2025.5.31

「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」(東京都写真美術館)開幕レポート。広島原爆の惨禍を伝えようとした人々の矜持

東京都写真美術館で広島市民や報道機関のカメラマン、写真家の手による広島原爆の被害をとらえた写真約160点と映像2点を公開する展覧会「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」が開幕した。会期は8月17日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、左が山田精三、右が深田敏夫撮影のきのこ雲(8月6日)
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 東京都写真美術館で広島原爆の被害をとらえた写真や映像を公開する展覧会「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」が開幕した。会期は8月17日まで。

 第2次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、米軍がB29爆撃機「エノラ・ゲイ」から人類史上初めて、都市の上空に原子爆弾を投下。広島の市街地は壊滅的な被害を受けた。本展では、広島市民や報道機関のカメラマン、写真家の手による広島原爆写真約160点と映像2点を公開。資料の所蔵や保存・活用に携わってきた報道機関が連携し、原爆写真と映像の展覧会を主催するのは初の試みとなった。

展示風景より、新見達郎による相生橋上から前に向かっての3枚パノラマ写真(1945、9月11日ごろ)
会場エントランス

 展示は、2023年に報道機関と広島市が共同で国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」に国際登録を申請した「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」(写真1532点、映像2点)をもとに、3章と映像展示により構成されている。

 第1章「きのこ雲の下で〜8月6日の記録〜」では、原爆が投下された8月6日に、攻撃を受けた広島の地、つまりきのこ雲の下で撮影された写真を中心に展示している。広島の中心部から撮影されたきのこ雲は、すぐ見上げる場所で迫ってきており、その巨大さを伝えている。

展示風景より、左が山田精三、右が深田敏夫撮影のきのこ雲

 中国新聞社の記者であった松重美人は、爆心地から避難してきた人々の姿を、爆心地から約2.2キロメートルの地点で、葛藤の末撮影した。これらは、死の淵に追いやられている人々の極限的な状況を原爆投下直後に記録した、歴史に刻むべき写真となった。

展示風景より、左が松重美人による御幸橋西詰めの惨状(8月6日)

 さらに本展では、パネル展示により松重が撮影した写真に映った人々のその後を調査した記録も見ることができる。被写体一人ひとりに紛れもなく人生があり、その後も続いていったことを心に刻んでほしい。

展示風景より、写真の中の被災者を追うパネル展示

 第2章「焦土の街 人間の悲惨 〜あの日からの1ヶ月〜」では、原爆投下後直後から、日本の敗戦と降伏調印、占領時代が始まるまでの1ヶ月に撮影された写真を展示している。

 原爆投下翌日の7日には、写真館を営む岸田貢宜が甚大な被害を受けた被災地を撮影した。中国新聞社や毎日新聞広島支局、朝日新聞広島支局も壊滅的な被害を受けたなか、岸田が百貨店の福屋新館の非常階段から市内をパノラマ状に連続して撮影した写真は、投下後の極めて早い段階での市街を記録したものとなっている。その後、他都市より新聞社や通信社の記者たちが広島に入り、様々な被害を記録した。

展示風景より、左上が岸田貢宜による被爆した広島市街地のパノラマ写真(8月7〜8日)

 痛ましいのは、傷ついた市民たちを撮影した写真だろう。焼けただれた皮膚や、包帯で巻かれた四肢、大人も子供も関係なく痛みと苦しみのなかにあることが写されている。なぜ、このような苦難をこの人々が受けなければならなかったのか。立ち止まって考えずにはいられない。

展示風景より、傷ついた市民たちの写真

 第3章「遠い再建 占領下の苦闘 ~1945年末まで〜」は、終戦後も多くの市民が、火傷や放射線で苦しみ、復興への道が遠い広島の姿をとらえた写真を展示している。

 日映の原爆記録映画撮影に志願し、10月より広島を撮影した林重男は、爆心地一帯のパノラマを撮影した。原爆ドームとともにどこまでも続く焼け跡を望むこの写真は、原爆被害を伝える一級の資料になる。

展示風景より、上が林重男による市街地パノラマ写真(10月5日)

 林とともに広島入りした菊池俊吉は、医学班のスチール担当だった。菊池は救護所で治療を受ける市民らの様子を撮影。治療の甲斐なく亡くなっていった人々も多く、被爆後2ヶ月が過ぎても、市民の苦しみが続いていることが記録されている。いっぽうで、バラック小屋が少しずつ建てられ、経済活動が蘇っていく様子も、この時期の写真からはうかがえる。

展示風景より、右が菊池俊吉が撮影した頭髪の抜けた少女(10月6日)
展示風景より、焼け跡のバラックなどの写真

 忘れてはならないのは、こうした貴重な記録写真の数々が残っているのは、撮影者や保管者の矜持があったからだということだ。終戦直後、陸軍は進駐軍の到着に備えて機密書類とともに写真を焼却。進駐軍から報道各社に対しても撮影した写真を提出するようにとの命令もあった。林と菊池のネガも接収されそうになったが、上司であった写真家・木村伊兵衛(1901〜1974)がネガを守ったことで散逸を防いだという。

展示風景より

 また、9月19日にはGHQがプレスコード(報道検閲)を発令して以降、報道機関は自己規制を行い、以降、原爆報道は激減していく。この時期の原爆記録が貴重なのは、こうした報道規制のなかでの小さな戦いをくぐり抜けたからでもある。

展示風景より

 本展の最後には、林による次の言葉が付されている。「このような記録は、私たちの写真が永遠に最後であるように」。残念ながら、いまの私たちの手の中のスマートフォンには、ウクライナ、ガザ、その他世界中で崩れ落ちた建物と、苦しむ人々の姿が映し出される。そして何よりも、あらゆる情報の量が膨れ上がったなか、それらの情報を無視することも容易な時代にもなっている。苦難と苦悩のなかでも広島原爆をとらえようとした、過去のジャーナリストたちの志を目に焼きつけたい展覧会だ。