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2026.6.8

水が記憶を運び、生命は循環する。ウォレス・チャン、ヴェネチアでの新作展が描く「異世界の器」

香港を拠点に活動するアーティスト、ウォレス・チャンが、ヴェネチアと上海を結ぶ大規模プロジェクト「Vessels of Other Worlds」を始動した。ヴェネチアのサンタ・マリア・デッラ・ピエタ礼拝堂で開催中の展覧会をレポートする。

取材・文=王崇橋(編集部)

展示風景より Photo by Federico Sutera
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 第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の開催にあわせ、香港を拠点とするアーティスト、ウォレス・チャンの個展「Vessels of Other Worlds」がサンタ・マリア・デッラ・ピエタ礼拝堂で開催されている。会期は10月18日まで。

ヴェネチアと上海を結ぶ「異世界の器」

 本展は、今年7月に上海の龍美術館で開幕するチャンの個展と連動する2都市同時プロジェクトであり、チャンにとってこれまでで最大規模の試みとなる。キュレーションを手がけたのは、これまで複数回にわたりチャンの展覧会を担当してきたジェームズ・パットナムだ。

 チャンは1956年香港生まれ。16歳で宝石彫刻を学び始め、その後独学で芸術を学んだ。30代後半には出家し、約16ヶ月にわたる修行生活を経験。その後、コンクリートや銅、ステンレスを用いた彫刻制作へと活動領域を広げていった。近年ではその作品が大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、上海博物館などに収蔵されている。

ウォレス・チャン、「Vessels of Other Worlds」展にて Photo by Federico Sutera

 本展は、2021年の「Titans」、2022年の「Totem」、そして2024年に同じピエタ礼拝堂で開催された「Transcendence」に続くもので、チャンにとって4度目となるヴェネチアでの大型プロジェクト。とりわけ前回展「Transcendence」は、ブライアン・イーノによるサウンドスケープとともに3万人以上を動員し、大きな反響を呼んだ。今回の「Vessels of Other Worlds」は、その延長線上にありながらも、より生命の循環や生成に焦点を当てた、新たな局面を示している。

展示風景より Photo by Federico Sutera

 展覧会タイトルの「Vessels of Other Worlds(異世界の器)」が示すように、本展の中心にあるのは「容器」という概念だ。チャンはそれを、記憶や精神、時間の流れを宿す存在として捉えている。

 会場となるピエタ礼拝堂の祭壇には、カトリックの祝福儀礼で用いられる3つの聖油「Olea Sancta」に着想を得た3点のチタン彫刻が配置された。その背後には3連祭壇画のように3面の映像スクリーンが設置され、上海の龍美術館に展示される巨大彫刻群へとつながる「ポータル」として機能している。作品は「誕生」「成長」「死」という生命の3段階を象徴し、その造形はヒエロニムス・ボス《快楽の園》(1503-04頃)からもインスピレーションを得ている。さらに周囲には水滴を思わせるチタン作品群が浮遊し、礼拝堂全体を流動的な空間へと変貌させている。

会場では、3連祭壇画のように3面の映像スクリーンも設置されている Photo by Federico Sutera

水が運ぶ記憶と生命の循環

 チャンは1973年に宝石彫刻の徒弟として制作を始めて以来、半世紀以上にわたり水と向き合ってきた。石を彫る際には工具の冷却のためにつねに水を用い、その過程で音と水との密接な関係にも気づいたという。工具が鋭利であるほど音は小さく、逆に大きな反響音は負荷や亀裂の危険を示していた。こうした経験は、後に超音波洗浄や冶金研究へと発展し、水を物質ではなく、エネルギーや記憶を運ぶ媒体として捉える視点につながった。

 チャンはインタビューで、水について次のように語っている。「雲も雨も蒸気も氷も、すべて水の異なる姿です。水は空へ昇り、再び地上へ戻りながら、前の世代の記憶を携えています。かつて生命を潤した水は、再び別の生命を潤していきます。私はその循環と輪廻に強く惹かれています」。

「水」は本プロジェクトを貫くキーワードである Photo by EM Studio

 この考え方は、展覧会全体を構成する「誕生―成長―死」という主題にも直結している。死は終わりではなく、新たな循環の始まりであり、水の変容と同様に生命もまたかたちを変えながら続いていく。その視点は仏教的な輪廻観とも響き合いながら、宗教や文化を超えた普遍的な生命観として提示されている。

 また本展では、「音」も重要な役割を果たしている。チャンにとって音は、水と同様に目に見えないが確かに存在する媒体だ。制作においても、彼は長年にわたり周波数や振動と素材との関係を研究してきた。インタビューでは、超音波によって水中に発生するキャビテーション現象や、音が物質に与える影響についても言及している。

 こうした関心は、ヴェネチアという都市そのものとも結びつく。本プロジェクトではヴェネチアと上海という、いずれも水と深く関わる2つの都市が舞台となる。チャンは「両都市は水によってかたちづくられ、記憶を蓄積しながら変容し続けています」と語り、2つの場所をひとつの循環する物語として位置づけている。

展示風景より Photo by Federico Sutera

「永遠にもっとも近い素材」チタン

 そうした思想を支えているのが、近年チャンが集中的に取り組んでいるチタンという素材だ。

 宝飾作家として国際的な評価を得てきたチャンは、長年にわたり独自の彫刻技法や宝石加工技術を開発してきた。その延長として取り組んだのがチタン研究だ。彼は約7年を費やしてチタン加工を研究し、当初はジュエリー作品に用いていた技術を、現在では高さ10メートルを超える大型彫刻へと応用している。

チタンを素材につくられた彫刻作品の細部 Photo by Federico Sutera

 チャンによれば、チタンは腐食せず、極めて高い耐久性を持つ素材。鉄のように酸化せず、ステンレスのように曇ることもない。また医療用インプラントや宇宙ロケットにも利用されるほどの強度を備えている。彼はこうした特性を「永遠にもっとも近い素材」と表現する。

 また、チャンはチタンを精神的なメタファーとしても捉えており、「チタンは私自身の性格に似ています」と語る。容易には壊れず、何度曲げられても元へ戻ろうとするその性質は、独学で創作を続けてきた自身の人生とも重なるという。

容易には壊れず、何度曲げられても元へ戻ろうとする性質をもつチタン Photo by Federico Sutera

 チャンは、「宇宙の視点から見れば、すべての生命は平等であり、東洋と西洋を区別する必要はありません」と語った。作品に多用される透かし彫りの構造もまた、仏教の「真空妙有」の思想に基づいているという。空であるからこそ、多様な文化や思想を受け入れることができる。その開かれた精神性こそが、本展の根底に流れるメッセージだと言える。

 歴史的な礼拝堂と未来的な彫刻、ヴェネチアと上海、音と水、誕生と死。相反する要素を往還しながら、本展は観客を、時間や空間、さらには生と死の境界を超えた対話へと静かに誘っている。

ウォレス・チャン、「Vessels of Other Worlds」展にて Photo by EM Studio