2025.7.16

「建築家・内藤廣 なんでも手帳と思考のスケッチ in 紀尾井清堂」レポート(紀尾井清堂)。ひとりの建築家の手帳を介してたどる、40年間の思考の軌跡

東京・千代田区にある倫理研究所 紀尾井清堂で、「建築家・内藤廣 なんでも手帳と思考のスケッチ in 紀尾井清堂」が開催されている。建築家・内藤廣の思考の軌跡をたどる本展覧会をレポートする。会期は9月30日まで。

文・撮影=大橋ひな子(ウェブ版「美術手帖」編集部)

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 東京・千代田区にある倫理研究所 紀尾井清堂で、「建築家・内藤廣 なんでも手帳と思考のスケッチ in 紀尾井清堂」が開催されている。建築家・内藤廣の約40年分の手帳を年代別に公開した、内藤の思考の軌跡をたどる本展覧会。会期は9月30日まで。

 内藤は、1976年に早稲田大学大学院修士課程を修了したのち、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所や菊竹清訓建築設計事務所を経て、1981年に内藤廣建築設計事務所を設立した。主な建築作品に、海の博物館や安曇野ちひろ美術館、とらや赤坂店、銀座線渋谷駅、富士高原研修所などが挙げられる。

 本展は、そんな内藤の作品のひとつである倫理研究所 紀尾井清堂で開催されている。紀尾井清堂は、一般社団法人倫理研究所の倫理運動を、対外的に発信するシンボルとして2020年に建設。一般社団法人倫理研究所の理事長・丸山敏秋は、機能を決めないで思ったようにつくってほしい、つくった後に機能はあわせる、という難題を内藤に託し、本施設が誕生した。

 建物自体は5階建てとなっており、15m角のコンクリートキューブを4本の柱で持ち上げ、外間をガラスで覆うという特徴的な構成になっている。1階はピロティとなっており、2階以上は吹き抜け構造になっている。

展示風景より、吹き抜けのスペース

 本展は、この紀尾井清堂の各フロアを使って、内藤の思考の軌跡を紐解く構成となっている。

 1階は「東日本大震災への鎮魂」と題され、18800個のガラスピースがリング状に再構築されたインスタレーションが登場する。このフロアは、多角形の4本柱が15m角のコンクリートキューブを支える構造となっている。通常は何も置かれていないが、2022年3月〜23年3月の約1年間の間に、陸前高田市の倉庫で静かに保管されていた震災復興シンボルの「奇跡の一本松」をここで展示していたこともあり、今回も東日本大震災への鎮魂をテーマとした展示を行っている。

展示風景より、1階のピロティに展示されている18800個のガラスピース
展示風景より、過去に実施した「奇跡の一本松」の展示風景

 内藤は、東日本大震災の発災から約2ヶ月後に、亡くなった方と行方不明者の方が25673人という新聞記事を見つけ、日頃自身が使っている赤いペンで25673のドット(点)をA4用紙に3日間かけて打ち続けた。それを展開するかたちで、2012年に展示制作された、被災された方の数である約2万ピースのガラスタイルが床に並べられている。

展示風景より

 続いて建物の外にある階段を登り2階へ上がる。階段から上を見上げるとコンクリートとガラスの間の空間を間近で見ることができる。

展示風景より、2階へ上がる途中の階段から見える景色

 2階に展示されているのは、「言葉の曼荼羅」。内藤の近著から、印象的なフレーズが抜粋されたものが曼荼羅状に並べられている。各フレーズは、建築事務所のスタッフが選んでおり、内藤の情熱的な一面が現れている言葉は赤色で、冷静沈着な一面が現れている言葉は青色で書かれている。

展示風景より、言葉の曼荼羅

 「言葉の曼荼羅」から、上に向かって目線を移した先には吹き抜けの空間が広がっており、いよいよ3〜5階にかけて、本展の目玉ともいえる、内藤の約40年分の手帳が年代順に公開されていく。

展示風景より

 内藤はこの40年間、A5版の能率手帳にすべての情報を詰め込むことを習慣にしている。日々の予定だけでなく、その時々に思いついたこと、記憶に残しておきたいこと、プロジェクトや旅先でのスケッチ、プロジェクト図面といった仕事からプライベートに関わるありとあらゆるものが、1年に1冊のペースで貼り込まれている。手帳に貼りきれないものは捨てる、というルールはあるが、最近では1年が終わると手帳の厚さは3倍近くに膨れ上がるという。綴じ込まれる情報は様々だが、内藤のほぼすべての思考の軌跡が詰まっているといってもよいだろう。

 手帳は下の階から古い順に並べられている。3階は1973〜95年、4階は96〜2009年、そして5階は2010〜24年の最新のものが展示されている。

 1年に1冊ずつ増えていく手帳のオリジナルが、フロアをぐるりと一周するように展示される。その年のなかで印象的なページが開かれており、当時の社会現象なども明記されながら、そのページに書かれている内容が、内藤の飾らない言葉で説明されている。またそのオリジナルの横には、手帳の一部内容を抜粋したレプリカ版が設置されており、実際に触ってページをめくりながら、手帳の中身を実際に見ることができる。

展示風景より

 また、そのときのノートに関連する図面や資料が対向面の壁に展示してあり、内藤の試行錯誤の末に生まれた建築物たちの完成図を隅々まで見ることもできる。

展示風景より

 さらに会場の壁面には、写真家の石元泰博に撮影を依頼した、海の博物館(1992年)、安曇野ちひろ美術館(1998年撮影)、牧野富太郎記念館(1999年撮影)、倫理研究所 富士高原研修所(2001年撮影)と、同じく写真家の山田脩仁に依頼した島根県芸術文化センター(2006年撮影)の写真も展示されている。とくに石元とは長年の仲であり、自分が満足するものをつくれた際には、モノクロでの撮影を依頼し、自費出版で写真集も出版していた。

展示風景より

 実際1冊ずつ手帳のなかを見ていくと、ファミレスの紙ナプキンに青のサインペンで描いたスケッチや、写真、新聞の切り抜きもある。人に見せる前提のものではないからこそ、内藤の心のうちがわかるようなリアルな悩みや葛藤、アイディアの種も随所に見つけることができる。

展示風景より、ファミレスの紙ナプキンに青いインクで書かれたスケッチ

 例えば、「海の博物館」の総仕上げの年であった1991年の手帳には、ローコストでの設計に追われ何もかもが嫌になった内藤が、目的も決めずにパリへ逃げたときの様子がわかる。安宿に泊まり、10日間近く散歩するだけの日々を過ごし、そのなかで描いた教会や宿のダイニングのスケッチが、手帳のなかに収まっている。

展示風景より、パリでのスケッチ

 1997年の手帳には、「茨城県天心記念五浦美術館」の現場写真が貼り込まれている。この写真の説明を、内藤はこう記した。

 コンペには勝ったものの、なんと設計に取り掛かってから竣工まで一年半。こんなに複雑で大きな建物なのに、設計も工期も住宅並みのスケジュール。すべては政治日程で決まっていた。その超突貫工事の最終盤、三月末の年度末までに完成しなければならなかった。現場がなかなか進まず、どうしても気になって正月の二日、誰もいない現場に行った時の写真。情けなくて涙が出てきた。とても残り三ヶ月とは思えない現場風景。自分への戒めとしてノートにこの時の写真を貼った。一生忘れられない衝撃的かつ絶望的な風景。
展示風景より、「茨城県天心記念五浦美術館」の現場写真

 内藤廣という建築家は、数々の有名な建築を生み出してきたが、その功績の裏にはそれよりも多くの葛藤や挑戦、挫折があったのだということを肌で感じることができる。またこれだけの建築物を生み出している内藤でも、じつは多くのコンペに負けている経験があることも詳らかに開示している。

 ただ、負けたコンペのなかでもとくに印象的なのが、2010年の手帳に書かれている、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社が運営する代官山のTサイトのコンペだ。内藤は、代表の増田宗昭の考えに共感し、力を入れて提案を作成したが結果は実らなかった。しかしコンペの後に増田から、「これはこちらの負けです、まだこのオペレーションをするだけの組織になっていません」と言われたようで、それに対し内藤は、「これはうれしかった。負けてこんなことを言われたのは初めてだった」と記している。

展示風景より、代官山のTサイトのコンペ用の資料

 本展は、上の階に上がるにつれて、内藤というひとりの建築家の人生が進むような構成になっているが、数々の積み上げられていく実績とともに、個人的な心情や思考の変化すらも追体験できるようになっており、内藤という人物の、成功体験ばかりではないリアルな個人史をなぞるような展示となっている。

 同時期に行う渋谷ストリームホールでの「建築家・内藤廣 赤鬼と青鬼の場外乱闘 in 渋谷」展とは違った展覧会にしたいという意向で、手帳を通じて心のうちをさらけ出すような展示構成のアイディアを出したのは、じつは内藤だという。「思ったようにつくってほしい」というお題に沿って設計した本施設のなかで展開される、内藤の心のうちと思考の軌跡。通常一般公開はされないこの美しい建築物のなかで、ひとりの建築家の人生に思いを馳せてみてほしい。

展示風景より