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2025.8.23

「笹本晃 ラボラトリー」展(東京都現代美術館)開幕レポート。身体と空間の方程式を遊ぶ

東京都現代美術館で「笹本晃 ラボラトリー」展が始まった。ニューヨークを拠点に活動を続けるアーティスト・笹本晃の約20年にわたる歩みをたどる国内初のミッドキャリア回顧展をレポートする。

文・撮影=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、《スピリッツの3乗》(2020)
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 東京都現代美術館で、「笹本晃 ラボラトリー」展がスタートした。会期は11月24日まで。

 本展は、ニューヨークを拠点に造形表現とパフォーマンス・アートを往還しながら活動を続けてきた笹本晃の約20年にわたる仕事を紹介するものであり、国内初となる本格的なミッドキャリア個展である。

 笹本は、2000年代半ばよりパフォーマンス、ダンス、インスタレーション、映像など多様なメディアを自在に用い、身体を取り巻く環境そのものを作品化してきた。自ら設計・構成した装置や彫刻を空間に配置し、その中で即興的にパフォーマンスを行うスタイルで広く知られている。初期には個人の習慣や癖といったパーソナルな領域を題材に、近年は気象や動植物の生態など外部の現象を観察対象として取り入れ、作品構造に結びつけている。本展タイトル「ラボラトリー」は、実験や研究の場を意味すると同時に、作家が世界を注意深く観察し、分析する姿勢を象徴する。

 担当学芸員の岡村恵子は本展の開幕にあたり、次のように語った。「当館は開館30周年を迎えるにあたり、どのような作家と展覧会を行うかを検討した。30周年は過去を振り返ると同時に未来を展望する節目でもあり、既に確立された作家を紹介するのではなく、これからさらに飛躍する中堅作家を後押しすることが重要だと考えた。その結果、ミッドキャリアにあたる笹本を取り上げる展覧会を企画することになった」。

 1980年に神奈川県に生まれた笹本は、10代で単身渡英し、UWCカレッジ・イギリス校に留学した。言語的制約から自らの感情や思考を十分に表現できなかった経験が、路上での即興的な身体表現へとつながり、パフォーマンスへの関心を抱く契機となった。その後、アメリカのウェズリアン大学に進学。数学者を志すいっぽうで、学際的な教育課程の中で1960〜70年代の前衛的な芸術表現に触れ、次第にダンスと美術を横断する創作へと傾斜していった。在学中から学内外でのコラボレーションや発表で注目を集め、作家としての基盤を固めていった。

 本展の冒頭を飾るのは、笹本のキャリアの出発点に位置付けられる2005年のパフォーマンス《cooking show(クッキング・ショー)》の記録写真である。料理番組の撮影スタジオを見学したことを契機に、料理番組特有の構造を誇張して再現するパフォーマンスを着想。仲間と結成した「ロウアー・ライツ・コレクティブ」とともにニューヨークの実験的なパフォーマンス・シーンで活動するなかで、同作は自身の「名刺代わり」とも言える作品となった。料理番組がカメラを通して「手元」を強調する仕組みを応用し、長い包丁や改造した道具を用いて観客の目の前に非日常的な光景を立ち上げた。

展示風景より、右は《cooking show(クッキング・ショー)》(2005/2008)

 同じ展示室には、2009年に発表された《Secrets of My Mother’s Child(母の娘の事実)》の映像や関連立体《X ✕ Y=1》が並ぶ。椅子の脚部を輪切りにし、そこに紐を通して吊り下げた立体作品は、一見すると座れる家具のようでありながら機能を失っている。パフォーマンスでは、その紐をX軸とY軸に見立て、人と人との距離と緊張関係を漸近線として図式化するなど、数学的発想を空間に持ち込んだ。岡村は、「笹本はもともと数学者を志していたこともあり、初期作品には数学の図式を空間の中で身体的に体現し、その中に自身の身体を置いてみるといった試みが繰り返し登場する」と語る。

左から《X ✕ Y=1》、《Secrets of My Mother’s Child(母の娘の事実)》(いずれも2009)

 2010年、笹本はMoMA PS1で開催された「グレーター・ニューヨーク」展に選出され、《Skewed Lies(ねじれた嘘)》を発表。元は小学校だった建物の地下室を会場に、湿ったボイラー室の複雑な空間を利用し、現場に残されていた金属パイプや机を改造して設置した。空間を横切る2本のパイプは「ねじれの位置」と呼ばれる幾何学概念を再現しており、交わることのない線が観客の身体を取り囲む環境として立ち現れる。笹本は、自身の身体をその構造に置くことで、人間と空間の関係を数理的に可視化した。

《Skewed Lies(ねじれた嘘)》(2010)の展示風景

 同年ホイットニー・ビエンナーレで発表された《Strange Attractors(ストレンジ・アトラクターズ)》は、笹本の活動における大きな転換点となった。タイトルが示すのは、カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」という数学的概念である。ローレンツ方程式を三次元化した図形モデルを空間に模し、金属線を張り巡らしたインスタレーションを構築。その線には、樹脂で固めたコップや金属棒などを結びつけ、位相幾何学的な思考を物質化した。

《Strange Attractors(ストレンジ・アトラクターズ)》(2010)の展示風景

 会場には円形のオブジェやドーナツ型の素材が多く配置され、パフォーマンス中には笹本が円を描く動作を繰り返し、観客に「ドーナツを内側から食べることは可能か」と問いかける場面もあった。さらに、吊られた複数のビデオカメラが観客やオブジェを映し出し、空間そのものが多視点的に動的化されていく。ニューヨークのアートシーンでパフォーマンス作品への関心が高まるなか、笹本はその潮流と呼応しながら独自の存在感を示していった。

 バーを模した空間にカウンターやエスプレッソマシン、ビール瓶、棚や看板、ゴミ箱などが配置される《Wrong Happy Hour(誤りハッピーアワー)》では、観客はビール瓶を片手に舞台の登場人物のひとりのように作品世界に巻き込まれる。本展ではパフォーマンスは実施されず、図面をもとに実寸でインスタレーションが構築され、舞台裏の仕掛けまでが露わに提示されている。

《Wrong Happy Hour(誤りハッピーアワー)》(2014)の展示風景

 作品中央のパネルは取り外し可能で、パフォーマンス時には書き込まれるダイアグラムが交換される仕組みだ。さらに背後を覗くと、壁面のカウンター自体が可動式であり、レールによって前後に動かせるよう設計されていることがわかる。細やかな調整によって棚や看板を避けつつ移動する壁は、パフォーマンスの終盤で観客を外へ押し出す仕掛けとなり、空間そのものが観客や作家の動きを誘導する装置=スコアとして機能している。

 《スピリッツの3乗》は、弘前れんが倉庫美術館の開館記念に際して制作された作品である。同館は明治期に酒造工場として建てられ、戦後にはシードル醸造所としても使われた建築遺産であり、館内に残る窓枠や鉄製の扉などの廃材がそのまま作品に組み込まれている。さらに吹きガラス職人との共同制作によるオリジナル彫刻、工業用ダクトや遠心ファン、自作のカートなどを加え、空間全体が風の循環でつながる大規模なインスタレーションとして構成された。

《スピリッツの3乗》(2020)の展示風景

 作家自身は40代を迎え、知識を蓄えるいっぽうで身体の衰えを実感するようになっていた。笹本はそのプロセスを「発酵」にたとえ、パフォーマンスでは天気予報を模した語り口で老いの経験を語った。本作は現在、弘前れんが倉庫美術館に収蔵されており、今回は初出時の構成を参照しつつ東京都現代美術館の空間条件に合わせて再構成されている。

 インスタレーションそのものが自律的に動き出す方向性を示すのが《Sounding Lines(測深線)》である。多数のバネが空間を横切り、そこに疑似餌を模した立体が吊るされている。包丁や茶こしなどの日用品が組み込まれたルアーは、モーターの振動によって波を描き、独特の音響を生む。「Sounding」には水深を測る意味と音を響かせる意味があり、両義的なタイトルが示すように、作品は測定と音響を同時に体現している。

展示風景より、手前は《Sounding Lines(測深線)》(2024)

 香港での初演では、釣り人がルアーに求める「見た目」と「動き」の違いに触れながら、交友関係を外見ではなく行動で選ぶべきだという自身の考えを語った。《Catch or Be Caught(とるかとられるか)》は蟹漁の罠を模した立体がモーターで上下する作品であり、捕らえる側でありながら捕らえられる存在にもなりうる、人間関係や欲望の二重性を映し出している。

展示風景より、手前は《Catch or Be Caught(とるかとられるか)》(2025)

 最後の展示室には、2022年ヴェネチア・ビエンナーレで発表した《Sink or Float》を発展させた《Social Sink Microcosm(流し台で社会の縮図)》が紹介。業務用シンクの上にアクリル板を設置し、下部から風を送り込むことで、上に置かれたカタツムリの殻やスポンジ、プラスチック片などが空気の流れに乗って滑らかに動く。物体それぞれの軌跡は予測不能でありながら、全体としてひとつの社会の縮図を形づくる。

展示風景より、映像作品は《Point Reflection(点対称)》(2023)
《Social Sink Microcosm(流し台で社会の縮図)》(2022)の展示風景

 同時に展示される映像作品《Point Reflection(点対称)》では、シンクを下から撮影し、オブジェの動きをワンショットで捉えている。多くの殻が同じ方向に回転するなかで、羽根をあしらった殻だけが逆方向に回転する。その姿に笹本は、多数派に同調せず異なる動きを選ぶ存在──クィアな視点を重ね合わせる。顔をシンクに近づけ、風を頬で受ける笹本自身の姿は、観察者でありつつ、小さなパフォーマーに寄り添おうとする研究者のようでもある。

 なお会期中には、新作を含む4作品のパフォーマンスが複数回予定されている。展示と実演の両面を往還する本展は、20年にわたる笹本晃の実践を検証し、その先を示す意欲的な試みとなっている。

2階の資料室の展示風景