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2026.5.19

「川合玉堂―なつかしい日本の情景―」(山種美術館)開幕レポート。ノスタルジーを風景に託した玉堂の画業を辿る

東京・広尾の山種美術館で、開館60周年を記念する特別展第1弾として「川合玉堂―なつかしい日本の情景―」が開催されている。会期は7月26日まで。会場をレポートする。

文・撮影=大橋ひな子(編集部)

「川合玉堂―なつかしい日本の情景―」展の展示風景
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 東京・広尾の山種美術館は、1966年、東京・日本橋兜町に日本初の日本画専門美術館として開館した。同館が開館60周年を迎えたことを記念した特別展第1弾として、日本画家・川合玉堂(1873〜1957)の画業を振り返る展覧会「川合玉堂―なつかしい日本の情景―」が開催されている。会期は7月26日まで。担当は同館学芸員の竹林佐恵、監修は明治学院大学教授で同館学芸部顧問の山下裕二。

 玉堂は、円山・四条派を基礎に狩野派の様式を取り入れ、伝統的な山水画から近代的な風景画へと新たな境地を拓いた日本画家だ。東京画壇における中心的な役割を果たし、1940年には文化勲章を受章。日本の山河を愛し、日本の原風景とされてきた四季の自然、またそこに暮らす人々を情感豊かに描いた。

 同館創立者の山﨑種二(1893〜1983)は、多くの画家と直接交流しながら作品を蒐集していた。なかでも玉堂の人柄に深く惹かれていた種二は、直接玉堂邸を訪問するほどの仲であったという。その縁から、同館は71点もの玉堂作品を所蔵している。

川合玉堂《早乙女》(1945)絹本、彩色、軸(一幅) 63.5×87.3cm 山種美術館 本展の入り口で紹介されている

 本展は、そんな同館の収蔵作品を中心として、初期の代表作《鵜飼》(1895)や、琳派研究を経て誕生した玉堂美術館所蔵の《紅白梅》(1919頃)をはじめとする玉堂の名作とともに、画業初期から晩年までを辿る貴重な機会となっている。

第1章 研鑽の時代―明治期

 会場は4章で構成されている。「第1章 研鑽の時代―明治期」では、玉堂が明治期に手がけた作品が展示され、若き日の画業の歩みを辿ることができる。1873年に愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、87年、13歳で京都の画家・望月玉泉のもとで日本画を学びはじめる。会場で紹介されている15歳のときに描いた《写生画巻》(1888)からは、写生を忠実に行う円山・四条派の教えを早いうちから実践していたことがわかる。

川合玉堂《写生画巻》(1888)紙本、彩色、巻子(一巻) 26.5×654.5cm 玉堂美術館
川合玉堂《鵜飼》(1895)絹本、彩色、軸(一幅) 158×85.3cm 山種美術館 第4回内国勧業博覧会の出品作

 その後、さらなる高みを目指すべく、円山・四条派の幸野楳嶺(ばいれい)の門に移り、同じ門人たちと切磋琢磨し合いながら制作を続けた。楳嶺が他界した1895年、玉堂は第4回内国勧業博覧会に出品する。そのときに制作したのが《鵜飼》(1895)だ。当時22歳だった玉堂は、少年時代を過ごした岐阜の代表的な風物である長良川の鵜飼を描き、三等銅牌を受賞。本作の構図は円山応挙の《鵜飼図》(1770)に類似しているが、「鵜飼」をテーマにした作品は生涯を通じて繰り返し描くこととなる。

 この第4回内国勧業博覧会は、玉堂にとって大きな転機となった。同会に出品されていた橋本雅邦(がほう)の作品に感銘を受け、翌年上京し、雅邦のもとで学ぶことを決意。これ以降、玉泉や楳嶺から学んだ円山・四条派の基礎に、雅邦のもとで学んだ狩野派の様式を取り入れ、独自の画風を確立していく。

川合玉堂《朝江炊煙》(1903)絹本、彩色、軸(一幅) 70×114cm 玉堂美術館

 会場では、輪郭線を用いず、墨の濃淡による「面」で立体感を表す没骨(もっこつ)技法を用いた《朝江炊煙》(1903)なども並び、若いうちから様々な表現手法を取り入れようとしていた意欲的な姿勢を見て取れる。

第2章 玉堂芸術の確立―大正から戦中期

 「第2章 玉堂芸術の確立―大正から戦中期」では、大正期から戦時下までの間に制作された、玉堂芸術を象徴する作品の数々が紹介されている。この時期、玉堂は官展を主な活動の場とし、東京画壇の中心的な存在として活躍。1940年には文化勲章を受章した。

川合玉堂《紅白梅》(1919頃)紙本金地、彩色、屏風(六曲一双) 各170×372cm 玉堂美術館

 制作においては、様々な表現手法の研究をより一層深化させていく。琳派に影響を受けた《紅白梅》(1919頃)もこの時代に手がけた作品のひとつだ。《紅白梅》は尾形光琳の《紅白梅図屏風》(18世紀)を参照しているが、白梅と紅梅で遠近差をつけてコントラストを強調した構図や、左右に描かれたシジュウカラは玉堂独自の表現である。

川合玉堂《春風春水》(1940)絹本、彩色、軸(一幅) 75.8×87.5cm 山種美術館

 さらにその後、四季折々の日本の風景を描きつつ、そこに生きる人々の姿も落とし込みむようになる。このような風景を通じて、見る者のノスタルジーを喚起させるスタイルを確立していった。そんな玉堂作品の真骨頂とも言える《春風春水》(1940)では、山桜が散る春の山で、農婦を乗せた渡し舟が川を横断する様子が描かれている。この渡し舟は玉堂が好んだモチーフで、ほかの作品にも頻繁に登場している。

川合玉堂《早乙女》(1945)絹本、彩色、軸(一幅) 63.5×87.3cm 山種美術館

 また、同じく玉堂の傑作のひとつと言われる《早乙女》(1945)では、のどかな田園で農婦たちが田植えをする様子が描かれている。斬新な構図のなかで、農婦たちの表情は、会話の内容が想像できるほど情感豊かに描かれている。

第3章 画業の円熟 奥多摩時代―戦後

 「第3章 画業の円熟 奥多摩時代―戦後」では、1944年に戦禍を避け、奥多摩の御岳に疎開した後の時代に描かれた作品に焦点を当てている。45年5月に都内の自宅が戦災で焼失してしまった背景もあり、玉堂は57年に83歳でこの世を去るまでの晩年期をこの地で過ごした。

川合玉堂《朝晴》(1946)絹本、彩色、軸(一幅) 86.1×102.8cm 山種美術館 第1回日展出品作

 山林が身近な場所で制作を続けた玉堂は、そこに暮らす人々の日常をテーマにすることが増えていき、作風も大らかで牧歌的な雰囲気へと変化していく。

 46年、文展が日展と名を改め再開された際、玉堂はその第1回展で審査員を務めた。会場では、同展に出品された《朝晴》(1946)も見ることができる。

川合玉堂から山﨑種二宛書簡(1940) 山種美術館

 本稿冒頭で同館創立者の種二と玉堂が親しい間柄であったことを紹介したが、その関係を示す資料のひとつとして、本展では玉堂と種二の書簡も展示されている。玉堂が奥多摩に疎開していた際、種二は米を玉堂のもとへ贈ることもあったという。会場では、玉堂による直筆のお礼の書簡が公開されている。

第4章 玉堂のまなざし

 「第4章 玉堂のまなざし」では、同時代の画家たちを含め、玉堂と親しかった人々とのつながりから生まれた作品が紹介されている。玉堂は優しく親しみやすい人柄で、種二の長女の結婚祝いとして玉堂が作品を描き下ろしたというエピソードも残る。その作品《松上双鶴》(1942)は、松につがいの鶴という、婚礼祝いに相応しい画題で描かれた名品だ。

川合玉堂《松上双鶴》(1942)絹本、彩色、軸(一幅) 55.1×72.6cm 山種美術館
左:川端龍子《梅(紫昏図)》、中央:横山大観《松(白砂青松)》、右:川合玉堂《竹(東風)》(1955)絹本、彩色、軸(三幅対) 各56.5×72cm 山種美術館

 また、同時代の画家とも交流も深く、種二が実現を熱望した、横山大観、川端龍子、川合玉堂による合同展「松竹梅展」では合作を発表。会場には、それぞれが描いた「松」「竹」「梅」の作品とともに、当時の様子が伝わる写真も展示されている。

 円山・四条派や狩野派の様式を取り入れながら、独自のスタイルを探求した玉堂。その画業のなかでは、親しみやすい人柄ゆえに様々な人々との交流があり、それが作風の温かみへとつながっているように感じる。確かな技術力に裏打ちされた画業の変遷を辿るとともに、玉堂が何を見てきたのか、作品を通じて追体験できる展覧会だ。