない」と言い、「戦争中なんだからしかたないじゃない」と答える(*5)。戦争の只中では、無自覚に人は人を殺せてしまう。そしてY自身、自分のつくった風船爆弾で人が死ぬなどとは思っていなかった。

 同じように、現代を生きる私たちも、自分が手にしたコーヒーが、遠い誰かの死に関係しているなどとは思わない。自分の行動が誰かの死につながる可能性についての意識が希薄なまま、日々を過ごしている。だが、その無意識こそが、戦争を見えにくくし、拡大させる温床となる。

 冒頭の問いに戻るならば、こう言うべきだろう。この意識の希薄さを少しずつ濃くしていくこと──それが、芸術の果たすべき役割なのだと。本展はそのことを私たちに示してくれる。

展示風景より © Erika Kobayashi Courtesy of Yutaka Kikutake Gallery Photo by Osamu Sakamo

「平山匠 ここがいい」(東葛西1-11-6 A倉庫)

展示風景より、《ハニラ》(2024) 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫

 2つ目に紹介したいのは、粘土彫刻を中心に制作し、東京・品川でスペース「アトリエ・サロン-コウシンキョク(交新局)」(以下、コウシンキョク)を運営しているアーティスト・平山匠による個展「ここがいい」(東葛西1-11-6 A倉庫、2025年5月23日~6月11日)である。

 展示の冒頭で出迎えるのは、ウルトラマンに登場する怪獣・ジャミラをモデルにした巨大な粘土彫刻《ハニラ》(2024)だ。鉄のフレームに粘土を塗り固めてつくられたこの作品は、乾燥によるひび割れでいまにも崩れそうだ。その巨体に反して、かえって頼りなく、儚さを帯びている。かたわらにはタンク式の散水機が置かれており、平山は定期的に水を撒くことで《ハニラ》の乾燥を防いでいるという。この、作品を生かし続けるという行為がすでに「ケア」と呼ぶにふさわしい。

展示風景より、《ハニラ》(2024) 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫

 展示の奥では、もうひとつの大型作品《エリマキトカゲは地面を見れない》(2025)が待っている。タイトルのとおり、エリマキトカゲの“襟”は異様なまでに大きく、下から見上げてもその顔は見えない。つまり私たち鑑賞者には、なんの彫刻かすぐにはわからず、タイトルでそれがエリマキトカゲだとわかる。よく見ると、地面ではこのエリマキトカゲの尻尾を小人のような存在が抱えている。エリマキトカゲは、自分の足が地に着いていると思っているかもしれないが、実際には、この小さな存在がその全体を支えているのだ。

展示風景より、《エリマキトカゲは地面を見れない》(2025) 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫
展示風景より、《エリマキトカゲは地面を見れない》(2025) 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫

 平山の作品に通底しているテーマは「ケア」である。ケアとはたんに優しさや配慮を意味するのではなく、見えにくく数多に存在するシャドウ・ワーク──つまり不可視な労働の積み重ねとして提示される。《ハニラ》においては、散水機がその象徴だ。平山が水を撒く様子を偶然目にすることはできても、その維持に要する具体的な労力までは見えない。《エリマキトカゲは地面を見れない》では、よほど注意を向けなければ気づかないような小さな存在が、堂々とした主役を支えている。しかしその小さな存在は、支える側からは見えない。平山はこのようにして、「ケアする人」の不可視性を、彫刻というメディウムを通して可視化しようとする。

 展覧会タイトル「ここがいい」は、「見慣れたものを少し違う角度から見てみると、誰かに支えられていること、また自分も誰かを支えていることに気づくこと」、そしてその気づきの「積み重ねが、『今の自分の居場所』に対する肯定につながるのではないか」(*6)という、平山自身の実感に基づいている。

平山匠の作品展示の様子 写真提供=東葛西1-11-6 A倉庫

 このような姿勢からも、平山が「土」というメディウムにこだわり続けている理由が読み取れる。私たちが立つ「地面」──すなわち自分を支える場所──を構成する「土」を扱い続けること自体が、場所=土地=「ここ」への肯定の実践なのである。

 平山が運営するアートスペース「コウシンキョク」は、「自分以外の誰かの生き方を知る」ことを目標に掲げている。平山は、まさにその思想を実践するように、土とともに「他者の生」を見つめ続け、「ここがいい」と言える場を耕し続けているのだ。

*1──「Y」についての小説は「Yの一生 The Life of Y」(『文學界』2025年5月号、文藝春秋)で読むことができる。
*2──風船爆弾については以下の資料を参考にした。明治大学「明治大学平和教育登戸研究所資料館 第5回企画展『紙と戦争-登戸研究所と風船爆弾・偽札-』」(明治大学ウェブサイト、https://www.meiji.ac.jp/noborito/info/2014/6t5h7p00000i01ky.html、2025年6月22日最終アクセス)
*3──「 」内はすべて小林エリカ『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋、2024年)19頁からの引用。
*4──小林エリカ「Yの一生 The Life of Y」(『文學界』2025年5月号、文藝春秋)116–124頁。
*5──同上、122頁。
*6──「 」内はすべて「ここがいい」展の展覧会ステートメントより引用。