2025.10.7

堂本印象とは何者だったのか? 「没後50年 堂本印象 自在なる創造」(京都国立近代美術館)開幕レポート

京都画壇を代表する画家であり、マルチな活躍を見せた堂本印象。その軌跡をたどる回顧展「没後50年 堂本印象 自在なる創造」が京都国立近代美術館で開幕した。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

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 京都画壇の巨匠・堂本印象(1891〜1975)。その大規模回顧展「没後50年 堂本印象 自在なる創造」が京都国立近代美術館で開幕を迎えた。担当学芸員は平井啓修(同館主任研究員)。

 京都で酒造業を営む裕福な家の三男として生まれた堂本印象は幼い頃から絵を好み、その才能を発揮していた。1918年に京都市立絵画専門学校に入学し、20年には西山翠嶂が主宰する画塾「青甲社」に入門。第1回帝展(1919)に《深草》を出品して初入選して以降、第3回帝展(1921)では《調鞠図》で特選を、第6回帝展(1925)では《華厳》で帝国美術院賞を受賞するなど、官展を中心に活躍した京都画壇を代表する人物だ。

 細密な具象画を得意としたが、60歳を過ぎてから渡欧して以降は抽象的な作風に転じ、筆のストロークを活かした躍動感あふれる抽象画を展開した印象。同館・福永治館長は印象を「戦前戦後を通じて京都画壇に多大な足跡を残した、ほかに例のない作家」と評する。

 これまで印象の仕事を紹介する役割は京都府立堂本印象美術館が担ってきたこともあり、京都国立近代美術館では初の印象展となる本展。印象の画業の変遷を5章構成で年代順に紹介するもので、官展および新日展出品作を中心に、国内で所蔵される作品約98点が集結するまたとない機会だ。

展示会場エントランス

 1章「研鑽の日々」には、若き日の印象の作品や工芸図案などが並ぶ。

 京都市立美術工芸学校に進んで絵の勉強に励んだ印象だったが、この時期に家業が傾く事態となった。そのため印象は在学中は三越呉服店で働き、卒業後は織物業界で異彩を放っていた初代・龍村平蔵の工房で図案を描くようになる。家計を支えながらもスケッチや水彩画を描き、画嚢を肥やすことを忘れることはなかったという。画壇デビュー前の印象の足跡はわからないことも多いというが、ここでは京都市立美術工芸学校在学中に描かれた《仁和寺の塔》(1907)などから、すでに高い画力を有していたことがわかる。

1章の展示風景
展示風景より、『いの字絵本 恋の都大阪の巻』(1912)

 龍村平蔵の支援によって京都市立絵画専門学校へ入学した印象は、入学した翌年に第1回帝展に初出品して入選を果たす。2章「画壇デビュー」は、印象の華々しい画業の始まりをたどるものだ。第1回帝展入選作の《深草》(1919)、第3回帝展で特選を受賞した 《調鞠図》(1921)、翌年の第4回帝展に出品し帝展無鑑査の資格を得た《訶梨帝母》(1922)、そして第6回帝展で帝国美術院賞を受賞した《華厳》(1925)など、その地位を確立する契機となった重要作品が並ぶ。とくに制作に2年をかけた大作《華厳》は所蔵元である東大寺でも展示される機会は少なく、本展は貴重な鑑賞機会と言える。

展示風景より、《深草》(1919)
展示風景より、 《調鞠図》(1921)
展示風景より、手前が《訶梨帝母》(1922)
展示風景より、《華厳》(1925)

 3章には、画壇での地位を盤石なものとした時期の作品が並ぶ。印象のもとには寺社を中心として数多くの制作依頼が寄せられ、数多くの襖絵などを制作した。また、母校の京都市立美術工芸学校の教諭や京都市立絵画専門学校の教授、画塾「東丘社」の創設など後進の育成にも力を入れていた。

 具象絵画としての円熟期を迎えた印象。ここでは《木華開耶媛》(1929)や《雲収日昇》(1938)をはじめとする、創作意欲を横溢させた時期の境地に目を凝らしたい。

3章の展示風景
展示風景より、《木華開耶媛》(1929)
3章の展示風景
展示風景より、《雲収日昇》(1938)

 続く4章は、画業の転換機にフォーカスするものだ。第二次世界大戦後、「ピカソ風」絵画の流行を受けたキュビスムの影響が色濃い《八時間》(1951)を制作するなど、当時の美術潮流を敏感に察知しながら画風を変化させていった印象。その画風は、1952年5月から11月にかけてのヨーロッパ遊歴を経てさらに大きく変化した。

展示風景より、《八時間》(1951)
展示風景より、《メトロ》(1953)

 ヨーロッパ遊歴の影響がいかに大きなものだったのか。それは帰国後に描かれた《生活》(1955)や《意識》(1956)を見れば一目瞭然だろう。どちらの作品も、明らかにピエト・モンドリアンの影響を感じさせる幾何学的な画面が特徴的だ。前者にはまだ具体的なモチーフが見られるが、後者は完全に色面で構成されている。この変化にも注目したい。

展示風景より、左から《生活》(1955)、《意識》(1956)

 印象の画風にさらなる変化をもたらしたのが、1957年9月13日のミシェル・タピエの訪問だ。戦後、欧米の美術界で見られた未定形の表現を「アンフォルメル」という概念で論じたことで知られるタピエ。すでに抽象表現に取り組んでいた印象だったが、タピエと出会ったことでアンフォルメルに接近。俵屋宗達の《風神雷神図屏風》に挑んだ《風神》(1961)も、見事にアンフォルメルの作品となっている。

5章の展示風景より、中央左はアンフォルメル風抽象画へと進んだ初期の作品《無間知覚》(1960)
5章の展示風景より
5章の展示風景より、左から《桜杉木立屏風》(1972)、《風神》(1961)

 いっぽう、晩年の作品では印象芸術の中核とも言える仏教をテーマとし、具象的なモチーフが再登場する点は興味深い。絶筆となった《善道大師》(1975)は、力強い抽象的な筆跡の中に善道大師の姿が描かれており、画風を軽やかに変化させてきた印象の最期を飾るにふさわしいものと言えるだろう。

展示風景より、左から《善道大師》(1975)、《十念十声》(1972)

 なお、本展最後を飾る特集展示も重要なパートだ。ここでは、印象を語るうえで欠かすことができない画業以外の仕事が紹介されている。

 趣味人であった父の影響もあり、若い頃から茶の湯に親しんでいた印象は、掛軸(茶掛)や茶碗や水指、茶釡の図案にいたるまで茶道具も制作。陶芸に関は図案だけでなく茶碗や皿などを自らの手で作陶しており、京都の陶芸家6 代・清水六兵衞とも交友関係にあった。

展示風景より、印象が絵付から成形までした抹茶茶碗《髙風思想》(1970)

 また、内外装からインテリアのデザインまでも自ら手がけた京都府立堂本印象美術館(1966年開館)の仕事も見逃すことはできない。いまも衣笠に構える同館は圧倒的な存在感を放っており、2025年に国の登録有形文化財に登録された。まさに印象の集大成のひとつであり「最高傑作」(福永)だ。ここはその壁面装飾図案(1967)や、館内用の椅子、そして開館時のポスターなどを見ることができる。

展示風景より、《瞑想(壁面装飾図案)》(1967)
展示風景より、印象がデザインした京都府立堂本印象美術館の館内用の椅子(1966)

 画家としてだけでなく、マルチな活躍を見せた堂本印象。平井研究員は「多作で広範囲な作家であり、これですべてが語れるわけではない」と語るが、それでも本展は印象の全体像をとらえることができる好機だと言えるだろう。なお、鑑賞後は衣笠まで足を伸ばし、堂本印象美術館を訪れることをお勧めする。

京都府立堂本印象美術館