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2025.10.18

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着」(アーティゾン美術館)レポート。共有と追体験の空間が生む、記憶の想起と新たな認識

アーティゾン美術館のコレクションと現代アーティストの共演で新しい美術の可能性を探るシリーズ「ジャム・セッション」が始まった。今回は山城知佳子と志賀理江子。沖縄と東北という異なる地に根ざして制作を続けるふたりが紡ぐ空間は、わたしたちに何をもたらすのか。

文=坂本裕子

志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide
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6回目のジャム・セッション「漂着」

 リニューアルした2020年から、アーティゾン美術館では、同館のコレクションと現代アーティストとの共演により、それぞれの作品の新しい読み取りや響きあいを引き出すプロジェクト「ジャム・セッション」を開催してきた。天井もスペースも拡大した空間で織りなされる共鳴は、まさにジャズの即興のような思いもかけぬひらめきや刺激をもたらして、美術の、創造の可能性を広げる。

 同館のコンセプトでもある「創造の体感」を提供する企画も6回目となる今年は、ビデオアーティストの山城知佳子と写真家の志賀理江子が招聘された。

左から内海潤也(担当学芸員)、山城知佳子、志賀理江子 撮影=筆者

 ネットの普及によりグローバル化が進む現在は、同時に地域や文化の断絶や閉鎖性をもたらして、かつては共有されていたものが失われつつある。世界で起こっている戦争や災害、急激な社会の変化も、情報の氾濫する世界で、何が事実かの曖昧さとともに急速に流れていき、私たちはそうした出来事を意識し続け、考えることが難しくなっている。とくに日本では、震災や戦争の記憶が薄れ、世代、地域、伝統などの分断が顕在化してきた。

 生地の沖縄と東京を拠点に、写真・ビデオ・パフォーマンスを駆使して、その歴史・政治・文化を視覚的に探究することから、普遍的なテーマに潜む個の記憶を引き出す山城と、愛知から宮城に移住し、その地の人々との交流を通して、人間社会と自然とのかかわりとその歴史・記憶を写真というメディウムを通して作品にしてきた志賀。日本の南と北の異なる地で、それぞれに土地に根ざし、生活のなかでその記憶や歴史に身体的に向き合うことから生み出された骨太な作品は、それゆえの訴求力を持ち、「中心と周縁」、「土地と記憶」への再考をうながして、世界的にも注目されている。

 本展担当学芸員の内海潤也は、コレクションと現代アートを組み合わせる展覧会がトレンドになりつつある現状に鑑み、これまでのジャム・セッションをあえて批判的に検証、どうしても所蔵作品を引き立てる傾向が強いことに硬直化を感じ、強烈な写真や映像、サウンドとその身体性で既存の物語やイメージに転換をもたらすふたりの作品で、改めてコレクションがまとう定着した印象を見る者の感覚とともに揺さぶることを企図したという。

 展覧会タイトルは「漂着」。流れ着くものの偶然性と必然性、外部から“異物”が入ることとそれを受けた内部の反応は、何かしらの衝撃となり、変化をもたらす。それは山城と志賀の創作の軌跡とも重なって、移動、記憶、災害、そして再生、未来などを切り口に、コレクション作品と交差しながら見る者の五感に響く空間を創り出す。セレクトされたコレクション作品は全4点とこれまでに比べて少ないが、それゆえにふたりの作品によりコミットしたかたちで、新しい貌を見せている。

アルベルト・ジャコメッティ《歩く人》(石橋財団アーティゾン美術館)は志賀のセレクト。ほかにヘンリ・ムーア、滝口修造の作品が展示されている

時空を超えた記憶が想起するもの:山城知佳子 《Recalling(s)》

 6階に展開するのは、山城の《Recalling(s)》。1フロアまるまる使っての大きな新作発表は初めてという山城は、同館所蔵のアボリジナル・アートのジンジャー・ライリィ・マンドゥワラワラの《四人の射手》(1994)に共同体の生活を思い、その色彩や筆のタッチに強い印象を持ったという。それは巨大なパラシュートとともに見る者を迎え、戦前の沖縄の原風景と重なり、太平洋戦争の「記憶」へとつながっていく。

 山城の父・達雄は作家であり、幼少期にパラオ共和国で過ごした経験を持つ。自身の小説に取り込み、娘に語り聞かせてきたその記憶のあり様や個としての歴史を山城はいくつかの作品にしてきた。本作では、老齢になりその記憶もおぼろげになった父とともに、彼が過ごした場所を探してアンガウル島を訪ねた旅の様子を基調に、5つの大スクリーンの映像と様々な布で構成される大規模なインスタレーションが展開されている。

山城知佳子 Recalling(s) 2025 © Chikako Yamashiro. Courtesy of the artist
山城知佳子《Recalling(s)(2025)の展示風景 © Chikako Yamashiro. Photo: kugeyasuhide

 それぞれのスクリーンには、パラオでたどたどしくも懐かしい記憶をたどる父の姿のほか、東京大空襲で家族の大半を失った経験を語る亀谷敏子、戦後沖縄の米軍基地でジャズ・シンガーとして歌っていた齋藤悌子、10代で「ハイサイおじさん」を作曲し、沖縄音楽を全国に広めた喜納昌吉に取材した内容が音とともに流れる。

 日本の植民地時代のアンガウル島に向かう船の上で鳥を見つけた幼い達雄は、沖縄の言葉で「とぅいや、とぅいや」と指さしたところ、誰かに「それは『鳥』というのだ」と日本語で訂正されたという記憶を娘に幾度も話していたという。

 語り部として活動する亀谷に何度も話を聞いた山城は、戦後80年を経て体験者がいなくなっていくなかで、言葉では伝わり切れない思いを拾い、本人と出会って感じた存在自体を伝えられたらと映像にした。

 10代から基地で歌っていた現役の歌手・齋藤の映像からは、当時人気だった「ダニー・ボーイ」が響く。それは、沖縄からベトナムへ向かう兵士たちに、家族を思い出させる歌であり、もうひとつの戦争の記憶も重なっていく。

 いまも甲子園で流れるなど、楽しげに受け取られる「ハイサイおじさん」には、喜納が実際に目にした、戦後沖縄の困窮が招いた痛ましい事件のトラウマが潜んでいる。

山城知佳子 Recalling(s) 2025 © Chikako Yamashiro. Courtesy of the artist パラオを象徴する花とともに鳥を表す達雄
山城知佳子《Recalling(s)》(2025)の展示風景 © Chikako Yamashiro. Photo: kugeyasuhide
山城知佳子 Recalling(s) 2025 © Chikako Yamashiro. Courtesy of the artist

 パラオ、東京、沖縄、3つの地に残る戦中から戦後、そして現代までの3世代ほどの記憶は、各所に垂れる布を媒介に音響も含めて絡み合い、重なり合い、響きあって1つの空間を生成する。それは、「劇場」のようであり、「誰かの脳内」のようであり、仮設された「バラック」のようでもあり、見る者は、その「記憶の回廊」をさまようように渡り歩くことで、自身の記憶も含めて空間が満たされていくのを感じるだろう。

 作家も驚きだったという《4人の射手》との呼応と5つの映像と音響がひとつの音楽のように響き、布がそれを受け止め映像にもなる本作は、受け取る人それぞれに異なるストーリーが生まれる、過去、現在、未来が交錯する場となった。

山城知佳子《Recalling(s)》(2025)の展示風景 © Chikako Yamashiro. Photo: kugeyasuhide
山城知佳子《Recalling(s)》(2025)の展示風景 © Chikako Yamashiro. Photo: kugeyasuhide
山城知佳子《Recalling(s)》(2025)の展示風景 © Chikako Yamashiro. Photo: kugeyasuhide

“個”の体験から土地の記憶の共感へ:志賀理江子 《なぬもかぬも》

 2011年の震災を体験した志賀は、災害そのものよりも以後に起こった復興の内実に受けた衝撃が大きかったという。一生をかけて向き合い、そこに潜っていく決意を語る志賀にとってそれは、10代のころから感じていた「近代以降」への不気味な感覚や自己への内省であり、標準化によって周縁へと追いやられ、抑圧され、破壊されてゆく土地特有の文化や尊厳へのまなざしである。

 本作は、東北各地を撮影・取材の運転中にすれ違った10トントラックのフロントスクリーンに掲げられた「なんもなぬも」のひらがな6文字との出会いが出発点となった。宮城沿岸部の方言で、標準語にすれば「何でもかんでも」ととらえられようが、トーンや言い回しで地域により異なる認識で使われていることを知った志賀は、これを「何にもとどまらない、多様な意味に開かれている」反プロパガンダの言葉としてとらえたときに見えてくる風景を求めていく。

 そして、その過程で見出したのが「褜(えな)」だ。胎児と母体をつなぐ「へその緒」や胎盤のことで、地域によっては儀礼などに用いられるも、字は常用漢字からも外れ、忘れられつつある。出産時、まれに胎児にへその緒が首に絡みついていることがあり、死産や身体的な障害を負う危険性がある。この地方では、生死の境をさまよって生まれたこうした子供に、褜を仏の傘と見立て災いを福に転じさせるため、褜の字を名に付ける風習があったそうだ。現在もこの名を持つ男女が十数名いるという。志賀は、この「褜がらみ」をひとつの象徴として、見えないものが見える「内海褜男」という架空の存在が語りだす物語を、空間いっぱいの高さ4.2メートルの巨大な写真絵巻に仕立てた。

志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景。左は世界で4番目に造られた原子力潜水艦「ムツ」の実物大模型 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide
志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide

  絵巻は大きく3章で構成される。三陸での海から陸(おか)への物流の変化を「人間の作る道=人間社会のやり方」ととらえ、漁師たちの生き方やコミュニティのなかに、海に生まれ、海に死んでいくサイクルを提示するが、その語りはたくさんの「私」に分岐していく。

 死はタコとクジラの体内でエネルギーに変換されることに暗示される。そこから復興の10年をそれなしでは語りえない原発という巨大なエネルギーが、命のそれと対照される。絵巻は左から右へと展開し、時間を遡行して、過去から現在への流れとぶつかり合う。

 原発の悲劇を見ながらも依存せざるを得ない現代のあり様は、絶えることのない戦争にも通じていく。それらは権力構造のなかでそこに生じる亀裂や抑圧を覆い隠す。世界へと向けられた意識は、この世界・社会でわたしたちはどう生きているのか、「私たちは見ている」という宣言とともに問いかける。

志賀理江子 褜がらみで生まれた 2025 ©Lieko Shiga. Courtesy of the artist
志賀理江子 大五郎の逆さ舟 2025 ©Lieko Shiga. Courtesy of the artist
志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景。絵巻には取材時に撮った人々の写真も並ぶ © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide
志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide

 会場では、アカガエル、ウシガエル、トノサマガエル、カジカなどのカエルの鳴き声が重なる。近代化の象徴ともいえる東北の田んぼで、夏には驚くほどの大音声になるというカエルは、初めて声帯を発した生物であり、常に水辺という辺境に生き、皮膚呼吸のため環境の変化であっという間に絶滅する。志賀は、人間に先んじて何かを察知する存在としてカエルの声を選んだ。

 ときにつぶやきや散文で、ときにスローガンで、あるいはマニフェストのような長文でつづられるテキストを拾い読みし、ビーズクッションにもたれてカエルの声に聞き入りながら、痛々しく、グロテスクともいえる生々しい絵巻のなかを猟歩する体験は、現実と幻想、過去と未来を往還すると同時に、何かの胎内にいるような、その一部になっているような感覚を呼び起こすだろう。

志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide
志賀理江子《なぬもかぬも》(2025)の展示風景 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide

 視覚と聴覚への圧倒的なインパクトを身体的に体感するふたつの空間は、知らない経験と記憶が今を生きる自身のそれを巻き込んで、深い思索へとうながしていく。未来へ向けて私たちは何を伝えていかなければならいのか、「見せられていたもの」や「考えさせられていたもの」から逃れ、自ら「見て」、「考える」、そこに新しい認識や可能性が拓かれていくはずだ。