2026.7.4

「福島アートアニュアル2026 世界 ⇆ わたし 庄司朝美/髙木優希」(福島県立美術館)会場レポート。異なる絵画実践が照らし出す世界との距離

福島県立美術館で、「福島アートアニュアル2026 世界 ⇆ わたし 庄司朝美/髙木優希」が開催されている。会期は6月2日~7月5日。会場の様子をレポートする。

文・撮影=大原愛美(編集部)

庄司麻美の展示、手前の大型作品が《百目の鳥》(2021)
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 福島市の福島県立美術館で、「福島アートアニュアル2026 世界 ⇆ わたし 庄司朝美/髙木優希」が7月5日まで開催されている。福島県ゆかりの若手作家を紹介するシリーズ「福島アートアニュアル」の第5回となる本展では、庄司朝美と髙木優希のふたりの画家を取り上げている。担当は同館学芸員の齋藤恵。

展覧会入口より

 齋藤は本展を「世界と私たちとの関係を改めて見つめ直す展覧会として構想した」という。現実と仮想空間、身体と情報が複雑に交錯する現在、私たちは世界をどのように知覚しているのか。そして絵画は、その世界との関係をどのように映し出すことができるのか。異なる制作手法をもつふたりの実践を通して、その問いを静かに立ち上げる展覧会だ。

世界と向き合う、異なる2つの絵画実践

 髙木優希は1994年福島市生まれ。「他者の私的空間である部屋」の写真から、紙や粘度による白いマケット(小型模型)を再構築したうえで、さらにマケットに光を当てながら撮影した像を油彩画へと転換するという独自の制作手法を展開。写真、マケット、絵画という複数のレイヤーを介在させながら、不在の気配や空間に宿る記憶、現実とイメージの関係を探究している。

 いっぽう庄司朝美は1988年いわき市生まれ。透明のアクリル板やキャンバスを支持体に制作を行う。身体感覚に導かれるように絵具を置いては拭き取るという行為を重ねることで人や動植物などのモチーフを生成・変容させ、1つの画面のなかで、生と死、恐怖とユーモア、美と醜といった相反する感覚を共存させる。完成形をあらかじめ定めるのではなく、身体と絵具との応答を通して画面を生成していくその制作は、描くという行為そのものを世界と向き合う方法として捉えた実践行為と言えるだろう。

高木優希──「部屋」に宿る不在の気配

 会場は髙木の展示から始まる。まず目に入るのは活動の初期に制作された《裏》と《表》(ともに2019)だ。このふたつは同じ構図のもので、前者がモノクロ、後者がカラーの2枚組の作品だ。

左が髙木優希《裏》(2019)、右が《表》(2019)

 色調によって与えられる印象が異なることに着目した髙木は「カラーのほうは視覚的な見え方、モノクロの方は感覚的な見え方」というテーマを見出す。モノクロの作品が有する人の気配や緊張感は、のちに制作されることとなる「Room」シリーズの発想の起点となった。

髙木優希「Room」シリーズ
左が髙木優希《マケット》(2022)、右が《マケット》(2021)

 展示室には各作品ごとにゆったりとした空間が設けられており、マケットの部屋を描いた「Room」シリーズと、そのモチーフとなった実際のマケットが並ぶ。無機質な青や淡いピンクを基調とした画面には、膨らんだ布団や散らかった机など、人が暮らした痕跡が残されている。そこに人物は描かれていないが、その不在ゆえに、誰かがそこにいた時間や生活が想像される。模型と絵画を見比べることで、鑑賞者は現実と模型、あるいは写真と絵画という複数の層を往復することになる。

髙木優希《Room》(2025) こたつや布団に用いられた粘土の質感が見てとれる
髙木優希《Room》(2025) ラグに用いられた紙の薄さや硬さが見てとれる

 マケットに特有の紙や粘土の質感は、絵画にも忠実に描かれており、粘土を指で押した跡や継ぎ目、直線的な紙のフォルムやその薄さが丁寧に表現されている。このように本シリーズに描かれている部屋はつくりものであることが強調され、部屋という「概念」であることが強調されている。また、ビデオゲーム内につくられた架空の部屋、あるいはインターネット上で目にする「リミナルスペース」といった「部屋」とも近いものが感じられる。その結果、現実の空間を描いた絵画ではなく、「部屋」という概念そのものを眺めているような感覚が生まれる。

髙木優希「Peephole」シリーズ(2023)

 丸や六角形の小さなサイズのキャンバスに描かれた「Peephole」シリーズ(2023)は、マケットの部屋を覗き見ている第三者になったような視点で描かれた作品群だ。マケットの部屋にはそこで生活する人などいないにも関わらず、鑑賞者はそこに漂う気配を感知し、つながりや関係性を意識させられる。髙木が可視化しているものは、「不在」であり、鑑賞者は多層的なプロセスによって「そこに存在したかもしれない世界」を画面のなかに見出すことができる。

庄司朝美──描くことで立ち現れる世界

 続いて庄司の作品が展示されている部屋では、通路のような細長い空間に、キャンバス作品が点々と配置されている。庄司の「絵を描くことを通して世界の複雑さを飲み込む」という実践は、アクリル板の絵具を拭き取る行為を繰り返すものから、3年ほど前よりキャンバスを用いるものへと転換していった。

キャンバスに描かれた作品、庄司麻美《25.6.14》(2025)
キャンバスに描かれた作品、庄司麻美《25.11.1》(2025)

 これらの作品群はアクリル板に油彩で描かれた大胆な筆致の作品群とは異なり、薄く重ねられたレイヤーやより鮮やかな発色によって、描かれる世界の密度を増幅させているような印象を受ける。また、従来のモチーフに加えて動物や家、花なども描かれており、「世界の複雑さ」に対する見地の変化を感じさせる。

庄司の展示室の風景 手前の大型作品が庄司麻美《百目の鳥》(2021)
ガラスケースの表面に庄司が直接描いた作品がケース内の作品群とともに並ぶ

 アクリル板を用いた初期作品の次は、大型作品や衝立状の支持体、ガラスケースの壁面に直接描かれたドローイングが展示されている。

庄司の展示室の風景 手前の大型作品が庄司麻美《百目の鳥》(2021)

 アクリル作品の画面には人や手、鳥といったモチーフが繰り返し現れる。それらは固定された意味を持つ記号ではなく、筆致のなかで生まれ、溶け合い、別のイメージへと変化していく過程が表現されているように感じられる。透けるように描かれた人は皆遠くを見据え、長い腕がどこかへ伸ばされていたり、指を何かに這わせたりしている。庄司が「絵画は対立する価値や意味であっても、それらが等しく存在することが許される独特な言語である」とステートメントで述べていたように、そこで表現される世界は多義的であり、あらゆる意味を孕んでいる。

左が《17.6.27》(2017)、右が《17.6.11》(2017)、中央が本展に際しガラスケースに水彩で描画された《26.5.27》(2026)

 あるときは朗らかに、あるときは恐ろしく、そしてあるときは幽玄にも感じられる多義的な画面によって、鑑賞者と作品のあいだに言葉を介さないかたちでの対話を生み出している。また大胆な拭き取りのストロークによって透明となった板の空白や絵具の掠れが、余白やリズムを与えているようでもある。作品を介して伝達される、庄司が自身の身体を通して見た世界の断片は、観客との対話を経てより奥行きが増しているように感じられる。

世界との距離を問い直す絵画

 高木は現実の空間を写真や模型へと置き換え、その距離を往復しながら世界を見つめている。いっぽうの庄司は身体を介して画面に直接向き合い、描く行為そのものから世界を立ち上げようとする。これだけを見ると、高木と庄司の制作方法は対極にあるように感じられる。

 しかし、手法は異なっても、両者が絵画を「世界の再現する方法」ではなく「世界を認識する方法」と捉えていることは共通している。高木は世界との距離を慎重に測り、庄司は世界へ身体ごと飛び込む。異なるベクトルにありながらも、世界の姿を捉えようとする2人の作品が1つの展示のなかで交差することで、「世界⇆わたし」というタイトルはたんなるタイトルではなく、鑑賞体験そのものとして立ち現れる。2人の作品を往還することで 、鑑賞者自身もまた「世界」と「わたし」の距離を改めて問い直すことになるだろう。