物流は「舞台裏」ではなくなった。輸送費高騰と地政学リスクは、アート市場をどう変えるのか?
地政学的緊張を背景に、燃料費や輸送費の上昇が続いている。その影響は、美術品を「どう運ぶか」だけでなく、「どのフェアに出るか」「どの作品を見せるか」という判断にも及び始めた。フリーズ・ソウルの推奨物流パートナー「Eythos(エイトス)」とアートフェア「Kiaf SEOUL(キアフ・ソウル)」への取材から、変わりゆくアジアのアート市場を読み解く。※8月29日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。
文=王崇橋(編集部)

国際的なアートフェアへの出展や海外展の開催に欠かせない、美術品の輸送。そのコストとリスクがいま、これまで以上にアート市場の意思決定を左右する要素となりつつある。
中東をめぐる紛争の長期化や地政学的緊張を背景に、世界のサプライチェーンでは航路の変更や燃料費の上昇、輸送能力の逼迫などが続いている。一般貨物とは異なり、温湿度管理や厳重な梱包、専門スタッフによるハンドリングを必要とする美術品も、こうした世界的な物流環境の変化と無縁ではない。
とりわけ、欧米とアジアをまたぐ作品輸送が日常的に行われるアート市場において、その影響はどこまで広がっているのか。そして輸送コストや地政学的リスクの増大は、ギャラリーによるアートフェアへの参加や、そこで展示される作品そのものにも変化をもたらしているのだろうか。
その実態について、今年9月に開催されるフリーズ・ソウルの推奨物流パートナーに選出された美術品物流会社「Eythos(エイトス)」と、同時期にソウルで開催されるアートフェア「Kiaf SEOUL(キアフ・ソウル)」に話を聞いた。

「輸送」は事後的な業務から、出展判断の前提へ
2024年に設立されたEythosは、香港、ソウル、シンガポールを拠点に、美術品や高額資産の保管、輸送、インスタレーション、額装、保存修復、テクニカル・ハンドリングなどを手がける企業だ。今年のソウル・アートウィークではフリーズ・ソウルの推奨物流パートナーを務めるほか、Kiaf SEOULの出展者をサポートし、デザイン・マイアミ・ソウルの優先配送業者にも選出されている。また、セファ美術館で開催されるゲオルク・バゼリッツ展や、タデウス・ロパックのソウルでの展覧会などでも物流・設営を担当する。
Eythosのチーフ・オブ・スタッフ、ゾーラ・アジは、現在の地政学的緊張がアジアの美術品輸送にも明確な影響を及ぼしていると指摘する。とくに影響が現れているのが航空輸送だ。「中東周辺をはじめとする主要な国際貿易ルートをめぐる地政学的緊張は、グローバルなサプライチェーンに新たな不確実性をもたらしています。アジアの美術品物流では、とくに航空輸送と海上輸送の安定性への影響が顕著です」とアジは話す。

紛争地域を回避するための航路変更や飛行時間の長期化、ジェット燃料費の上昇などによって、航空貨物のサーチャージも上昇している。「美術品は、一般的な大量貨物とは異なり、安全性や温湿度管理、迅速なハンドリングを重視する特殊な貨物です。しかし、より大きなマクロ経済の変化から完全に切り離されているわけではありません」。欧米との大陸間輸送が頻繁に行われるアジアのギャラリーやコレクターにとって、美術品の移動にはこれまで以上に慎重な判断が求められているという。
実際、ここ数ヶ月では複数の変化が生じている。紛争地域を避ける航空機の迂回によって、作品の到着までに数時間から数日の遅れが生じるケースがあり、それに伴って輸送中の温湿度管理や不測の事態に備えた計画もより重要になった。また、緊急の燃料サーチャージや一部航路における貨物スペースの制約は輸送費を押し上げている。
保険をめぐる状況も変化している。「保険会社は、とくに不安定な地域を迂回するルートや、複数の輸送手段を組み合わせるケースについて、輸送経路をより慎重に精査するようになっています」とアジは説明する。美術品輸送保険そのものは引き続き機能しているものの、作品が梱包されてから展示・保管先で開梱されるまでを包括的にカバーする、いわゆる「ネイル・トゥ・ネイル」の保険料にも、現在のリスク環境が反映されているという。

こうした状況は、アートフェアへの出展判断にも影響を与え始めている。アジによれば、かつて物流は、ギャラリーがアートフェアへの出展を決めたあとに検討する「事後的な運営業務」として扱われることも少なくなかった。しかし現在では状況が異なる。「いまでは、運賃の見積もりや通関手続きの複雑さ、現地でのハンドリング費用までが、アートフェアの採算性を判断する主要な要素として、最初から計算に組み込まれています」。
つまり、「このフェアに出るか」を決め、その後で「作品をどう運ぶか」を考えるのではない。作品を運ぶためにいくら必要なのかまで含めて、「このフェアに出る意味があるのか」が判断されるようになっているのだ。
大型作品を運ばない? 変わり始める作品輸送
では、コスト上昇に対してギャラリーや美術館はどのように対応しているのか。アジが指摘するひとつの変化が、より早い段階からの輸送計画だ。「直前に手配する緊急輸送は、ますますコストが高くなっています。そのため、ギャラリーや美術館は数ヶ月前から展覧会のスケジュールを組み、割高な緊急輸送ではなく、通常の貨物スペースを確保しようとしています」。
複数の作品をまとめて輸送する「コンソリデーション(consolidation)」も広がっている。作品を1点ずつ個別に送るのではなく、購入作品やアートフェアへの出品作をひとつの輸送にまとめ、クレート内のスペースを最大限活用することでコストを抑える方法だ。

さらに興味深いのが、輸送環境の変化が「どの作品を運ぶのか」という選択そのものにも及んでいる点だ。アジによると、「キュレーターやギャラリーは以前よりも選択的になっており、比較的軽量な作品や、輸送しやすいメディウムを選ぶケースも見られます」。キャンバス作品についても、完成した状態で大きな木枠ごと輸送するのではなく、キャンバスを巻いた状態で送り、現地の専門スタッフがストレッチャーに張ることで容積重量を抑える方法が採用されているという。

美術品輸送費の高騰は、たんにギャラリーの経費を増加させるだけではない。どの作品を海外で見せるのかという、展示や販売の内容にまで間接的に作用し始めているのである。同時に、香港やソウル、シンガポールなどに作品や展示資材を保管する動きも強まっている。海外からアジアへ作品を運び、展覧会やフェアが終わるたびに欧米へ戻すのではなく、次の展示や取り引きに備えて地域内に保管することで、長距離の往復輸送を減らす。
アジによれば、こうした地域拠点の活用によって、国際輸送に伴う経済的コストだけでなく、CO2排出量も抑えることができる。物流費の上昇への対応とサステナビリティという、一見別々に見える課題が、ここでは同じ方向を向き始めている。
それでも、ソウルに出展する理由
こうした物流コストの上昇は、アートフェアを運営する側からも実感されている。Kiaf運営委員会のチェアマンであり、韓国画廊協会の会長を務めるイ・ソンフンは、長期化する紛争や地政学的緊張を背景に、海外ギャラリーが以前にも増して慎重にアートフェアへの参加を検討するようになっていると話す。
「出展を決めたあとも、輸送・物流コストの上昇や地政学的リスクは、ギャラリーにとって継続的な懸念事項となっています」。こうした状況を受け、ギャラリーは参加するフェアをより選択的に見極め、それぞれの市場がもつ可能性や、出展によってどのような価値を生み出せるのかを慎重に判断するようになっているという。
イは、これはアート市場だけに特有の現象ではなく、地政学的・経済的環境の不安定化に対応する各産業に共通する傾向だと見る。しかし、そのような環境下でも、ソウル市場への関心は失われていない。「多くの海外ギャラリーは、ソウルのアート市場が持つ成長の可能性と、Kiaf SEOULがアジアを代表する重要なプラットフォームであることを認識しています」。今年は156軒のギャラリーがKiaf SEOULに再び出展し、そのうち34軒を海外ギャラリーが占めるという。

その背景を考えるうえで重要なのが、アートフェアへの出展価値を短期的な売上だけでは測れないという点だ。「アートフェアは作品を販売するためだけの場ではありません。新たなコレクターと出会い、国際的なネットワークを広げ、長期的な関係を築く重要な機会でもあります」とイは強調する。
輸送費や出展経費が上昇するほど、ギャラリーには「どのフェアに出るのか」「どの都市へ行くのか」をより厳しく選別することが求められる。その意味では、現在の物流環境は各アートフェア、ひいてはそれぞれの都市のアート市場に対して、国際的なプラットフォームとしてどのような価値を提供できるのかを、これまで以上に問いかけているとも言える。
アート市場は「地域化」するのか
では、地政学的な分断と物流コストの上昇は、グローバル化を続けてきたアート市場を「地域化」へと向かわせるのだろうか。
アジは、「地政学的・経済的な摩擦は、たとえ一時的であったとしても、つねに地域化を加速させる要因となってきました」と話す。実際、アジアでは香港、ソウル、東京、シンガポール、台北、そして東南アジアの新たな拠点のあいだで、コレクター層の成長や美術機関同士の交流を背景に、域内のアート経済圏が強まりつつあるという。「コレクターやギャラリーも、自らの拠点により近い地域で作品を売買したり、展示したりすることに、以前より慣れてきています」。

もっとも、これは国際的な作品移動がなくなることを意味しない。アジも、ソウルの主要美術館では現在も世界各地から作品を集めた大規模な展覧会が開催されていると指摘する。グローバルな文化交流そのものへの需要が衰えているわけではなく、むしろ変化しつつあるのは、その交流を支えるインフラのあり方だ。
アジは今後、美術品物流がたんなる「輸送」から、より包括的な「資産管理」へと変化していくと予測する。そのひとつが、分散型の保管ネットワークだ。「数百万ドル規模の作品を大陸間で何度も往復させるのではなく、ギャラリーや美術機関、コレクターが主要な作品を地域ごとの安全な専門倉庫やフリーポートに保管し、必要な展覧会や取引の際だけ移動させるようになるでしょう」。
そこにリアルタイムでの作品追跡、デジタル・コンディションレポート、通関手続きを支援するツールなどのテクノロジーも組み合わされていく。作品を「どこへ運ぶか」だけではなく、「どこに置き、どのように管理し、必要なときにどう動かすか」までを一体的に考える物流へと変わっていくということだ。

同時に、輸送による環境負荷への視線も厳しくなる。アジは今後、「環境負荷の小さい保管方法、再利用可能なクレート、効率化された域内輸送ルートなどがより重視されるようになる」と見る。物流費の削減とサステナビリティへの対応は、今後ますます切り離せない課題となりそうだ。
では、その先にある美術品物流の最大の課題とは何か。アジが挙げるのは、「ますます予測困難になるマクロ経済と規制環境への対応」だ。地政学的な貿易規制の変化、運営コストの上昇、環境負荷への対応が重なるなかで、美術品を扱う高い水準のケアを維持しながら、サービスを利用可能なものとして持続させることには難しいバランスが求められる。
いっぽうで、そこには新たな可能性もある。アジは、美術品物流会社が「取り引きごとにサービスを提供する事業者から、戦略的なエコシステム・パートナーへと変化すること」を最大の機会として挙げる。作品をA地点からB地点へ運ぶだけではなく、保管、設営、現地での制作・加工、テクノロジー、サステナビリティまでを作品のライフサイクルに組み込み、ギャラリーや美術機関の活動そのものを支える役割だ。
地政学的な緊張がいつまで続くのか、そして燃料費や輸送費が今後どのように推移するのかを見通すことは難しい。しかし、作品が国境を越えて移動することを前提として発展してきた現在のアート市場において、「作品をどう運ぶのか」はもはや舞台裏だけの問題ではない。どのフェアに参加し、どの作品を見せ、どの地域に作品を置くのか──物流をめぐる変化は、アート市場における意思決定のあり方、そしてその地図そのものを静かに描き変え始めている。









